2012年1月の地平線報告会レポート


●地平線通信390より
2012年特別企画 森田靖郎報告会全記録

サヨナラの理由(わけ)

森田靖郎

2012年1月27日 18:30〜21:00 新宿区スポーツセンター
 地平線通信では、毎月の報告会の内容を「報告会レポート」として通常2ページにまとめている。今回、1月の報告会を聞いていて、そういう「まとめ」では真意は伝わらない、と判断した。以下、久島弘さんの力を借りて、森田靖郎さんが語ったことの全文を記録する。(E)
■米中電脳ウォーズ、一触即発の「政治の年」■

 今年は「政治の年」とか言われています。アメリカの大統領選、ロシア、中国……、台湾はすでに終わっています。その国のリーダーをどう判断するのか、が問われる年になっているんです。日本もかなり重要な年になるだろうなと思います。

 江本さんに聞くと、地平線会議も今年は報告会400回を迎える、節目の年ということで、その年頭に呼ばれるのは大変な光栄なことで、「ぼくなんかでいいんだろうか」と恐縮しています。

 「森田の話はノドが渇く」と言われているそうです。確かに、ぼくは殆ど休みなしの話しっ放しが多く、皆さん方に、水を飲んだりお茶を飲んだりの暇を与えないのかも知れません。今日は、ビールはマズいかも知れませんが、水とかお茶はどんどん飲んで戴いて、無くなったら自販機に買いに行っていただければ……。ぼくは気にしませんから。

 昨年、アメリカの小さな都市で公聴会がありました。

 いまアメリカは、中国のサイバーテロに凄く悩んでいます、と言うか怒っています。「今度、もし軍事施設とか国家機密にサイバー攻撃したら、アメリカは確実に武力で応対する」と。サイバー部隊、サイバーコマンドも結成しています。

 これに対して中国は、「ハッカーの先進国はアメリカだ。我々はアメリカのコピーをしているだけで、今もハッカーの脅威はアメリカが一番大きいんじゃないか」と反論しています。で、中国も優秀な人材を集めて、網絡(ネット)藍軍という精鋭部隊を作って対抗しようとしている。アメリカと中国のコンピュータウォーは、もう一触即発。そんな緊張感に包まれて帰ってきました。

■大震災の陰に「犯罪あり」■

 年が明けて、身内に不幸があり、法事などに追われていました。その時に、「生ける死者」という話を聞いたんです。それは、見る、触る、という五感的とは違う世界で死者を思う。死者を受けとめる人がいないと、自分自身も「生きている」ことの存在に疑問を感じる、というような難しい話で、ぼくは殆ど理解できなかったんですが。ただ、この「生ける死者」という言葉で、ぼくは福島の原発のことを思い浮かべたんです。

 これは本来の「生ける死者」とは全く正反対で、福島の原発は、原発としては機能していない「死に体」です。でも、その存在は我々に脅威を与えています。生き続ける「死に体」「生き続ける死者」みたいな感じを受けたのです。

 昨年の3月11日、東日本大震災がありました。それから2週間後(3月25日)、ここで地平線会議が開かれました。たまたま、その時の報告者がぼくだったんですけれど、「報告会は無理だな」と思ったんです。計画停電がありましたし、会場の節電や帰りの電車の問題がありましたから。ところが、地平線会議の皆さんのご努力があって「時間を繰り上げてもやる」と。そして、あの状態でありながら大勢の人が来て下さって、ぼくはとても感激いたしました。その気持ちは、今も全然変わりません。

 あの時、冒頭で17年前(1995年1月17日)の阪神・淡路大震災の話をしました。ぼくの実家も多少被害があり、何度か神戸に帰ったんですけど、その際、ドサクサに紛れて神戸港から密入国している中国人がいる、という話を聞きました。

その真相を追って書いたのが、『密航列島』という本です。これは朝日新聞社から出して、その後、講談社から文庫本になりました。震災などがありますと、必ず、その後に火事場泥棒的な犯罪が起きます。

 2010年、ハイチで大震災がありました。この時、中国人百数十人が行方不明になった、というニュースがありました。「ハイチで、なんで中国人が?」と思われるかも知れません。ぼくもハイチに取材に行ったことがあるんですが、ここは中国人がアメリカに密入国する中継地点なんです。ハイチは世界で一番美しい国といわれる、カリブ海に浮かんだ国なんですが、一方で世界で一番貧しい国、とも言われています。

 人間の糞を牛・馬が喰う、というのはどこでもある話なんですが、この国では反対です。牛・馬の糞を人間が喰うという話があるような国です。そんな貧しい国で、中国人たちは安い料金で滞在して、パスポートを買ったり、あるいはアメリカに密入国する。その中継地点で地震に遭ったんですね。ま、10人くらいは助けられたんですが、100人くらいの人たちは今も行方不明のままです。

 そうした最中に、地震で家や両親を失った子供たち300人くらいが、アメリカの教団関係者にドミニカに連れて行かれ、そこで強制労働とか人身売買されていると、プレヴァル・ハイチ大統領は、異例の声明を出しています。また、遺族に断りなく、被害にあった人から臓器が摘出されていると、イスラエルの医師団が報告をしていました。その医師団の中に、中国人の医師団がいる、という話を聞き中国に問い合わせたんですが、もちろん中国はそれを認めるわけがないんですね。

 2009年にスマトラ沖の大地震がありました。この時も、家や親を失った子供たち400人くらいが、やはり強制労働、人身売買のために連れ去られる、という犯罪がありました。そして被害にあった人から臓器が奪われています。

 こういう地震とかの陰には「犯罪アリ」です。今回の東日本大震災では、そういう痛ましい犯罪は聞きませんでしたが、被災地を訪れる中で、福島でこういう話を聞きました。

■原発手配師の影?■

 原発の事故直後に、復旧作業のために沢山の人が入りました。その後、東京電力が健康状態を調べようとしたら、60人くらいと連絡が取れない。東京、大阪、あるいは外国人労働者、いろんな人たちが復旧作業に入りました。事故の直後ですから、その時に名前・住所を正確に書き留めていたかどうか、ちょっと難しいのですが。

 17年前の阪神・淡路大震災の時に、神戸港から入ってきた密入国者の中に、密航費用を支払えない人がおり、蛇頭に「臓器を売るか、原発で働くか」と脅されています。原発で働くことと臓器を売ることは同次元の話ではありません。原発で働くのはれっきとした労働ですが、蛇頭は脅し文句として使ったんですね。原発手配師というのがいて、実際に原発で働かされた中国人が何人かいます。ぼくも、そういう人を取材したんですが、彼らは「C区域」という、5分ごとにアラームが鳴るような最も放射能の多いところで、30分働いて1万幾らの仕事をしていました。電力会社や関連会社の人たちが作業に入る前の除染作業ですから、危険です。けれどお金がいい。ハイリスク・ハイリターン。これは中国人が一番好むタイプです。これでお金を稼いで、密航費用を支払う。

 そんな話を以前聞いていましたから、今回もひょっとして、そういう原発手配師が動いているんじゃないか、と思って大阪に行きました。

 大阪には、カネ目当ての不法な外国人労働者、ホームレス、日雇いの労働者が集まる区域があるんです。その中に、福祉センターがあります。福祉センターでは、そういう人たちに仕事を斡旋するために、掲示板に求人広告を出すんです。

 やはり、福島の事故から5日目くらいに、求人広告が出ていました。「宮城県の女川町で10トンダンプ運転手を求む」という募集ですが、2人の男性が応募して、働きに行ったそうです。

 ところが、「宮城県ではなく、福島の原発の現場で働いていた」と帰ってきた2人の報告で、明るみに出ました。

 ぼくはすぐ、求人の広告主を岐阜県に訪ねました。すると、「どこで働くかは私たちも知らなかったが、ダンプ運転手を2人欲しいというので求人広告を出した。中身は知らなかった。ただ現場が違ったんで日当は倍払いました」という話でした。

 もう少し詳しく調べてみると、その2人は、福島原発の4号機と5号機から数十メートル離れた敷地内で給水塔に水を運ぶ作業をしていました。まだ事故から1週間も経たない頃ですから、線量計とかも持たされず、安全チェックもなかったらしいです。

 こういった原発手配師の取材から、3・11以降、日本では「貧困ビジネス」が非常に増えていることが判りました。「貧困ビジネス」というのは、貧困な人たちを相手にするブローカーです。生活保護を受ける人などを利用して、中間費用を取っているのです。

