2012年3月の地平線報告会レポート


●地平線通信393より
先月の報告会から

トーホクの歩き方

山川徹 関野吉晴 岡村隆

2012年3月23日 18:30〜21:00 新宿区スポーツセンター

■原則、第4金曜日の18時30分に始まる報告会が、節電の影響で2時間繰り上げられた2011年3月25日から1年。「トーホクの歩き方」と題した今回の報告会は、震災直後から東北に入り、救援活動と取材を行ってきたルポルタージュライターの山川徹さんを中心に、探検家の関野吉晴さん、そして山川さんの新著『東北魂 僕の震災救援取材日記』の編集者で、地平線会議の創設メンバーでもある岡村隆さんが登場。まずは自分のミトコンドリアDNAが北海道の縄文人に近いことからアイヌやマタギに関心を持ち、東北・北海道に通うようになったという関野さんの“医師の目で見た東北”から話はスタートした。

◆震災が起きた時、ジャワ島にいたという関野さんは、帰国後、保健医療NGOシェアの一員として気仙沼に入る。建物の下敷きになるケースが大半で、救急医や外科医の仕事が多かった神戸に対し、死者、行方不明者のほとんどが溺死した東北では、病院で診る多くは慢性疾患の患者さんだった。3日目以降は褥瘡の処置が多く、慢性疾患を見たことのない救急医が、対応に苦慮する場面もあった。「東北と神戸は全く違いました」という。

◆その後、関野さんが入った南三陸町歌津は、人口5000人の町にクリニックが1軒のみ。クリニックを流されながら診療を続ける医師が「町の大半が流された歌津では、戻ってくる人はよくて3000人。それでやっていけるか不安だけど、それでもやらなければ……」と話したように、そもそも震災前から東北は医療過疎地だった。

◆もうひとつ。支援物資をなかなか受け取ろうとしない、東北の人の控えめさについて。「コミュニティが残っている=回りの視線を気にする東北では、自分だけ物資をもらうわけにはいかないという遠慮があります。だからこちらが工夫して(受け取ることができる)環境をつくる必要があるんです」。遠慮の裏にあるのは、他人の視線、つまり何かすれば、すぐに周囲に広まってしまう共同体の存在で、「よくも悪くもそれが抑制となって、買い占めなども起きなかったのではないか」と関野さんはいう。

◆そんな東北を隈なく歩き、作家の佐野眞一さんや重松清さんから嘱望されている若手ライターです、と紹介されて、ここで山川さんにバトンタッチ。関野さんも、後で登場する岡村さんも「こいつは脳みそも筋肉でできているんです」という山川さんの父親のことばを口にしたように、ラグビーで花園にも行った筋金入り体育会系の山川さんは、山形県上山市の出身。「競馬場、映画館が潰れて、子どもの頃は5〜6軒あった本屋さんも今は1軒。国道沿いで目を引くのはラブホテルとパチンコ屋くらいというしょぼい町です。でも、これは上山だけじゃなくて東北全体、あるいは九州などでも同じでしょうけど」。

◆“いつも見られている感じが嫌で、早く田舎から出たかった”という山川さん。だが、仙台の大学に在学中、編集者の土方正志さんと出会い、彼が編集に携わる雑誌『東北学』、『仙台学』に関わったことから、“嫌いだった東北”を歩き始める。

◆自然災害の取材を続けてきたルポルタージュライターでもある土方さんが2005年に仙台で立ち上げた荒蝦夷は、東北にこだわった本づくりで知られる出版社。その荒蝦夷も、今回の震災で被災してしまう。「行かなきゃと思いつつ、東北には友人知人がたくさんいるし、地縁・血縁が濃いところなので、話を聞くのがしのびない気がして。それにテレビを見てビビっていたし……」。二の足を踏んでいた山川さんを“お前はそういう現場を歩きたかったんじゃないのか!”と叱咤し、背中を後押ししたのは、やはり土方さんだった。

◆震災直後、荒蝦夷のスタッフに、自分の実家に避難してもらった山川さんは、荒蝦夷の業務再開のために2週間、山形で奔走。その後はカメラマンの亀山亮さんとともに、キャンプや野宿をしながら2〜3週間、被災地を巡る。結局、東京を出たきり1カ月間、東北に居続けた山川さんは、ひと月に1週間〜10日間、東北に来ることを自身に課して、友人・知人がいる石巻や女川を中心に被災地を巡り続けた。

