■3.11以来、津波、原発が主題となった感じの地平線報告会。4月に新社会人になったばかりの私にとってその内容はもっぱら通信のレポートが頼りだったが、10月は土曜日の午後とあって、参加できた。それも「福島回覧板!」と称する、4時間のロングバージョン。思わずレポートを引き受けてしまった。
◆報告者は、動物支援でおなじみの滝野沢優子さん、原発事故渦中の福島県南相馬市にお住いの上條大輔さん、そして4月にチェルノブイリで取材をされた高世仁さんのお三方だ。
◆トップバッターの滝野沢さんは、まず福島の地形の説明から始めた。「テストです。東電福島第1原発はどこの町にありますか?」といきなり聞かれて会場は一瞬絶句。答えは「双葉町と大熊町にまたがっている」、なのだが、原発事故以来頻繁に耳にする現場の地名、位置関係が相当曖昧だった事に気づく。
◆滝野沢さんは原発から70km地点の中通り天栄村在住。震災当日、震度6強の激しい揺れに家は「大規模半壊」住宅に。居住は可能だったが、原発事故の追い打ち。情報が錯綜する中、車に物資を詰め込み逃げる準備をした。しかし、ガソリンが確保できず、とりあえず様子を見る事に。そうするうちに「この状況を収束まで福島で見届けてやろう」と思い始めた。東京出身で、福島に移り住んで6年。原発の直接被害者ではない。「不謹慎かもしれないが、ひとりの地元民として冷静に福島を見れるんじゃないか」という考えに至った。
◆ここから震災以降の福島での日常が語られていく。震災の爪痕は今も色濃く残り、津波で壊滅的にやられたいわき市の出張セブンイレブンの店舗には、屋根のみが残る建物の下に物が並べられ、被災海岸近くの絶壁には工事中の小型クレーン車が宙ぶらりんになったまま。ショッキングな震災・津波被害の現状が次々と映される。
◆天栄村で貸し出される線量計で滝野沢さんは、家の周辺、そして被災地を測定、ほんの数百メートルで劇的に線量が増減していることがよくわかった。「福島民友」や「福島民報」など地方紙の記事も紹介された。東京周辺で手にする新聞とはまったく違う紙面で「除染」や「補償」に関する記事が断然多い。
◆放射能を避けて避難した先がさらに汚染がひどく再避難するケースもあるそうだ。逆に、同じ福島県内でも会津地方はほとんど汚染されていない。そういう現状を、大阪生まれ、香川県で学生時代を過ごした私を含め日本人はどれぐらい知っているだろうか。
◆報告は、動物たちの救護の問題に入り、避難区域になって人がいなくなった町の、目をそらせない現実が突きつけられる。無人の町や村で、動物たちは、餓死、共食い、野生化、などまさにサバイバルを強いられている。いたましい、様々な動物の死体。
◆飼犬などは大人しく家で待っているケースもあるが、保護する時はガリガリで皮がアバラにめり込むようである。保護した動物はシェルターで預かり、飼い主の元や里親に渡されていく。現場には色々な正義があり、良かれとボランティアが家畜を解いたり、保護するのだが、実は飼い主さんが定期的に家に帰宅した際に餌をあげていたりする。
◆そこに何も規定は無い。各々が正しいと思う行動をするしかないのだ。滝野沢さんはそこで餌をもらえ、生活できているのなら保護の必要はないと考えている。そして連れて行く際にはきちんと連絡用の紙を家に貼っていくことが重要だ、と。環境省も福島県も動いていはいるが、保護頭数は少なく、あまりに非効率という。ボランティアの活動がいかに重要か、ということがしみじみ理解できた。そして、「この子も里親の元で幸せになりました。」と一頭の犬の写真を見せながら語る滝野沢さんの横顔は本当にやさしそうだった。
◆続いて南相馬市から来られた福島県歴15年の上條さん。原発被害の当事者であり、震災直後から現在に至るまでが生々しく語られる。上條さんはNPO法人の経営者で、環境整備(木を伐採した後の山を片付けて木を植える等)と通所の障害児福祉施設を運営している。施設はご自身が荒地を5年かけて整備した。
◆自宅は原発から28km、会社は31km地点にある。地震当日は環境整備関係の仕事で山にいた。突然下から上がってくる山鳴りがし、「これは大きな地震が来る」とすぐに車に戻るとすごい揺れがきた。余震で道路が「波打ち」、家が崩れていき、車が左右に揺れる中、帰社した。