 取材しながら、「囲い屋」という裏ビジネスが存在することも突き止めました。こういった話は、ついこの間出した『原発・蛇頭列島』(App Store グリフォン書店)という本に書きました。これは先の『密航列島』に大幅に加筆したものですが、「本」と言っても、実は電子書籍です。ぼくは昨年、電子書籍を3冊くらい出しました。これをどんなふうにして買い求めて読むかは、また機会があればお話します。

■日本の来た道・行く道。原発史「正太郎くん」とは誰か■

 今日は、「日本の来た道・行く道」をベースにして、とくに原発がどうやって日本に生まれたのか、誰が持ってきて、その後日本社会がどのように変わったのか。そこにはなにか大きな力が働いていたのではないか、といった話をしようと思います。

 ただ、この話は皆が知っている話です。江本さんによると、「2月、3月もこういうテーマで続けてゆく」ということなので、その前の予備知識に、平ったくオサライするくらいの積りで、聞いてください。

 ぼくが原発に興味を持ったのは、中学生か高校生の頃です。当時、テレビのアニメで、「鉄人28号」というのをやっていました。原作のマンガはもっと早く出ていて、テレビのアニメになったのが1960年くらいです。

 そのアニメの鉄人28号は、もちろん正義の味方・ヒーローなんですが、原子力エネルギーで動くんです(注:森田氏の記憶違い。原子力エネルギーで動くのは同じ作者の「ジャイアントロボ」)。「ああ、これは凄いな」「原発が日本に来たら、日本はまた発展するだろうな」と、単純に思っていました。 それが80年になってリメイク版が出ました。既にぼくは社会人ですが、子供時代を懐かしんで見ていますと、かなり設定が変わっているんです。鉄人28号は原子力じゃなく、太陽エネルギー転換システムで動いているんです。

 考えてみると、その前年の1979年に、アメリカのスリーマイル島で原発事故がありました。どうやら、このことを気にして原作者か、テレビ局か、あるいはスポンサーかが、設定を変えたんじゃないか、と思いました。主題歌も「太陽の使者・鉄人28号」になっていました。

 それよりもぼくが気になったのは、鉄人28号をリモートコントロールで動かしている、「正太郎くん」っていう少年です。少年なんですが、背広・ネクタイで車を運転しています。多分、このマンガ本が出た戦後すぐの日本人のイメージとして、背広・ネクタイ・車が憧れだったんでしょうね。ぼくは、この「正太郎くん」は何者なんだろう、モデルがいるんだろうか、ということが気になりました。

 敗戦から4年目の1949年、湯川秀樹さんが、日本人で初めてノーベル物理学賞に輝きます。それから2、3年してサンフランシスコ講和条約が締結され、日本でも原子力研究が解禁になります。

 そして、湯川さんの元に、その後にノーベル賞を受賞する朝永振一郎さんとか、中間子論、素粒子論をやっている学者が集まってきます。彼らはみんな核兵器廃絶論者ですが、「日本でも原子力を平和利用できないか」という研究が始まったのです。その研究が始まって2年ほどした1954年、読売新聞に大々的に「ついに太陽をとらえた」という記事が連載されます。この太陽というのは、ミニ太陽、つまり原子炉のことで、日本でも原発が実現するという凄い夢の話です。これを掲載したのが読売の社長、正力松太郎です。

 正力さんは、その1年前に、アメリカから直輸入のテレビネットワークを持ち込んでいます。後の日テレですね。そして、「原発はテレビとは違う。いち民間企業が行えるものではない。これは政治家と相談しなくてはならない」と声を掛けたのが、中曽根康弘さんです。中曽根さんは再軍備論者で、共産主義が大嫌いな人です。ですから、「原発が日本に出来たら経済も復興する。そうすれば日本は共産化されないだろう」という考えで、これを国会に予算として出しました。これが「中曽根予算」と言われる初の原発予算です。当初、2億6千万円を国会に通しました。そうして、正力松太郎が原子力委員会の初代委員長になります。

 ぼくは、「正太郎くんは、ひょっとしたらこの正力松太郎ではないか」と思っています。確かめた訳じゃないんですが、自分ではそうしてあるんです。

 その日本の原発のモデルとなったのは、アメリカとイギリスです。とくにイギリスです。イギリスの原発は燃料に天然ウランを使います。アメリカの原発は濃縮ウランを使います。広島に落とされた原爆が濃縮ウランなので、被爆国の日本としては、どうしても抵抗があったんです。正力さんなどは、イギリスの「コールダーホール型」の原子炉にほぼ決めていた。で、イギリスから動力大臣らを呼んで研究を始めました。イギリスの原発を作ったのは、世界で初めてジェット旅客機を設計したエンジニアと、バーミンガム大学で原子核物理学を研究した科学者たちです。電力会社も動き出しました。

■日本のファーストアトミック■

 東京電力では社長室に原発課が生まれます。これが「ファーストアトミック」です。入社して3年8か月くらいの、信濃川水系の最奥にある切明(きりあけ)発電所の建設に携わっていた池亀さんという若手のエンジニアが、「君が原発やれ」と主任の豊田さんから言われて原発課に行きます。猪苗代発電所にいた池亀さんの1年後輩の佐々木さんというエンジニアも東京に呼ばれます。主任の豊田、池亀、佐々木この3人から、東電のファーストアトミックが始まるんですね。

 東京電力は、原発について、経済性と安全性に重きを置いていました。経済性、つまり原子炉の設備、建設は池亀さんが担当しました。そして安全性は、佐々木さんが廃棄物処理と放射線をやることになります。その頃、日本はイギリス型でしたから、電力会社も原発関係者も皆イギリスに留学してゆきます。池亀さんもイギリスの「ハーウェル・リアクター・スクール(原子炉学校)」に留学しました。そんな中で、たった一人、佐々木さんだけがアメリカの「アルゴンヌ国立研究所」に留学します。ここはシカゴ大学の系列ですが、この大学は原爆を作ったマンハッタン計画の中心となったところです。このアルゴンヌ研究所では、原爆の起爆剤のプルトニウムなどの研究を行っていました。ここで佐々木さんは、原発と原爆の違いとか、プルトニウムとウラニウムの違いとか、そういう研究を重ねてゆくのです。

 アメリカでは、マンハッタン計画を進めていた人たちが、原爆から一転して原子力の平和利用を進めました。これがAEC(原子力エネルギー委員会)と呼ばれるものですが、その頃から、国内での原発より、むしろ海外に輸出する考えの方が強かったんです。

 原発に関して、経済的なコストの問題、メンテナンスの問題、事故が起きたらどれくらいのお金が掛かるか。そういうことは、既に研究して費用が弾き出されていました。そこで、これは国内におけるビジネスより、海外に輸出した方が商業ベースに乗ると、アメリカは判断したようです。

 アメリカが原発を海外に輸出するもう一つの目的は、ウランです。ウランは第二次世界大戦の先勝国が管理していました。これが国連の方のAECに繋がりますが、実際はアメリカのNRC(原子力規制委員会)が牛耳っていたのです。その頃すでに、アメリカはウランルートを作っていました。そこには、核拡散を防ぎたい、ウランで世界の核燃料を握りたい、という狙いがあったのだと思います。

 ある日、東工大の武田栄一先生が、佐々木さんがいるアルゴンヌ研究所にやって来ます。日本の大学でもそろそろ原子力科が出来つつある、その準備と、たった一人で留学している佐々木さんを元気付けるために来たのです。

 日本がイギリスに傾いていた頃、イギリスのウインズケールという所で、コールダーホールの原子炉が、原発として初めての事故を起こしました。日本は大きなショックを受け、「イギリス型ではなく、アメリカ型がいい」ということになったのです。

 当時、アメリカはあちこちで核実験をやっています。その一つビキニ島の水爆実験で、付近を航行していた第五福竜丸が不幸にも被爆し、死者も出ました。本来なら日本政府はアメリカに損害賠償を求めるべき立場です。が、それどころか、アメリカの核実験そのものに理解を示しました。その替わり、「原子炉を早急に送って欲しい」、ということになったのです。日本のファーストアトミックは、第五福竜丸の事故の被害と引き替えに生み出されたのです。

■原発の目指す頂上は高速増殖炉■

 ぼくらが原発を身近に感じるようになったのは、70年の大阪万博です。あの灯りは、関西電力の美浜原子力発電所から送られてきました。ぼくらも見に行って感激したものです。その時の合言葉は「次は東電の福島原発だ」で、翌年には稼動しました。当時、日本では最大の発電量でした。3・11の時に事故を起こした福島第一原発です。