◆歩き続けるなかで、山川さんが抱いた最初の違和感が地名だった。今回、取材で通った三陸沿岸を走る国道45号線沿いは、山川さんが学生時代、仙台から大間崎まで自転車で縦走した道。だが、平成の大合併で、雄勝、河北、河南、牡鹿、北上、桃生、そして石巻と、7つの町と市が合併した石巻市は、報道ではどこまで行っても「石巻」と、ひとつにくくられてしまう。「三陸沿岸には、小さな浜が無数にあります。去年、ここで報告した保福寺の八巻さんがいる女川には25〜26の浜があって、彼が住む尾浦は銀鮭養殖が盛んだけれど、カキ・ホタテの養殖、水産加工、林業、原発……と、生業は浜ごとに違うんです」。

◆地名に加え、山川さんのなかで日が経つにつれ、大きくなっていったのが“復興”ということばへの違和感だった。「生業によって、生活再建への道筋もコストも、行政のサポートも異なるのに、復興とひとくくりにいうことで、それぞれが歩もうとしている道筋を見えにくくしているんじゃないか。そう思うと、復興ということばに腹が立って……」。

◆「復興の目途って何?」。震災から1週間後、仮設住宅の建設の始まりを伝えるワイドショーのレポーターの、“これでようやく復興の目途が立ちます”という発言を聞いて、荒蝦夷でアルバイトをしている気仙沼出身の女性は、ぽつりともらした。「そのとき彼女の父親はまだ見つかっていませんでした。一家の柱を失った家族に先の見通しなどなく、それでも新しい道を歩み直すしかない。そういうときに東京発の“復興”“絆”“がんばろうニッポン”みたいな便利なことばが、身内を失い、帰る場所を失ったひとたちの苦しさを奪っているんじゃないか。彼らと一緒にいてそう思ったんです」。

◆そもそも体育会系の山川さんがジャーナリストに憧れたのは、高校時代、たまたま本屋で戦場ジャーナリスト、沢田教一の『泥まみれの死』を手にしたことがきっかけだった。「写真とエッセイを通じて彼の人生を知って、こんな場所(※沢田教一は青森県出身)から世界で活躍する人が生まれるなら、自分ももしかしてド田舎から抜け出して海外に行けるかも、というテンションにしてくれたんです」。

◆腹をくくることができたかどうかわからないけれど、荒蝦夷の人と歩いた町や浜が破壊されてしまったのだから行くしかない。そう思って被災地に赴いたものの、運転の得意な自分がガレキに突っ込んでリアガラスを割ったり(請求金額20万円!)、同行した亀山さんともけんかをしまくったりと、「最初は自分の精神状態も無茶苦茶でした」と、山川さんは震災当初を振り返る。

◆シャッターを押さないことには始まらないカメラマンの亀山さんは、“取材だから撮影させてください”という。だが、被災者の心情にあまりにも添っていた山川さんは、その“取材”ということばに、“地名”や“復興”同様の違和感を覚えたのだろう。「亀山に“取材ってことばは使わずに取材しよう”とかわけのわからないことをいって。取材って何だろうと思いながら、現場を歩いていました」。

◆家族や家、生活の基盤をすべて失った人たちに、どんなふうに話しかければよいのか。話などしてくれないのではないか。そんな山川さんの不安はほとんど杞憂に終わり、ほとんどの人は自分に起きた出来事を語ってくれた。北大西洋の調査捕鯨にも同行し、捕鯨問題を取材している山川さんがそのとき思い出したのが、捕鯨船に乗ったときのことだったという。「今、捕鯨の現場で頑張っている乗組員は、仕事を始めたときから反捕鯨の論理に晒され、自分の仕事を否定されているんです。だから外部の人間が、彼らの仕事を肯定的に聞くことはカウンセリングになるみたいで。それに近い感覚は、被災地でも感じました。もちろん僕は書くために足を運んでいますけど、何度も通って顔見知りになって、彼らの家族・仕事・将来の話を聞くことも自分の仕事の役割かな、と」。

◆復興ということばへの違和感から始まった山川さんの取材は、今、復興とは何かという自身への問いになっている。「東京からアマゾンなどを経由して、仮設住宅に電化製品を送る支援活動があるんです。それは善意だろうし、被災者にモノが届くのはいいけれど、結局得しているのはアマゾンじゃないか、町をよくする方法はほかにもあるんじゃないかと」。郊外型の大型スーパーマーケットに押され、すでにその多くがシャッター街になっている東北の商店街。そこでしぶとく生き残ってきた個人商店主が、支援によって息の根を止められてしまう。現地を知らない人にとっては耳の痛い話だが、これもまた被災地の現実なのだろう。