◆上條さんの決断は早かった。工学部出の社員からいち早くドイツなど海外情報を得、今回の原発事故の深刻さを確認した。海が迫っていたこと、山に大量の花粉が落ちていたことから「大変なことになる」と野性の勘を働かせ、2日目の夜にはマイクロバスに人間13人、犬9匹を乗せて福島を脱出、埼玉に避難した。さらに、ネット情報から誰よりも早く線量計を入手していたというからすごい。
◆日ごろの準備と判断の速さだった。上條さんは自分の社員と自身の目を信じている。福島でも原発の危機を感じていた人は少なくはなかっただろうが、脱出した人が少なかった。理由は、「ガソリンがない」。上條さんの施設には非常事態用に食糧、燃料、発電機を常備しており、何かあった時に自分たちだけで生き伸びられる「備え」があった。県外に出る道には途中でガス欠となった車が幾つも路駐されていたそうだ。
◆震災後の行政の対応は確固としたものがなかった。5月頃に31km地点で放射線量が3μSvであっても、30km外であるので避難の必要はないとか、年間放射線量20mSv では安全だとか、風向きがどうだとか、曖昧な返答ばかりであった。最近になってようやく会社も補償対象になった。
◆上條さんの精神は、「困っている人がいたら助けずにはいられない。自分にできるならば助けなければならない」。人にはそれぞれに技術・才能があってそれは何に使うための物か。上條さんには初対面の子供とすぐに仲良くなれる特技がある。だからそれを生かして人の役に立ちたい。
◆今、福島に留まらざるを得ない子供たちを週に一度でも県外の安全な場所で遊ばせる場所を作りたいと考え、活動されている。当面北海道に拠点を持ちたいそうだ。日本が正に「想定外」の混乱状況のなか、何が正しくてどう行動するべきか。信じられるものは「前例にない」しかし、それぞれの正義をもって動物を助け、人を助け、色々な活動をされている人の存在だ。豊かさに慣れた私たち、今一度何の飾りもない「素の自分」に何が出来、どうするべきなのか、考え、行動することが試されている、と思う。(山畑梓)
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■休憩を終えて報告会は後半へ。DVD「チェルノブイリの今、フクシマへの教訓」の小児甲状腺がんについてのパート視聴に続き、このDVDを制作した高世仁さんのお話。福島の原発事故の状況はチェルノブイリのデジャブのようだと高世さんは、まず強調する。
◆キエフ郊外でインタビューをした一人目のおばあさんは、娘を甲状腺がんで失っていた。本来小児甲状腺がんは非常に稀な病気だが、チェルノブイリ原発事故以降周辺地域では急増した。現在は子どもの時に被ばくした人の発病はあるが、小児甲状腺がんは減少している。事故直後に子ども達にヨウ素剤を飲ませていれば、甲状腺への放射性ヨウ素の吸収が防げただろう。しかし当時のソ連政府は国民がパニックに陥ることを恐れ、汚染状況を隠し、避難なども早急に対応しなかった。その結果、被害が拡大した。
◆福島でも事故当時同心円状に避難区域を設定したが、飯館など汚染地域をカバーできていなかった。これからさらに避難、移住、補償等、チェルノブイリで起こった問題はフクシマへの教訓になるだろう。 そして今後は汚染地域にいた人々、特に子ども達の健康チェックを行っていく必要があるという。
◆チェルノブイリで甲状腺がんを患った子どもの多くは、思春期を迎えると結婚や子どもを産むことへの不安に突き当たる。何万人、何千人に1人というと統計的で無機質な数字だ。しかし実際には一人の生きた人間がそこにいる。人が成長する中で抱く、大切な人と結婚し、子どもを産み、育てたいという希望に対し、原発事故は25年経った今も暗い影を落とし続けている。
◆放射線の影響は二種類ある、と高世さんはいう。1つは急性症状。強い放射線に当たると髪の毛が抜けたり、歯茎から血が出たりする。もう一方は弱い線量による被害。長い時間をかけて影響が現れ、主にがん発症率が高くなる。低線量の影響の場合、発症には至らない場合も多いため、そこにとどまるか、移住するかという選択の自由が生じてしまう。