 日本に当初にもたらされた原発は「トイレなきマンション」と言われました。トイレとは核燃料サイクル、つまり使用済み燃料の再処理システムを持たない原発なんですね。原発を始めた以上は、核燃料サイクルを持つ原発に至らなければならないんです。

 原発が燃料とするウランはわずか0.7%しか核分裂を起こさず、99.3%は燃えないんです。この燃えないウランに高速中性子をぶつけて生み出されるのがプルトニウムです。使用済み核燃料を再処理する核燃料サイクルで生み出したプルトニウムを繰り返し再利用してゆく原子炉こそが、高速増殖炉、「常陽」や「もんじゅ」なんですね。日本の原発のすべては高速増殖炉「もんじゅ」に至る過渡期で、そこに至らなければ原発をやる意味がないんです。この「もんじゅ」こそが「トイレ付きマンション」という訳です。

 これはアメリカもイギリスもフランスもドイツも同じで、原発先進国といわれた国々は皆これを目指しました。山で言えば頂上で、どこが最初に登頂するか、という競争に入りました。

 ところが、この高速増殖炉はとても厄介な難攻不落のピークです。日本のアメリカ型原子炉は軽水炉といわれ、水で冷やします。ですから福島の原発が事故を起こした時、さかんに放水して冷やし、最後には原子炉を放棄する覚悟で海水を使いました。

 けれど、「もんじゅ」のような高速増殖炉は、燃やした燃料をナトリウムで冷やします。ナトリウムは水と触れると自然発火します。

 また、「もんじゅ」で使われているプルトニウムは原爆の起爆剤でもあります。一つ間違うと原爆になってしまうのです。もし、福島の原発が「もんじゅ」だったら、あの事故は水爆でなく原爆だったと想像するだけで恐ろしくなります。被害は何十倍になっていたかも知れません。

 イギリスでもフランスでも、次々にナトリウム漏れの深刻な事故が起きました。フランスのスーパーフェニックスなどは非常に期待された高速増殖炉だったんですが87年にナトリウム漏れを起こします。90年代になりますと、ドイツもフランスもイギリスも核燃料サイクルから撤退します。山で言えば登頂断念ですね。

 アメリカも、カーター大統領が「人間が制御できるギリギリは軽水炉まで」と高速増殖炉をあきらめます。ただ一人、日本だけが難攻不落の高速増殖炉を目指しました。

 1970年代後半に、アメリカは日本にも撤退するよう言ってきました。核燃料サイクルで取り出すプルトニウムは核兵器に転用することができる。アメリカは、日本が核兵器を持つんじゃないか、という疑いを持ったからです。しかし、日本はこれを受け入れず、突き進みました。

 やはりと言うべきか、95年、日本でも「もんじゅ」がナトリウム漏れの深刻な事故を起こします。「核クラブ」と呼ばれる原発先進国の人たちが、「もんじゅは諦めた方がいい、これは我々のデッド・コピーなんだから、同じことを繰り返すだけだ」と進言しましたが、日本は受け入れませんでした。

■原発との「正しい別れ方」■

 「核クラブ」の国々は高速増殖炉を諦めた時点で、ある意味ではゆるやかな脱原発の道に入った、とぼくは思います。山で言えば、ピークを諦めた以上、下山しかない訳ですから。数日前にあったアメリカのオバマ大統領の一般教書でも、「クリーンエネルギーは、中国やフランスに譲らない」と脱原発の道を探っています。

 数年前、原子力が専門の先生と話したときに、「原発には正しい別れ方がある」と聞きました。「それは女と別れるのと一緒で、感情的になったらダメなんだ」と。女と別れるは、先生のジョークですが、ぼくは「原発の正しい別れ方って何だろう?」と思っていましたが、昨年「あっ、これがそうなんだ!」とようやく気付きました。

 それは、当時の菅直人総理が、突然「浜岡原発を止める」と言い、次に「脱原発」という言葉を使った時です。一国の総理が言うにはあまりに唐突だし、あまりにも言葉が軽いと批判を浴び、それで菅さんは「これは個人的な一つの理想だと思っている」と発言を撤回しました。

 ぼくは、菅さんは原発の正しい別れ方を間違えた、と思います。「日本は“もんじゅ”から撤退する。高速増殖炉を諦める以上、原発をこれ以上進める意味はない。だから脱原発に入る。その手始めとして浜岡原発を止める」。

 菅さんがこう言えば、かなり理解を得られたんじゃないか。これが正しい原発の止め方、別れ方ではないかな。ぼくなりに、そう思ったのです。

 浜岡原発を止めるよう、菅さんはアメリカからかなり強く言われました。あの近くには米軍基地があります。もし福島のようなことが起きたら、アメリカは基地を放棄しなければならず、アメリカの極東政策は根本から変わります。日米同盟も見直すことになりかねません。菅さんはアメリカに迫られ、感情的になって「脱原発」を口にしたのではないか。

 「もんじゅ」に関して、お金の方の勘定的になっているのは原子力ムラの人たちです。「もんじゅ」には、事故を起こした95年の段階で、1兆円以上のお金を注ぎ込んでいます。ある試算によると、2011年までに10兆円くらい注ぎ込んでいると言われているのです。

■原子力ムラと原発村は違う■

 原子力ムラの人たちは、「もんじゅ」の実現に燃えています。そもそも、原子力ムラと原発村は違います。原子力ムラは、原子力産業や原発の電力会社や研究所だとか、原発行政が入っているところです。原子力ムラから見る原発村は、遠い外部です。原子力ムラの人たちは、自分達が使う電力が、送電にロスすることも知りながら遠い原発村で作っています。

 実は、十数年前、ぼくは原子力ムラから仕事の依頼を受けました。原発村を取材してルポを書いて欲しい、というのです。

 その頃、原子力ムラには、「原発踏み絵」があるといわれていました。原発に賛成か反対か。反対の人は入れません。原子力ムラの理事をしている一人は、「原発に反対なら、クーラーの効いた部屋に入るな、車に乗るな!」と公然と言っていました。要するに、CO2を削減するには原発推進しかない、という意味なんですね。

 原子力の行政機構は、原子力委員会の諮問を受けて、最終的には総理が決断する。そういうシステムになっていますから、ここで反対意見は殆どないんです。ぼくはそういうところに行くのも嫌だなと思い、断るつもりでしたが、そんな時、ある裁判の判決が出たんです。

 それは、福島第二原発1号炉をめぐって原子炉設備に対して、住民の人たち33人が設置許可の取り下げを求め裁判を起こしていました。その訴えに対して、最高裁が「原発の設置には国の裁量権がある」、つまり「最終的な決定権は総理にある」として、地元の人の言い分を却下したんです。地元が幾ら反対しても、総理が「原発をやる」と言えば、それで通ってしまうんです。ぼくは「理不尽だなあ」と思いました。だったら、この仕事を受けてみようか。そう考えて原子力ムラに行きました。

 そこで、恐る恐る「原発の反対意見も取材して書きたいんだが……」と言ったら、「それは大いに結構です。どんどん書いて下さい。反対意見こそ、我々が聞きたいんです。どんなところでも私たちは手配します」と言われました。

 ただ、かなり大きな話になるので、「とりあえず3か月、自分なりに準備して取材して、自分がやれると思ったら、引き受けます」と答えました。そして3か月間の猶予を貰って、原発村に取材に行きました。

 双葉町とか大熊町にまたがって、いわゆる浜通りには、原発が10基並んでいます。原発銀座といわれて、町役場、ドライブインなんかも非常に新しくなっています。その中には、原発のショールームの「サービスホール」というものがあり、地元の人たちが次々やって来て、東電の人から「原発は安全だよ」という話を聞いて帰るのです。

 双葉町の駅は特急が止まらないんですが、それでも駅前には、「原子力で夢と希望の町づくり」という大きなアーケードがありました。

 さらにそこから少し山の方に行くと、当時の田村郡なんですが、毎日何台もマイクロバスが迎えに来るんです。そこの人たちが原発で働いているんですね。送電のケーブル敷きとか、そういう作業をやって、25日ほど働いて17?18万円。兼業農家の人たちにとっては、とても良い収入なんですね。そういう話ばかり聞いていたんです。

 そして、いよいよ反対派の一人に意見を聞くことが出来ました。「陸前浜街道という産業道路を走ってきたら、すぐ判るでしょ、あの高台にある家が、東京電力や関連会社の社員寮なんです。彼らは放射能が下に溜ることを知っていて、風上の高いところに家を建てて住んでいるんです」と言うんです。それを東電の人に聞くと、「根も葉もない話だ」と打ち消されましたが。