◆もうひとつ、山川さんが気になっているのが、震災直後の11、12日に、被災地で何が起こっていたかということ。大手メディアが現地に入る前の2日間については、さまざまな噂が流れた。「女川辺りでは、行方不明者が発見されると、“指輪や時計を盗むために手首が切られていた”と話す人がいまだにいて。震災直後の48時間に何が起きたか、今後、記録できればと思います」。

◆「自分自身は震災について、まだ、見たこと、聞いたこと、考えたことを人に語れるところまで、ことばが醸成されていません。自然という大きなところから見る被災地の風景と、個々の人間が亡くなった現場の悲惨なディテールが上手くつながらないというか……」。休憩をはさんで話を引き継いだ岡村隆さんは、でも、というか、だからというか、編集者としてやるべき仕事をしようと、この1年間、本をつくることに力を注いだという。そのひとつが『望星』での連載時から、1冊の本にまとめる価値がある内容だと思ったという山川さんの『東北魂』であり、山折哲雄さんと赤坂憲雄さんの対話集『反欲望の時代』であり、そして経済を最優先し、欲望を制限せずに進んできた私たちの在りようを省みようと提案する『小さな暮らしのすすめ』だ。

◆東京にいた多くの人が、一瞬立ちすくんでいたなか、東京を出たきり1カ月間、救援と取材を続けた山川さんを前に、「東北を歩くなかで、彼は被災者といわれる人たちの魂と、そして東北をルーツとする自身の魂と出会ったのではないか。だからこの本のタイトルは『東北魂』で行こうと決めました。災害はジャーナリストを育ててくれるというように、この本を書くことで、山川は書き手として成長したと思います」と岡村さんはいう。この道50年のベテラン校正者が、どうしても原稿を読んでしまって、(校正に)見落としがあるかもしれない。そして何か所かで泣いたという裏話は、『東北魂』を読んだ人なら、きっと納得できるに違いない。

◆なぜ東北に通っているんですか? という会場からの問いに“今はかわいそうだから、と応えるかもしれない”と山川さん。津波によって壊滅状態になってしまった地域は、それ以前から崩壊寸前だった。知り合いもたくさんいるので放っておけない……。かわいそうということばは、決して上からの目線ではなく、東北を隈なく歩いてきた山川さんの、掛け値なしの実感なのだろう。「東北という土地が嫌いといっても、東北の人が嫌いなわけではないし、縁を断ち切れるわけでもないし……。結局、大嫌いだった東北の人間関係の強さ、地縁、血縁に支えられて、この本を書くことができたという気はしています」。

◆被害の状況、失ったもの、精神的なダメージ、生活を再建するための道筋は、いずれも人それぞれ。それは当たり前のことなのに、復興ということばでひとくくりにされることで、一人ひとりの苦しみも、希望も見えにくくなってしまう。山川さんの根底にあるのは、そのことへの強い違和感なのだろう。

◆震災後、自動車や電気製品の部品、紙、などの生産がストップしたことであらためて明らかになったように、大消費都市・東京の食料、工業製品、労働力、電力の供給地だった東北。「誤解を恐れずにいえば、東北はずっと東京の植民地のような状況だった……」と冒頭で語った関野さん。欲望を広げ過ぎた自分たちの暮らしを見直そうと提案する岡村さん。そして震災後の東北を歩き続ける山川さんの話は、すべてつながっている。そのことを自分なりに考え続け、考えたことを行動に移していかなければ何も変わらない。東北が嫌いだった山川さんの、東北と向き合う覚悟が伝わってくる話を聞いて、そんなことを思った報告会でした。(塚田恭子


報告者から

いまも、まだ多くの人が、心のなかで泣き続けている。まだ何も終わっていない──。

 3月23日21時30分。地平線会議で、ぼくが歩いてきた三陸の被災地の報告を終えて、携帯電話の電源を入れた。1通のメールを受信。石巻に暮らす大学時代の先輩Oさんからだった。

<今全部終わった。尾浦の和尚に立派な葬式してもらったから。(略)尾浦の婆さんのも一緒にやったから安心した。別れの言葉をって言われたから、昨日の夜、書いてたんだけど、思い出すと泣けてきてぜんぜん書けなかった。尾浦の人の顔もなんぼか覚えてきたから、今度何か取材すっとき協力すっから>

