2011年11月の地平線報告会レポート


●地平線通信387より
先月の報告会から

オセッカイのぬくもり

新垣亜美

2011年11月25日 18:30〜21:00 新宿区スポーツセンター

「おばんでございます」──。すっかり「東北の人」になりつつある新垣亜美さんによる報告は、「こんばんは」という意味の東北弁の挨拶でスタートした。3 月25日からRQ災害市民災害救援センターの現地本部がある宮城県登米市に入ってはや9ヶ月。RQ登米本部(廃校となった旧鱒淵小の体育館)での新垣さんの奮闘は、地平線通信に掲載された毎月のレポートからもうかがい知ることができる。

◆何度か夜中に登米の現地本部を電撃訪問した冒険ライダーの賀曽利隆さん曰く、RQで活動するボランティアの間では“ボラ中”(ボランティア中毒)ならぬ“亜美中”が大量発生しているという。新垣さんに会いたいがために登米に通いつめるボランティアのこと(横からE本さんが「それは賀曽利のことだよ」とひとこと)だが、多くの仲間をつくった新垣さんの活動は、3.11震災発生直後、RQ発足前の東京本部で始まった。当時は物資担当として、全国から集まってくる支援物資をチェックし、どうまとめれば効率よく被災地に送ることができるのかを毎日考えていた。この頃から、現地に行きたいという気持ちは強かったという。

◆3月25日、登米本部に入る。このときには何ができるのかはまったく分からない状態だったが、新垣さんは「何か特技があるというわけではなかったので、このときは何ができるかはあまり考えずに、ゴミ拾いでも料理でも、何でもできることをやろうと思っていました。本当は被災された方の話を聞くことに興味があったけれど、特にこだわりはなかったです。期間も決めていませんでした」と振り返っている。

◆はじめの3日間は物資の仕分けを担当し、それから総務の仕事に携わるようになった。スクリーンに映された当時の本部の写真から、日々試行錯誤を繰り返していた様子が伺える。上下関係がないボランティアの集まりなので、誰かが指示を出してくれるわけではない。みんなでアイデアを出し、次々と実践していく。

◆新垣さんにとって、この頃が一番学んだことが多い時期だったかもしれないという。初めて出会った人々が、その場で協力して仕事をという状況は、日常生活ではあまり経験できない。「これは凄い事だ」そう感じた。一方で、人の入れ替わりが激しく仕事の引き継ぎは大変だった。特に物資を届けるデリバリーチームは、直接被災者の方と接する立場なので思い入れが強い。孤立した家の支援を、次の人に確実に続けてもらわなければならない。皆、自分が続けたいけれど、どうしても帰らなければならないという、断腸の思いでの引き継ぎだったという。

◆4月入ってボランティアの数が急激に増えてきた。その受け入れと、外部からの問合せへの対応、そしてそれらと現地ニーズとの調整に四苦八苦した。集まってくるボランティアの力を生かすには、それを支える裏方の働きが重要になる。ボランティアの生活環境を整えることも重要だ。新垣さんは、この頃になってやっと「笑ってもいいのかなあ」という気持ちになってきたと話している。

◆最初は被災者と接するのにどんな顔をしていいかわからなかったが、次第に「やっぱり元気、笑顔がないとダメ。それが一番届けなければならないもの」だと思うようになった。5月からは、隣にあった鱒淵小の校舎が中瀬地区の人々の避難所になり、新垣さんはその担当に就いた。最初はボランティアとの接点は最小限だったが、近くにいるのだからもっとできることはあるんじゃないかと考えるようになったという。そういった思いが、後の「お茶っこ」などの活動につながっていった。

◆中瀬地区の方が撮影したという津波の映像は衝撃的だった。目の前で自分の家が流されていく喪失感は想像しえない。津波の映像は何度も見ているけれど、いつも心が痛む。中瀬地区は197世帯が流され、残ったのは8軒だけ。区長は震災直後からまとまって避難をしようと呼びかけ、民有地に仮設住宅を建てるために尽力した。その結果、住人の方は仮設に入居した後も住み慣れた土地で生活することができているという。