 でも、大熊町に行きますと、すでに原発の避難訓練が行われているんです。住民の人たちに避難のための地図が配られていて、それを見ると、風向きによって逃げる経路が違うんです。風向きによって避難ルートが色分けされていました。

 さらに県立病院に行くと、電力会社から出る交付金で、27万錠のヨウ化カリウムを保管していました。当初はなかなか話してくれなかったんですが、最後にはやっと認めました。原発事故が起きて体内被曝した時、一番先に飲むのがこれなんですね。27万錠というのは、当時の地元の人の5日分くらいの量です。

 それを考えると、「想定外」と原子力ムラではよく言われましたけれど、地元の原発村では事故が起きる事を想定して、かなりの対策が練られていたと思います。

 3か月が過ぎまして、原子力ムラの人から、「そろそろどうでしょうか?」という話が来ました。そして送迎ハイヤーで行ったところが、凄い料亭です。ぼくなんか、一生かかっても、あんな料亭には入れません。黒のハイヤーで行かなければ、その料亭はぼくを入れてくれません。それくらい凄いところです。入りますと、ぼくが一生かかっても会えないような肩書きの人たちが、ズラッと並んでいました。で、開口一番、こう言われたんです。「森田さんに、補償金として2000万ですか、3000万ですか?」

 ぼくは最初、何のことか判らなかったんです。「そうか、この仕事を引き受けると、1、2年は他の仕事が出来ない。その補償金かな?」 それにしても、とても大きな金です。

 ただ、聞いていて、ちょっとムッと来ました。何か足元を見られているようで。この調子で彼らは地元の人を説得しているんだな、と。なんとなくぼくも、その金で横っ面を叩かれたような、そういう感じがしたんです。ぼくは、知人のカメラマンの話を思い出しました。彼の友人が、ぼくと同じように原子力ムラの仕事を頼まれて写真集を出したんです。ところが、その写真集を一度も見たことがない、というんです。

 ここからは全くの想像ですが、ぼくが書く本も、原子力ムラの人は「必ず出版して、私たちが責任を持って買い取ります」という話をしていたんです。多分、ぼくの本も世に出ないだろうな。そして原発村の説明会などで配られ、「こういうふうに、反対意見や色んな問題点もこんなに取材しています。だから、原発は安全なんですよ」という説明に使うんじゃないか、と。すると、「原発反対派」という賛成派にされてしまうんじゃないか。ぼくは反対派でも賛成派でもないんですが、そういうふうに利用されるんじゃないか。そんな本を一度でも書いたら、ぼくはもう出版業界に居られないな。そう思って断りました。お金は惜しかったですが。

■原子力ムラの常識は、匠たちの非常識■

 断った後も、ぼくは自費で取材を続けました。原子炉を造っている石川島播磨とか日立製作所の人たちに聞くと、彼らは原子炉のことを「お釜」って言うんですが、「お釜は詰まるところ溶接技術だ。溶接技術の良し悪しで決まる」って言うんです。

アメリカの原子炉メーカーのGEから時々QE(品質管理のエンジニア)がやって来ます。その点検に、「補修率」ってのがあるんですが、これがアメリカでは一般的に4%、つまり、100か所見たら4か所くらいは補修しなければならない。これでもかなり良い方だそうですが。ところが日本の原子炉は、平均0・3%、アメリカの10分の1以下なんです。1000か所みて3か所くらい。技術的にみて驚くべき数字だそうです。

 原子炉内部の装置はパイプと溶接の塊(かたまり)です。そのパイプの溶接にかけて日本は間違いなく世界一です。

 日本の溶接技術には、水を出しっ放しで側壁から穴をあけて、パイプにつなぐことができるという、こういう特殊な溶接技術を持った職人がいるんです。

 その一人の岩佐嘉寿幸さんという方は、その技術が優れているがゆえに、とんでもない危険な仕事も請け負ってきました。そして労働被曝してしまうんですね。日本でこの言葉が出たのは、これが初めてです。

 この人は国と電力会社を相手に裁判を起こしました。これが「岩佐裁判」で、日本で最初の労働被曝裁判です。ただ、この労働被曝の認定はとても難しいのです。裁判では、いつどこで、どのような形で被曝したかの証明を、電力会社側から求められました。しかし、労働被曝は交通事故などとは違い、脚を折ったとかのようにすぐに反応が出るものではありません。5年後に出るのか、10年後に出るのか判らない。次世代の子どもの代に出るかも判らない。これを裁判で証明するのは、とても難しいことです。これを「スローデス」と言います。「ゆっくりと死んでゆく」という意味で、裁判の中で使われました。裁判は最高裁まで行くんですが、結局、岩佐さんは負けました。

 彼はそれから十数年生きて、77歳で亡くなりました。もしこれがチェルノブイリの事故の後だったら、裁判所の判断は確実に違ったな、とぼくは思います。

 その「お釜」の中の配管ですが、この配管技術も日本は凄いんです。東京の大田区などの孫請けの孫請け、四次受けくらいの町工場が、これを請け負ってやっています。彼らは「さっ管」と呼んでいますが、親会社からのコンピュータで作られた図面通りにやります。

 ぼくも見に行きました。5度、10度、100度と、ありとあらゆる角度の管を設計図通りに作るんですけど、こういうところの職人は凄いんです。あの原子炉の中はトテツもなく振動がヒドいはずだ、物凄い圧力も掛かる。このまま設計通りに作ったんでは、必ずヒビ割れてくる。Rを付けなきゃダメだ、と進言するんです。

 しかし、通産省(当時)の認可を受けた図面ですから、それと違うものを造ったら納品できない。それで、そのまま納品するんです。ある時、その職人の親方が、テレビの画面を見て凍りつきました。それは「もんじゅ」がナトリウム漏れを起こした、その様子を伝えたニュースで、そこにヒビ割れたさっ管が出てくるんです。それは自分たちが作ったものかどうかは判りませんが、Rが付いていないんです。また、通産省からの伝達では、ネジ、つまりバルブですね、それを「しっかり留めるように」と言われています。ところが、普通ならよいのですが、原子炉の中のように非常に圧力と振動が激しいところでは、強く締めると必ず「応力割れ」を起こすんですね。これは、職人なら誰でも知っている。でも、四次受けの職人の言葉は、原子力ムラには届きません。職人たちの言葉を聞いていたら、事故は防げたかもしれません。

 電力会社と国の関係は、非常に密接です。日本は、太平洋戦争に突入しようとした1940年に日独伊三国軍事同盟を結びますが、その時、各電力会社がやっていた送電を、国が統制しました。

 戦後、GHQが「一極集中は良くない」と電力会社に戻します。西日本はアメリカのGE製で60サイクル、東日本はドイツのシーメンス製で50サイクルなんですが、あの時、GHQは何故これを統一しなかったのか、今もぼくは不思議なんです。もし統一していたら、去年、東電が計画停電した時に、関西電力から簡単に電力を貰うことができたんです。結局、それは天竜川で東西に分断したままです。

■戦後日本の原点となった「魔都上海」■

 「ファーストアトミック」の前に「ファーストジャパン」があります。日本の独立は1952年4月28日です。この日、日本は占領下から解放されて、国際社会に復帰しました。これが日本の独立記念日です。

 敗戦から独立記念日までの6年8か月と14日、GHQ(連合軍総司令部)つまりアメリカが日本を統治していました。日本の戦後のスタイルは、間違いなくGHQ統治下で作られました。

 しかし、ぼくは「もう一つ前の時代にある」と思っています。それは1930年代、40年代の上海、そして満州です。当時の上海は「暗黒街上海」「魔都上海」で、ぼくが最も興味のある上海です。この時代の上海が日本の戦後を作っています。上海には、英米租界、フランス租界、日本租界がありました。租界というのはコンセッション(租借地)ではなく、セツルメントです。よその国に自分の国の旗を挙げることです。租界では、中国人は犬並、犬以下の扱いです。その頃の上海は、各列強が地下活動で諜報合戦を繰り広げていました。

 ぼくは、『上海セピアモダン』とか『上海モダンの伝説』『上海特電』など、上海と名の付く本を10冊近く書いていますが、その殆どが、この頃の上海をベースにしています。

 この時代の上海の導入口として、気に入って使っているフレーズがあります。

『かつて、日本からパスポート無しで行ける外国は、満州か上海だった。羽織袴姿で一旗上げようと目指すところが満州なら、上海は喰い詰め者や無国籍の冒険者、そして革命家が、ひと時のほとぼりを醒ますために逃げこむところだった』