 Oさんの母方の実家が女川町尾浦にあった。体調を崩して長い入院生活を送っていた祖父は津波を生き延びたが、祖母が波に飲まれて海に消えた。

 震災直後から被災地を歩いていたぼくが、Oさんとともに尾浦で家の片付けを手伝ったのは、4月2日。三週間が過ぎたというのに、尾浦も、Oさんの祖父母が暮らした家も手つかずのままだった。Oさんが幼いころから親しんだ家の二階部分の壁は、漁網が絡まった電柱に貫かれていた。ひょっとしたらまだ家のなかにいるんじゃないか。そんな憶測を抱かせるほどの有様だった。

 Oさんは、祖母の家を片付け、亡骸を捜しながら、涙を零した。ふだんは冗談ばかり言っている陽気な男が「言葉がねえ」と声を絞り出して。

 Oさんの涙の引き金になった風景がある。

 被災三日目の朝。Oさんは石巻の町を見下ろせる日和山公園に登った。眼下に広がる瓦礫の海に叫び声が響いていた。

「誰かいませんか!」「返事してください!」

 行方不明者を捜し歩く消防士や自衛隊員の叫びだった。自分と同じようにこの町で、生まれ育ち、日常を送っていた人が瓦礫のなかに埋まっている。現実に戦慄を覚えた。以来、些細な出来事で涙が流れるようになったという。

 尾浦の人口は、200人に満たない。70軒のうち68軒が流失し、死者・行方不明者は19人を数えた。

 小さな浜が置かれた現実を見た。その後、何度も尾浦に通った。地平線会議の報告者でもある尾浦の保福寺の住職、八巻英成さんにも話を聞いた。

 春になり、夏が過ぎ、秋を迎え、再び冬が訪れても、Oさんの祖母は見つからなかった。

 はじめて尾浦を訪ねた日。Oさんはいった。

「見つかったとしても、身内でも見分けがつかなえんだろうな」

 いま、振り返ると当時は、まだ「見つかる」という希望を抱いていた。会うたびに「まだ見つからない」と繰り返した。彼は、ずっと見つけた遺体を荼毘に付してやりたいと願っていたのだ。

 いつからだろうか。いつ葬式をするか、という話題を切り出したのは。

 2012年3月11日。石巻に足を運んだぼくは、Oさんと酒を呑んだ。Oさんは、まだ祖母の葬式の日取りは決めていないが、合同法要に出席してきたという。やっぱり流れる涙が止まらなかった。泣きじゃくる父の姿を3歳になる娘が不思議そうに見ていたという。その日、彼はいった。

「もう1年だ。オイ(オレ)は、婆さんの葬式をあげてやってもいいと思っているんだけど、親戚のなかにはまだ割り切れねえっていう人もいるんだ。その気持ちはオイにも分かる。生きている可能性が1%くらいあるんじゃねえか。もしかしたら見つかるんじゃねえか。そう思う瞬間は、オイにもあるから」

 それぞれの割り切れない思いを変えたのも、ひとつの死だった。

 3月21日。闘病中の祖父が逝った。祖父と祖母を一緒に送る──。誰も異論はなかったという。

<安心した>

 メールにあったOさんの言葉は率直なものだろう。振り返れば、この1年、Oさんは会うたびに泣いていた。ついさっきまで学生時代のように冗談をいいあっていたのに、ふとした会話の拍子に、風景の変化に、涙を流した。

 その涙が、哀しみなのか、憤りなのか、悔しさなのか……。ぼくには、いまも分からない。

 夏の夜、彼が諭すように語った言葉が忘れられない。ぼくらは、石巻で自動車を走らせていた。営業を再開したファミレスや居酒屋で多くの人が食事していた。街灯や信号もついているし、道路の陥没も補修されていた。「石巻も普通に戻ってきましたね」というぼくに彼は話した。

 「普通に見えるかもしれないけど、誰もまだ吹っ切れていないんだ。みんなテレビがいうようにがんばっているし、前向きに生きたい。でもな、それは、町のひとつの側面でしかないんだ。店が営業をはじめて、電気がついて町が明るくなって、瓦礫が片付いても……。まだまだ、普通になったとはいえないと思うんだ。石巻っていっても、みんなそれぞれだ。オイみたいに何も被害がなかった人もいれば、知り合いみたいに小学生の子どもをふたり亡くした人もいる。みんなどんな気持ちでいるのか。笑っていても、心のなかで泣いている人がたくさんいるんだ」

 いまも、まだ多くの人が、心のなかで泣き続けている。まだ何も終わっていない──。

 一年間、三陸の被災地を駆けずりまわった。はっきりといえるのは、そんな当然の事実だけだった。(山川徹


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