◆8月になって、鱒淵小の避難所で生活していた中瀬地区の人々が全員仮設に入居したため、新垣さんは毎日通ってお茶っこの開催やボランティアの調整などを行った。それと同時に、どこまでがボランティアの仕事で、どこまでが地元の人の仕事なのか、その線引きについて意識するようになっていったという。ボランティアはいつか引き上げなくてはならないので、頼られっぱなしではいけない。

◆他の仮設住宅にも行き、ボランティアが入らずに自分達だけで運営している場所もあることを知った。もしかしたら中瀬地区は、ボランティアが入りすぎたことで自立の妨げになった部分もあるのではないか。それに気付いたとき、そろそろボランティアも体制を変えなければいけない時期なんだと感じ、仮設に通う回数や頻度を減らすようにしたという。

◆「この頃になってだんだん自分の視野も広がってきて、他の仮設や行政との連携も必要だと思うようになりました。ちょうど他のボランティア団体の方の四季さんという人と知り合って、同じ思いを持っていることが分かったので、いまは一緒に他の団体との情報共有を進めるようにしています」

◆報告会の後半では、新垣さんが今回の震災で災害ボランティアに参加することになったきっかけについて話してくれた。「自分にとっては何も特別なことではなかった」と彼女は言う。「もともと旅が好きで、山が好きで、そしてそこでいろんな人と話をするのが好き。その延長線上に今回のボランティアがあったような気がしている」。

◆大学時代はワンダーフォーゲル部に所属して、大好きな山と向き合っていた。卒業後は求人広告会社でライター業に就いた。やり甲斐はあったが、激務で思うように自分の時間がとれない日々に悩んでいた。そんな折に、交通事故で父親が亡くなった。仕方がないと思いながらもやりきれない複雑な気持ちだったという。様々な思いから自分の言葉で文章が書けなくなり、退職。その後は剣岳の山小屋でのアルバイトや、都内で高層ビルの外壁清掃の仕事などをやりながら、自分の気持ちと向き合う時間を持った。

◆そんな中で彼女にとってのきっかけをくれたのが、沖縄の親戚のおばさんとの会話だった。父親の事故のことも含めていろいろなことをズバズバと聞かれ、それに答えるうちに、自分の中の心のわだかまりが少しずつ解けていくのを感じた。頭では分かっていても受け入れられなかった事故の相手に対する思い、「長女だからしっかりしなくちゃいけない」と気を張っていたこと、そういった自分の中に燻っていた気持ちを、ごく自然に受け止めることができるようになったのだという。

◆「そうやって自分の気持ちが整理できるようになってきて思い直してみると、父親を亡くしてからいろんな人に気にかけてもらえていたんだな、と気づきました。そうしたら、急に人と関わりたくなったんです。教員免許を持っていたので、次の4月から小学校の先生になろうと決めました」

◆次の目標に向けて一歩を踏み出した3月初め。そばにいる人に対して関心を向け続けることが大事だと気づいた頃だった。その直後に地震が起こった。「自然に、行こうという気になった」という。ボランティアに行こうという強い意気込みがあったわけではなく、ごく自然に、何かの手伝いがしたいと思った。「思い返してみれば、今までやってきたいろんな経験が今につながっているなと思えるんです」と新垣さんは続ける。例えば2008年の「ちへいせん・あしびなー」で訪れて以来何度も足を運んだ浜比嘉島では、地域の人々との関わり方を考えるヒントや、先生になりたいと思うきっかけをもらった。山小屋でのアルバイトも、はじめて出会った人々による共同生活という点で、登米の環境によく似ている。

◆「もうサラリーマンには戻れないか?」という江本さんの質問に、新垣さんはこう答えている。「サラリーマンが嫌というわけではないですけど、人のそばにいて支えることができたら、という思いが強いです。今はそれができているので、しばらくは続けていきたいです。あとは、やはり自然の中にいたいという気持ちも強いです。でも家族も大事なので、今は月に1度は必ず帰るようにしています」。

◆RQは11月末をもってこれまでのような活動に一旦区切りをつけ、12月下旬から新たな組織としてスタートを切る。ただし、しばらくの間は登米の活動も継続するという。新垣さんも、1、2年は登米に残って活動を続けたいと話す。RQ登米本部として使せてもらっている鱒淵小学校の校舎は、天然の木材を利用して作られた温かみのある建物だ。