 あの時代を言い当てるフレーズとしてよく使ったものです。「男を変え得るものは、革命、女そして麻薬」といったのはポール・ニザンですが、まさにこの頃の上海は、幸か不幸か判りませんが、この3つがミクストされていました。

 ぼくにとって上海は、ある意味で少年の入口です。ぼくの子供時代は、周りに外国人がたくさんいました。その中で一番多かったのは、「第三国人」といわれる人たちです。オヤジが上海床屋をやっている同級生がおり、よくそこへ行ってバリカンで頭を刈ってもらっていました。オヤジさんや店に来ている人たちが、30年代、40年代の暗黒街上海の話を面白おかしく聞かせてくれるんです。いつか上海に行きたい。胸キュンの、憧れの都市になったのです。その後、上海に通い詰めました。そして社会の、人間の、人生の裏表を上海で味わいました。それでようやく、ぼくは大人になれたのかなぁ、という気がするのです。そういう意味で、上海はぼくの「少年の入口、少年の出口」である、と思っています。

 ぼくと同じように憧れて、上海に出向いた一人の青年がいます。吉田秀雄という人物です。後に、電通の四代目社長となる人です。この人は1935年、「すべてのメディアを電通が奪い取ってやろう」と意気軒昂として、反日運動が高まる上海に赴きます。そして、上海の特務機関だとか革命家、ジャーナリスト、外国人など、ありとあらゆる人たちと人脈を深めてゆくんです。

 その翌年の1936年、226事件が起こります。すると戦時体制ですから、新聞とかの情報を国が扱うことになりました。これが同盟通信です。これによって、電通は広告専門の会社として分離されました。

 敗戦後、吉田さんは東京に戻ってきます。GHQ支配下で、電通の社長は公職追放となり、吉田秀雄が四代目の社長に指名されるんです。吉田さんは上海時代の人脈を使って、上海の特務機関の諜報員や憲兵隊長らを、次々と電通に呼び込みます。何しろ、彼らは情報のプロです。電通にとっては宝のような人たちです。

 人脈は上海に留まりません。満州には満鉄調査部がありました。これは日本で最大の諜報機関、スパイのプロです。この人たちが日本に引き上げてくると、吉田さんは彼らを電通に招きました。そして、彼らを受け入れる「ユニバーサル広告会社」を作りました。そのために、電通は「第二の満鉄ビル」とまで言われました。

 この満州時代の人脈を動かしたのは、後に総理となる岸信介です。岸さんの力で、電通は満鉄調査部の人たちを次々と受け入れます。電通は「築地のCIA」とも言われるようになりました。

 同盟通信はGHQによって解体され、共同通信、時事通信が生まれます。電通とは、お互いが持ち株会社になっています。その株を売却した資金で、電通ビルとか共同通信ビル、時事通信ビルが建ったんです。

■「共産主義の3大武器」に武装化■

 GHQは6年8か月ばかり日本を統治するんですが、最初の目的は、日本の軍国主義からの民主化です。このために、軍国主義時代に冷や飯を食っていた左翼系の人、あるいは労働組合の人を、どんどん復活させてゆきました。一方で財閥を解体し、また、要職にいた人たちを公職追放してゆきました。これによって日本の経済を復興させながら、アメリカナイズさせてゆく。これがGHQつまりアメリカの狙いでした。

 ところが、1年経って、大きく政策変換しなければならなくなった。原因は日本を取り巻く環境です。アメリカは、ソ連と冷戦状態に入りました。ソ連は千島列島から南下の様相を示してきます。朝鮮半島は南北に分かれ、北に北朝鮮という共産圏の国が出来つつありました。中国もまた、国民党と内戦をしていた共産党が台頭してきます。これらによって、アメリカは政策変換をせざるを得なくなったのです。

 政策変換の一番の狙いは、日本を共産主義に対する「反共の砦」にすることです。その為には、日本を再軍備化させなければいけないと考えました。

 アメリカは共産主義をかなり研究しました。そして、「共産主義には3つの武器がある」と結論付けたのです。「貧困」「恐怖」「無知」この3つが共産主義の3大武器だと言うのです。今の北朝鮮をみると、よく判りますね。北朝鮮の人は、みんな貧困です。恐怖政治に怯えています。そして、自国のことはもちろん他の国のことも全く知らされず、無知の状態に置かれている。これによって共産主義は保たれています。

 中国もそうですね。ぼくが最初に行った文革時代がそうでした。みんな貧困でした。密告とかを恐れ、トイレの壁を取り払って個室をなくすとか。自分たち以外の国のことも、全く知りませんでした。世界のことを知ると、中国はその一角から崩れてゆきました。今の中国は共産主義でなく国家資本主義で、共産党は独裁体制を敷いているんです。

 日本を共産主義から守るために、「共産主義の3大武器」からどうやって守るか。それがアメリカにとって問題でした。これに対して、アメリカの上院議員の一人が提案します。「日本を軍国に戻すんじゃない。日本にアメリカのテレビネットワークを敷けば、日本を共産主義から防ぐことが出来る」と、提案したのです。その費用はB29爆撃機2機分、たった460万ドルで「軍備」ができるというのです。

 その頃、公職追放になっていた正力松太郎が、突然、追放を解除されます。その翌年、彼はアメリカから直輸入のテレビネットワークを日本に持ち込みました。これが日テレです。NHKの『放送50年史』に、「正力はアメリカの極東戦略に深く関与して、日本のテレビネットワークを掌中に収めようとした」とあります。

民間放送にはスポンサーが必要です。この正力に力を貸してアメリカ並のプロパガンダを持ち込んだのが、電通の吉田です。これによって、日本にテレビネットワークがドッと普及してゆきました。

 テレビの普及について、一人の評論家が非常に面白い意見を言いました。大宅壮一さんです。テレビによって日本人は「一億総白痴化」するのではないかと……。

 白痴という言葉が適切かどうかは判りませんが、この言葉は凄く言い当てていると思います。もう今は、皆テレビです。テレビの人気者が政治家になります。政治家も人気が欲しければテレビに出ます。テレビが「政権交代」といえば政権交代です。商品もそうです。テレビがなかったら生活できません。まるで、日本人はテレビにマインドコントロールされたかのように、テレビが日本の社会や個人の意見、人格を作ろうとまでしています。

 大宅さんの言葉は、それを見事に言い当てていました。同時に、アメリカの目論見も見事にそれを見越していた。そんな気がします。

 「戦後日本の礎(いしずえ)となった3人を挙げろ」と言われれば、ぼくの独断と偏見ですが、ファーストアトミックの正力松太郎、アメリカからプロパガンダを持ち込んだ電通の吉田秀雄、そして政界の妖怪・岸信介の3人を挙げます。

■3人のキーパーソンと60年安保■

 岸は、226事件のあった1936年に、満州に派遣されます。その頃の満州は関東軍が支配していました。その軍を前にして岸は、「私は喰い詰めて満州に来たのではない。満州国を強大にするためにやって来た。そのためには、重工業の開発が必須だ」と言っています。

 軍部とは一線を画し、いわゆる「国づくり」という問題に取り組みます。アヘンの密売による裏金作りなども容認し、満鉄調査部も彼の下にありました。そして満州国のナンバー2まで上り詰めた。建前上は軍がナンバーワンですから、事実上のナンバーワンです。後に彼は、満州国のことを「私の作品だ」とまで言い切っているんですね。

 敗戦当時、岸さんは東条内閣の閣僚でした。当然、A級戦犯の容疑で巣鴨プリズンに繋がれます。この時、岸さんと一緒に行動を共にしたのが、彼の影のように働いてきた児玉誉士夫や笹川良一らです。

 ところが、A級戦犯で、ひょっとすると死刑になる可能性も高かった岸さんが、突然、アメリカのCIAの意向によって無罪放免・釈放になります。その裏にはアメリカとの密約、「アメリカ寄りの政権を作れ!」という一言がありました。それで民主党と自由党がくっついて自民党が生まれるんですけれど、この時、CIAから裏金を運んだのが児玉誉士夫、民主党と自由党が手を結ぶように仲を取り持ったのが正力松太郎です。

 敗戦から僅か8年で、岸信介は自民党の総理になりました。A級戦犯容疑の人が一国の総理になったのは、後にも先にも岸さんだけです。これは、ナチスドイツで閣僚だった人が後にドイツの首相になるようなもので、あり得ない話です。でも、この国ではアメリカの意向で、あり得たんです。

 岸さんが総理になって一番に手をつけたのが日米安保の改定です。

 実は、日米安保は、吉田茂首相(当時)がサンフランシスコ講和条約で単独で結んできたものです。それは、日本人にとっては屈辱的なヒドい内容でした。アメリカは、いつでもどこでも日本に基地を作ることができ、事前に日本に断る必要もない。期限もない。つまり、永久にいつでも日本を基地扱いできるのです。

 ただ、そのとき、吉田さんにはそうせざるを得ない事情がありました。アメリカは日本を反共の砦とするため、再軍備と憲法の改正を強く求めてきました。吉田さんはアメリカに、「日本は戦争を放棄した。憲法は改正しない。これからは通商国家として国際社会へ復帰してゆく」と認めさせるのがギリギリだったのです。もし日米安保まで踏み込んでいれば、独立できませんでした。

 吉田茂以降も、鳩山一郎内閣が日米安保を改定しようとして働きかけましたが、アメリカは全く応じません。ところが、岸内閣になって、アメリカが突然この話に乗ってくるんです。岸さんは根っからの憲法改正論者、再軍備論者で、「自衛のためなら核武装してもいい」とまで言っている人です。社会党を始め、国民はビックリしました。そんな人が日米安保を改定したらどうなるのか。日本はアメリカの戦争に巻き込まれる。核の下に入ってしまう。そんな岸さんの安保改定なんて絶対に認められないと、「安保反対・岸退陣」をスローガンに国民運動的に盛り上がりました。これが60年安保と言われるものです。

 当時のアメリカ大統領はアイゼンハワーでしたが、あまりにも安保闘争が激しいので、調印のための来日が中止になりましたが、安保改定にはあっさりと同意しました。次は国会へ押しかけ、法案を通させないよう国会を占領しよう、とデモ隊が国会に押し寄せました。このとき、岸の子飼いの児玉誉士夫は、右翼の連中3万人を集めて「アイ・ライク・アイク」という部隊を作って対抗しています。アイクはアイゼンハワー大統領の愛称です。

 60年安保闘争は、一人の東大の女子学生が亡くなったことで、最大のピークを迎えました。ここで電通の吉田が動き、読売の正力も応じます。吉田が促して、全国紙の7大新聞に7社共同宣言を出したんです。「暴力を排除し、議会主義を守れ」というもので、言っていることは正しいし、全く間違いはないのですが、これが一面に出て、60年安保は一気に水が引くように醒めてゆきました。「新聞は死んだ」とまで言われましたが、岸の安保は議会を通り、自然成立してしまいます。その4日後、岸は退陣表明をします。

 ぼくは、吉田茂の日米安保も岸信介の日米安保も、殆ど読んだことはないんです。中身を知らずに、「安保反対・岸退陣」という言葉だけが頭にありました。A級戦犯容疑の岸さんという人がアメリカと密約を結び、(戦犯を)逃れ、後に自民党のトップに立った。そしてアメリカ寄りの政権を作り、アメリカ寄りの日米安保を作った。そういうイメージしかなかったんです。

 岸さんは辞めるとき、「棺(ひつぎ)を蓋(おお)いて、事定まる」という言葉を残しています。棺桶に蓋をして初めて、私のやったことが判るだろう。つまり、自分のやったことは、自分が死んでから理解されるんだ、という意味ですね。

 岸さんが亡くなって何年になるか判りませんが、60年安保から50年。半世紀なんです。

 ぼくはこの年になって、ようやく岸さんが言ったことが判るようになりました。岸さんの安保、実は決して悪くはないんです。よく読めば、そのポイントは大きく3つあります。日本はアメリカの戦争に巻き込まれない。基地を作るときは必ず事前協議をする。そして、基地を作ったら必ず期限を設ける。これは、今の安保と殆ど変わりません。

 岸さん以降に25人ほど日本の総理が生まれていますが、誰もが真っ先にこの問題でアメリカと協議しています。けれど、岸さんほど日米安保の不平等について踏み込み、前進させた総理は他にいないのではないか。ぼくは勝手にそう思っています。

 もちろん、その間の周辺国や国際情勢は違いますから、一概に比較はできませんが……。岸さんが結んだ安保は、今もそのまま生きている。その事を電通の吉田秀雄、読売の正力松太郎も知っていたのだろうか。だからこそ、あの7社共同宣言があったんではないかと。

 歴史と言うものに、ぼくはとても興味があります。日米安保は米ソ冷戦の落とし子のようなものですが、いまも日米関係の絆になっている。こうやって見てゆくと、後ろを振り返っているようで前を見ている錯覚を起こす、それくらい面白いんです。「日本の来た道」をもう一度、今の時点で振り返ると、時代の流れがわかると同時に、「日本の行く道」が見えてくるような気がします。ぼくが勉強しなかっただけで、「そんなことは誰でも知っている」と言われれば、それまでですが……。

■日本復興を標的にしたアメリカ財界■

 ぼくらには、GHQと言うより、進駐軍、MPの方が懐かしく、馴染みがあるんです。ぼくが育った街には進駐軍が多く住んでいて、古いニュース映像にあるように、進駐軍の人たちがジープからチョコレートやチューインガムを投げてくれました。レコードのジャケットだけもらったり、彼らの使い古しのTシャツやスニーカーを貰ったりしました。その中で最も印象に残っているのが、ベースボール、野球ではなくベースボールです。

 ぼくらの間では、基地の子供たちは特別待遇でした。彼らは自分の基地の中でベースボールをやっていたんですね。ぼくらには、グローブもミットもボールもユニフォームもありません。とても彼らと戦える立場ではなかった。

 ところが、彼らも自分たちだけでやっていたって面白くない、と思ったんでしょうね。「お前らも作れ」という話が来ました。それで、ベースボールチームを作ったんです。ぼくは、まだ小学校3年生でした。チームで一番小さく、一番足が速かったんです。だから監督は、「お前が一番で打て」 いや、「打て」じゃないんです。「何もするな。バットだけ持って立ってろ!」と。相手は大柄のアメリカ人ですから、ぼくにはストライクが入らない。フォアボールで出て盗塁をせよ、と。すると、彼らは必ずエラーをするから、それでホームインで点を取る。これくらいしか、ぼくらがやれる方法はないんですね。ある時、ぼくに凄くいいチャンスが巡ってきました。当然、監督には「打つな。バットを持って立ってろ」といわれたんです。ところが、ぼくにも小さいながら意地がありました。基地のアメリカのガキにいいところを見せてやりたい。そういう気持ちがムラムラとして、監督のサインを無視して打って出ました。で、ものの見事に凡打で、チャンスを潰してしまったんですね。監督にこっぴどく叱られました。その時に監督に言われたのが、「歩けないのに走るな。走れるのに歩くな」です。今もずーっと頭に残っているこの言葉を、ぼくは人生訓としています。

 進駐軍からいろんな物を貰っていた頃、「何でもアメリカのお蔭だ。アメリカのお蔭で経済も復興して、こんなにいい生活をしている。これがソ連だったらどうなる。こんなに自由にものは言えないぞ。テレビも見られないぞ」と、よく言われました。だから、ぼくらは根っからのアメリカコンプレックスに固まっているようなものです。

 でも、今振り返ってみると、「本当にアメリカのお蔭だろうか。アメリカだって、日本のおかげで経済が復興したんじゃないか」と疑問に思います。GHQ統治時代、アメリカには「ジャパンロビー」というものがありました。「日本でひと儲けよう」と虎視眈々日本市場を狙う、ビジネスマンのグループです。

 そして「対日アメリカ評議会」が生まれると、ロックフェラーとかモルガンという財閥が、大手を振って日本にやってきました。彼らは解体した財閥を全部復活させ、車だとか、化学製品だとか、儲かりそうな企業にどんどん投資します。そうやって投資して株価を吊り上げ、儲けていったのです。彼らは、戦前にもかなり日本に投資していました。戦争でゼロになりましたが、戦後、それ以上に儲けています。日本を舞台にしてアメリカは復興した、といってもいいくらい、アメリカは日本でカネを稼いでいったんです。アメリカのお蔭で日本は復興したと思い込まされ、面と向かってアメリカにモノを言えない政治家が多いんですが、ぼくは全然逆だと思います。

■三つ巴勢力が暗躍した「裏・戦後史」■

 GHQに隠れて一所懸命頑張ったのが裏戦後史です。戦争に負けてすぐに、十何万人のアメリカ軍と30万人くらいの一般人、都合50万人くらいのアメリカ人が日本にやってきました。それこそ「東京租界」です。上海時代と同じで、日本人は犬並の扱いという時代がありました。