◆「この環境を生かしてできることは何なのか考えています。まだ手探りの状態ですが、今回の経験から、地元の人との交流ができる場を作れるように頑張っていきたいです」、そう話す新垣さんが、同世代ながら非常に頼もしく思えた。私自身も、岩手県の「遠野まごころネット」というNPOを通じて復興の支援に関わらせてもらっている。東京から現地にボランティアを送り出し、また帰ってくる姿を見ながら常々考えているのは、災害ボランティアで得たものを、どうやったら日常の生活の中に取り込んでいけるだろうかということだ。

◆人とのつながりでも、泥掻きの技術でも、何でもいい。今回の震災では、全国から大量のボランティアが被災地に集まり、一緒に活動して、また全国に散っていった。ただそれだけで終わらせるのではなく、この活動で得たものをそれぞれの生活の一部として溶け込ませることができたら、日本全体を立ち上がらせる力につながるのではないか。そんな思いを抱いているからこそ、すでに次の活動に踏み出そうとしている新垣さんの姿勢には勇気づけられるものがある。

◆頼もしいのは新垣さんだけではない。報告会の最後には、個人ボランティアとしてRQやその他の団体の活動に参加した、おもに若手の地平線仲間の紹介があった。「隊長」こと小林祐一さんは、登米でボランティアに参加した際に「バスのドライバーが足りない」という話を聞き、帰ってすぐに教習所に通って大型免許を取得した。素晴らしいフットワークだ。

◆「エンジェル」こと落合大祐さんは、RQの発足当初から東京本部や登米本部で支援活動を行い、現在も「歌津MTBドリームプロジェクト」のサポートなどで活躍している。先日も福島へ行ったという落合さんは、「4月当時と比べると瓦礫なども少なくなりましたが、そんな中で人々の記憶が消えていくのが怖いと感じます。記憶を失わないための活動ができたらと思っています」と話した。

◆私自身は、遠野まごころネットでの活動について紹介させていただいた。まごころネットは東京に事務局を持っていなかったため、有志のボランティアが協力して報告会や説明会を開催し、現地に行く人のサポートをしてきた。12月からは正式に東京事務所が発足するので、今はそれを足掛かりに東京からできる支援の形を模索している。現地では冬季も活動を継続する方針なので、引き続きボランティアの募集を行っている。

◆震災の後、地平線通信や地平線3.11 NEWSでの報告を読んで親しい人たちが率先して活動していることを知り、頼もしくも感じたし、自分も何かをしなければという気持ちにもさせられた。特に同世代の新垣さんの活躍には強く背中押してもらったように思う。今回の報告も、多くの人の背中を押したのではないだろうか。(杉山貴章


報告者のひとこと

キーーンと冷え込む夜の職員室からこんばんは。今やこの小学校はボランティア拠点のみならず、色んなものが出会って新しいものが生まれる場所になっています

■先日は報告の機会をありがとうございました。震災ボラに参加するきっかけとして少々湿っぽい話もしましたが、今は頭を切り替えています。過去の穴埋めのための行動ではなく、今好きな事、未来につながることがしたいから。これから支援活動を継続するためには、被災地にも自分にもプラスになることが大切です。ここに残ることを被災地の方に話したら、喜んでくれた一方で「人生でいちばんいい時期を、自分たちのために犠牲にはしてほしくない」とも言われました。

◆報告会では話しながら半年間を振り返り、改めて3月〜5月くらいまでの緊急支援期が、特にその中でも初動は大事だったと思いました。今でもRQの腕章をして被災地を歩いていると、知らない方から「あのときは物資ありがとう」などと声をかけられます。いち早く多くの人を巻き込んで動く決断をした広瀬さんはすごい。

◆私は被災地の真っ只中というより、総務としてボラセンの現場にいて、支援活動が「その場対応」から効率を考えた「システム」になり、それ自体も日々進化していくのを目の当たりにできました。混乱や衝突も数多くあったけれど、それですら貴重な経験です。初期に一緒に活動していたモンベルのアウトドア義援隊をはじめ、個人で活動している方々との出会いも新鮮でした。