 ですが、敗戦からたった3日目の8月18日に、「光は新宿から」という大きな広告が新聞に出ました。これは闇市の広告です。たった3日で闇市が出来たんです。それを運営したのが、尾津組というテキ屋の親分でした。

 テキ屋というのは、神社の祭りの時に並ぶ露店商とかを運営している組合です。映画『男はつらいよ』の寅さんがテキ屋ですね。テキ屋をヤクザといって良いかどうか判りませんが、ヤクザには丁半や賭博をやる、博徒系もいます。このテキ屋の尾津組が、敗戦から僅か3日目に、もうすでに闇市を計画していたんです。闇市で売る商品は、主にアメリカから送られてきた救援物資の横流し品です。東京都が、場所取り、価格、流通、そして税金を取ることまで全てを尾津組に任せたのです。これによって、日本全国に闇市は広がります。テキ屋だけじゃありません。博徒系もみんな闇市です。後に彼らは、「日本人が戦後に飢え死にしなかったのは、俺たちが闇市をやったからだ」と豪語しています。それくらい闇市が広がりました。

 GHQ下で政治家と闇市業者、そしてヤクザの三つ巴勢力が、「裏・戦後史」の主役でした。

 米軍兵士を相手にした女の人たちを、「特殊慰安婦」と呼んでいました。ぼくらが子供の頃は「パンパン」と聞いていましたが、多分、メディアでは書いちゃいけないし、テレビで言っちゃいけない言葉だと思います。それを使うと、ぼくらも先生や親に叱られたものです。パンパンがどこから来ているか、良く判りません。彼女らが使う片言の英語をジャパングリッシュと言っていましたから、多分、「ジャパンさん」から来ていると思います。ところが、彼女たちはただの風俗じゃありません。米軍兵士たちから稼いだ金が2億ドルです。あの頃で2億ドルのお金です。

 また、闇市の業者が密かに稼いだお金は十数億ドル。これらを政治家がしっかり吸い上げて、隠し財産にしました。これが「M資金」と呼ばれるもので、他のお金と併せ、都合数十億ドルがGHQに摂取されていた企業の支援やインフラだとかの戦後の復興に充てられました。表のお金ではありませんが、当時のGNPの10%以上あったといわれ、「アングラ経済」という言葉も生まれました。GHQの下で、日本人は隠れるようにして非常にしたたかに自ら復興していったのです。

 ぼくらの時代で一番流行したのは、やはりテレビです。ぼくらの世代は、テレビが来た日、電話が開通した日、これは必ず話題になります。最初に誰に電話したか、そこまで覚えています。

 このテレビから、スーパーヒーローが生まれました。プロレスラーの力道山です。彼がアメリカ人の大きな白人男を空手チョップで倒す。これに日本人は熱狂しました。金曜日の8時、ぼくらはテレビの前に座りました。家にテレビがない人たちは近所のテレビのある家に押しかけたり、街頭テレビで見ました。

 これを放送をしたのは、もちろん正力の日テレです。電通の吉田が、三菱電機というスポンサーを連れてきました。そして、スーパーヒーローを作り上げたのは、岸信介配下の児玉誉士夫です。彼が、力道山の後援会を全部引き受けてやっていました。

 反共の砦となるテレビのスーパーヒーロー力道山。彼が共産主義国の北朝鮮の出身であるということは、その当時は誰も知らされていませんでした。そして、テレビ普及のきっかけとなった街頭テレビの発案者は、正力でした。

 アメリカ一辺倒でやってきた日本は、そのアメリカから往復ビンタを喰らいます。ニクソンショックです。片方のビンタは、固定レートによる金ドル交換の停止、いわゆるブレトンウッズ体制の終焉です。そこから変動相場性になり、アメリカは30数億ドルという対日貿易赤字を解消するんです。

 もう一つのビンタは、ニクソンがキッシンジャーに連れられて日本の頭越しに北京に行き、毛沢東と握手した、米中接近です。これを知った当時の首相の佐藤栄作は、「青天の霹靂」と言って驚きます。

 これで、自民党は大きく変わらざるを得なくなりました。次の首相は福田赳夫に決まっていたんですけれど、そこに、「私が総理になったら、中国問題を一気に解決する」と田中角栄が割り込みます。そして総裁レースに勝ち、日中国交正常化を成し遂げるんですね。彼の列島改造論で、日本の富の大移動が始まります。けれど、その田中も、CIAの仕掛けたロッキード事件によって失脚します。

■「自分史」は、未来のルーツ■

 日本の戦後史を語り出したらキリがないんですが、今日、ぼくが話した内容は、皆さん、殆どご存じだと思います。本を2、3冊読めば理解できる、その程度のモノなんですが、ぼく自身は、この仮説に至るまでに30数年が掛りました。

 ぼくは、GHQとほぼ同世代です。GHQと共に生まれ、同時代を生きてきました。今日お話したことは、ぼくにとっては自分史なんです。

 ぼくにとって、自分史はもの凄く大事です。何か新しいことをやろうとか、何か知らないことに出くわした、あるいは躓いた。そういう時は、自分史を振り返ります。そうすると、何らかの道や光が見えてくる。ぼくにとって、自分史は「未来へのルーツ」のような感じがするのです。

 30数年前、モノ書き一本で食っていこうと決めたとき、自分に一つだけテーマを科しました。自分が生きてきた時代、これだけはシッカリと書き留めて、残こそうと。それをテーマにして上海に何度も何度も通い詰め、旧満州にも足を踏み込みました。多くの歴史の証言者たちにも取材しました。歴史的なものを発掘し、かなりの本を書いてきました。

 若干ですが、今日は、原発の自分史についても触れました。世界的に権威のあるNRC(原子力規制委員会)は、最近、こういう数字を出しています。人間が生み出した放射能が、人間に害を及ばさなくなる、要するにゼロになるまでに、これまでは1万年掛かるといっていたのを、10万年に訂正しました。10万年なんて、ほとんど想像がつきません。500代なのか1000代なのか、どれぐらいの世代でこれを受け継ぐんだろう。人類にとって途轍もないモノを背負ったような気分になりました。

 原子力の平和利用、平和産業と言っても、原発と一部の医療くらいです。原子力のほとんどは、核兵器とか原子力潜水艦とかの軍需産業です。原発の技術ですら、その大半は他の産業の技術で成り立っています。原子力の平和利用を考えた当初の人たちからは、かなり方向が違ってきている。そんな気がします。

 20世紀という時代は、高度成長のために機械文明がとても発達しました。ですから、石油とか原子力とかのエネルギーが必要であったことは判ります。しかし今では、そのエネルギーから自然エネルギーに向かう道筋が出来つつあります。核クラブといわれる原発先進国であるアメリカ、フランス、イギリスも、もう原発の頂点を目指してはいません。徐々にではありますが、脱原発の道に向かっています。

唯一、原発の頂点、未踏峰の「もんじゅ」の実現に躍起になっているのが、日本です。他の国が下りてゆく中で、20数年間、ずっとお金と時間、人材をかけてやってきました。

 いま、もし「もんじゅ」が実現、稼働して、どれだけの意味があるんだろう、とぼくは思います。確かにエネルギーとしては大きなものですが、原発依存から抜け出そうとして、社会では節電やエコ商品が少しずつ浸透しています。原発がなくなって電力に多少の不便があっても、我慢してやっていこう。そういうコンセンサスが、日本だけではなく、世界的に広がりつつあります。「もんじゅ」の危険、リスクは、これまでの原発より遙かに大きなものです。今でも大変なリスクを背負っているのに、この上さらに背負うのか。そこまでして続けていく意味があるのか。

 この20数年「もんじゅ」に掛けてきた人材とお金■ を、福島の「死に体」となった原発に安楽死を迎えさせる技術に振り替えていったらどうだろう。「もんじゅ」の完成ではなく、速やかに原発から撤退するための安全な道筋を作る。こういう科学と技術において、日本は世界一です。ノーベル賞の自然科学分野の受賞者は、日本がトップクラスです。技術は言うまでもなくナンバーワンです。世界が日本に求めているのも、実はそういうことではないか。ぼくは、そう思います。ある大学の関係者に聞いたのですが、今、大学の中で、原子力科はだんだん消えていっているそうです。若い優秀な人材が、原子力に対してあまり希望を持っていないんですね。原子力産業もそうです。日本でダメだからって、東南アジアに輸出ばかりしている。原子力が黄昏の産業になっても、斜陽の学問になっても困ります。原発からの速やかな退路のためにも、もっともっと人材を育成し、お金を注ぎ込む必要があるのではないか。核融合にも大きな未来はあるだろうし、ウランやプルトニウムは神から与えられた元素かも知れません。しかし、これが一部の権力機構に委ねられることは許されない。そう思っています。

 ぼくが話したことは、ど素人の結果論です。殆どが結果論から見た話です。ぼくらの仕事でも、「もし」「たら」「れば」は禁句です。しかし、苦い苦い「もし」「たら」「れば」を積み重ね、いい仕事を生み出しているわけです。原発でも、結果論は大いに賛成です。苦い結果論を積み上げて、新しい道を見いだせれば……。それが良いことではないかな、ぼくはそう思います。今日も、ノドの渇く話になりました。


報告者のひとこと

「脱原発は、脱昭和なのか」〜報告会を終えて〜

 昭和が終わった年、「昭和史の現場を歩く」(『DAYS JAPAN』当時講談社発行)の企画で、対ソ戦略のために満州(中国東北部)に築いた細菌兵器部隊「731部隊」を取り上げた。敗戦が濃厚になると、731部隊は証拠隠滅のために自ら細菌兵器工場を爆破して逃亡。その際、生体実験の中国人マルタを、一人残らず殺した。石井四郎、北野政次ら幹部は、731部隊の細菌戦資料を引き換えに、戦犯の免責となった。石井らは自ら開発した細菌兵器の成果を朝鮮戦争で得意げに見守った。安価で生産が容易、しかも恐るべき殺傷能力をもつ生物化学兵器は「貧者の核兵器」と呼ばれ、リビアや第三世界に広がった。一方、731部隊の生体実験の成果は、戦後日本の医学界を牛耳った。GHQの血液銀行はミドリ十字へ受け継がれ、その血液製剤で日本の血友病患者がエイズ感染に苦しむこととなった。記事をさらに加筆し、単行本『殺戮工廠731部隊』を発刊した。

 「昭和史の現場」は、「原発列島」へと続いた。チェルノブイリ事故から2年、日本の原発は冷却塔から白い蒸気を吹き出し続けていた。だが、フクシマ4号炉で重大な欠陥が見つかった。1日でヒロシマの2個分のエネルギーが取り出されている原子炉が人間の手に負えない限界へと向かっているのではないか、「原子炉爆発のXデ?」を記事(執筆は、広河隆一氏)にした。

 731部隊と原発は、昭和という時代を象徴している。資源貧乏と科学信仰が日本の「安全神話」を作り上げた。731部隊は、部隊というより研究室であり、徴兵逃れの優秀な科学者を引き寄せた。一方、原発もまた戦争が引き金だ。日本が原爆製造に着手するのは、アメリカより5か月遅れの1940年4月、陸軍航空技術研究所が理化学研究所の仁科教室(仁科芳雄博士)に原爆製造の研究を依頼した。原爆製造でアメリカに遅れを取った日本は、敗戦後、ウラン幻影、未知の領域という科学的野心から原発へと突き進んだ。

 「昭和史の現場」の取材から10数年後、私は中国人強盗殺人犯に「鬼」呼ばわりされた。殺人犯は、「日本人を殺して何が悪い」「日本人は多くの中国人を殺した鬼だ」と、殺す中国人が悪いのか、殺される日本人に誹があるのかを突きつけられた。

 中国人に殺される日本人に科せられた罰とは何か。小説『二つの血の、大きな河』を書いた。嫁日照りの山形の農村に後継ぎを生むために旧満州から中国人花嫁がやってくる。その同じ村で、満州生まれの残留孤児2世が日本人を殺す。「法で裁かれる罪は償うことは出来る。法で裁くことのできない罪を背負った人間はどうやって罪を償うんだね」と元731部隊の老医師は、殺人犯の罪を被る。「日本の戦後はそんなに悪く思わなくてもいいですよ。平和をカネで買って何が悪いのですか。戦争でカネを儲けるよりずっといいじゃないですか。日本は戦後を誇ってもいい」と、戦後生まれの刑事が諭す。

 石原慎太郎東京都知事は、震災、津波、原発事故の3・11三重苦を「高度成長の金満ニッポン人」に対する「天罰」だと言った。その後、批判の声に撤回した。もちろん被災者にあてた言葉でなく、「政官財」の鉄のトライアングルの既得権を批判したつもりだろうが、石原慎太郎自身も加担したその一人として「天罰」の真意を語るべきだ。中国人や韓国人が抱く反日感情、沖縄に押し付けている基地そして原発村への依存など、僕らの贖罪が天罰なのか……。戦後の同時代人から「脱昭和=脱原発」を聞きたかった。『二つの血の、大きな河』『告白731部隊』は、現時点から見て書き直し、加筆し電子書籍(App Store グリフォン書店)として出版する。(森田靖郎


森田報告会は、いつも新鮮な驚きの連続です

■「全文入れるつもりです」 その、通信初となる試みを報せる江本さんからのメールに、両肩の重荷が消え、私は心に桜が咲いた気分になりました。文字起こしの総数約29000字。これを報告レポート4000字に切り詰める、という難題からの解放ですから、当然です。実はこの濃密な11ページ分、「会場の反応を見ながら話を進めたいのでカンペは使わない」との森田さんのポリシーにより、一片のメモにも頼らず、言い澱みや繰り返し、論理の飛躍にも陥ることなく、徹頭徹尾整然と、予告時間の90分ジャストで締め括られました。もちろん、文字起こし後の手直しもほとんど不要! 報告会レポート役として、その語りの驚異的完成度を強調しておきたいと思います。

◆私にとって森田報告会は、いつも新鮮な驚きの連続です。今回も、「原発のみならず、戦後日本のルーツが1930年代の上海にある」とする見立てに、最初は半信半疑でした。しかし、淡々と積み上げられる事実関係の説得力に、疑いはたちまち消えました。「後ろを振り返っているようで、前を見ている錯覚を起す」 その面白さをこう表現する森田さんの目に、歴史は、過去・現在・未来を貫く生き物として映っているかも知れません。過去が現在の土台であることは、私も頭で理解しています。けれど、「珊瑚の骨格みたいなもので、単なる遺骸じゃないか」の思いに縛られ、イマジネーションを現在から過去や未来へと広げ、血を通わせることなど、あまり考えもしませんでした。報告会で語られた「生ける死者」の話に倣えば、「歴史を遺物として切り離してしまうと、自分が居る現代のこの瞬間も『生きている』ものとして感じられなくなる」と言えるでしょう。

◆床屋の主人や客たちが面白おかしく語る、「30年代の上海話」に夢中になったという思い出は、意外でもあり、また頷けるエピソードでもありました。その場面を想像していると、フランス映画の傑作『髪結いの亭主』の、あの奇妙キテレツな中東ダンスが重なりました。多感な子供時代に受けた強い印象は、後の人生にも少なからぬ影響を及ぼし続けます。結局、夢に引篭ってしまった髪結いの亭主、片や夢を追って海外へ飛び出した森田少年。2人のベクトルこそ正反対ではありますが。

◆その昔の、地平線犬倶楽部が盛り上がっていたある日の記憶です。横で無関心を装っていた森田さんが、何かの拍子にボソッと呟いたのです。「ぼくは犬の話になると理性を失うから……」それを耳にした私は、「あれっ? 本当は熱いのを隠しているのかな?」と首を傾げました。ずいぶん前の出来事なので、思い違いだったらゴメンなさい。実は今回も、「反対派でも賛成派でもない」のさり気ない一言に、「原発の現場や裏側をこれだけ見て、しかも高額の補償金を蹴ったのに、なぜ反原発じゃないんだろう」との疑問が頭をもたげました。でも、終わり近くに明かされた、「自分が生きてきた時代をシッカリ書き留めて残すこと。それを自身へのテーマに架した」の強い言葉で腑に落ちました。恐らくは「中立」ですらなく、一歩身を引いた傍観者、あるいは時代の目撃者・記録者のスタンスに徹する決意に違いない。

◆森田報告会を聴き終えた後は、決まって同じ想いに包まれます。それは、語られた直近のテーマを超えて広がる、「つまるところ、人間って一体何なんだ」の疑問です。そういう普遍的な問いを抱えつつ、森田さん自身が取材に臨むがゆえに、ノドの渇きも忘れ、聴き手は最後まで釘付けになるのでしょう。(久島弘


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