◆あと、善意の怖さというか、難しさもたくさん感じました。たとえば支援が集中する年末年始、餅つきを4回(全部違う団体が主催)もやる仮設住宅もあります。それはまだいい。戸数を考慮せず届けられた少しの物資(野菜など)を、住人の方が不公平にならないよう気を使って配る様子を見るのは、気持ちのいいものではありません。ありがたいからこそ困るというのが複雑です。事前に要不要を確認するとしても、結局は付き合いがあるから断れないケースは多々あります。

◆報告会の翌朝は、車で東北に戻り、その夜は志津川中瀬地区仮設住宅での「お疲れさま会」でした。避難所のころから7か月間おつきあいさせていただいた方々です。11月末でRQの活動が一旦終了するのに合わせ、中瀬地区でもこれまで週4回集会所で行なっていたお茶っこ会を終えました。今後は住人の方主催の集まりや、子ども会などが立ちあがってくるのを期待しています。

◆避難所でお茶っこを始めたときは目の前のことしか考えていませんでしたが、続けていくと住人同士の関係、ボランティアのモラルなど、復興に直接関係のない問題に直面することが多く、ストレスにもなりました。ボランティアって何だろう、本当に来てよかったのか、もっとできることがあったんじゃないか……と繰り返し考え続けました。でも私はじっくり時間をかけられたのがよかった。本当に辛くなると、タイミング良く誰かが支えてくれて、また歩き続けられました。仕事で東北に来られなくても、電話やメールで相談に乗って励ましてくれるボラOB・OGもいます。

◆反省点はチームミーティングと記録。次へつなげるために、この2つをもっと大事にすべきでした。あとは自分が責任を持てないことを恐れて、活動範囲・支援対象を広げられなかったこと。もっと情報共有や役割分担に注力すれば色々な活動ができたし、そうなれば情報も入って判断材料にもできた。これからは考えすぎず、まず行ってみる、動いてみる、という事を大事にしたいです。

◆その翌日は志津川のとなり、戸倉地区にある小さな仮設住宅で住人企画のお餅つきに参加。ここにお住まいのT子さんが作る、畑で採れた小豆で作ったお汁粉と干しいもは絶品です。沖縄三線を弾くと、子どもたちが「涙そうそう」を元気に歌ってくれました。その夜はまた、南三陸町の歌津にてお疲れさま会。

◆お酒もすすんだころ、江戸時代から続く契約講の会長が、向洋歌(こうようか。出身水産高校の校歌?)を歌いはじめました。歌詞には漁業の厳しさ、生活の様子、冗談が混じっていて、漁師の魂がこもった歌でした。歌に合わせてあるお母さんが踊りだし、周りの方の合いの手が入り、それに負けじと歌い手の声がますます響く。その場はみんな同じ船に乗っているような一体感に包まれていきました。不思議と涙がこぼれました。

◆今考えてみると、きっと私はこの人たちの心の中にある『誇り』ってすごい、と感動したのだろうと思います。津波で多くのものを無くしても、「自分たち」という強い何かが残っている。そんな彼らが羨ましくもありました。大切な歌を歌ってもらえて純粋にうれしかったです。

◆いま、キーーンと冷え込む夜の職員室にいます。今日は12月13日。今後、ここを中長期の復興支援拠点としていくための3日間の研修を終えたところです。昨日の夜は中国から災害ボランティアネットワークの方13名が見えて、鱒渕地区の方も交えての交流会でした。中国のみなさんは大量の水餃子(おいしい!)を作ってくれて、RQからは登米の名物「はっと汁(薄いすいとん風)」をお出ししました。今やこの小学校はボランティア拠点のみならず、色んなものが出会って新しいものが生まれる場所になっています。RQは新体制への移行期で、11月30日からボランティア受け入れを一時中止しています。9ヶ月間の疲れがどっと出ていて、のんびり休みたい!!!というのが本音ですが、資料整理、現地訪問などやりたいことは沢山あります。年末年始もうちょっと頑張って、1月に入ったらリフレッシュしたいなあ。

◆さいごに……いま直面している大きな山は、フェイスブックやツイッターを始めることです。体質的にどうしても好きではないけれど、今の時代は必須(なかんじ)なので、個人ではなくRQとして、とうとうやってみます。という感じで、これからも一歩ずつ頑張ります。(新垣亜美


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