◆移住を選択できるのは経済的余裕のある人や、他の地域に移っても仕事ができる技術を持った人に限られる。汚染地域で暮らさざるを得ないのは、社会的弱者が多い。社会福祉が手薄になった汚染地域でそうした人たちが暮らしていけば、放射線の影響だけでなく、必然的に病気の割合が高くなる。原発事故は格差の問題も内包している、と高世さん。
◆放射能汚染によるリスクと、故郷を離れるリスクがある。特にお年寄りの場合は長年住み慣れた環境から離れて暮らす事に大変なストレスを感じるという。ストレスの影響は放射能の影響以上に強い場合もある。チェルノブイリには今も立ち入り禁止区域に住み続ける老人達が多くいる。強制移住させられたが結果的にストレスから来る病気で亡くなった人もいるという。
◆最後は三人のゲストがそろい、個々の立場から話を進めていく。まず滝野沢さんの感想。滝野沢さんが暮らす天栄村は原発から約70km離れているので、『前線』である南相馬に比べて当事者ではない感覚があるという。しかし、だからこそ福島全体のことを客観的につかめ、今の状況はテレビやラジオ、ローカル新聞を通じてかなり理解しているそうだ。
◆上條さんはチェルノブイリのDVDを観て、「福島の今と未来が全て詰まっている」と感じたそうだ。ウクライナで障がいを持った子どもが生まれてくる率が高くなっているのも放射能の影響だと言われている。今後、福島でも同様に障がいを持った子どもが増えるのではないかという心配を伝えるため、知人に高世さんのDVDを配ったという。
◆NPOのリーダーの視点から、市町村長、県知事の行動にも意見が及ぶ。賛否両論あるものの、飯館村村長の判断は村を存続させるためには正しかったと隣の南相馬市民は評価しているそうだ。政府の指示に関係なく子どもと妊婦を避難させ、村の将来を担う人材の保護を行ったのだ。
◆放射能の健康被害については、研究者によって答えにひどく差があると高世さんはいう。チェルノブイリでは内部被ばくを恐れ子どもへの牛乳や野菜の摂取を控えた結果、カルシウムやビタミンの不足が問題になった。また野外で遊ばなくなった子どもは免疫力が低下したそうだ。放射能汚染への対応には総合的なバランス感覚が必要だと感じた。
◆チェルノブイリの人々はヨウ素を多く含む海草類の摂取量が極端に少なかったため、事故で拡散された放射性ヨウ素が甲状腺に多く吸収され被害が拡大した。日本人は海草類の摂取が平均的に多いので、その点ではまだ救いがあるという。
◆後に、後戻りできない放射能汚染時代に入ったからには、「明るく生きる」ということも精神衛生上必要なのではと高世さん。人生における価値観は人それぞれ異なる。リスクは承知の上で人生の最期を故郷で迎えたい人、何らかの都合で移住できない人、子どもの健康のために故郷を離れる人。政府は汚染地域に暮らす人々の多様な価値観を受け入れ、出来る限りサポートをしなければならないと感じた。(山本豊人)
■あっという間に8か月が過ぎました。福島にはもうすぐ冬がやってきます。原発や大震災のニュースもずいぶんと少なくなり、落ち着いてきた印象ですが、状況は好転したわけではまったくなく、最近の福島では「除染」、「補償」などが大きなキーワードになっています。
◆私はといえば、相変わらず福島に留まりペットレスキューのボランティアなどをしています。去年までは犬の写真などを撮りに年に2度ほど海外へ出かけていたのですが、震災後はそんな気になれず、それどころか福島から出る回数も減りました。今の福島を見ておきたい。そんな思いが放浪癖を抑え込んでいるのでしょうか。
◆先日、江本さんにも言われて改めて自覚したのですが、私は地震の被災者(自宅が大規模半壊)ではありますが、津波や原発で被災したわけじゃなく(放射能汚染もあるものの避難するほどではない)、それでいて被災地近くに住んでいるからライブな福島を実感できるし、被災者との接触もあって彼らと気持も共有できる。福島ウォッチャーとしては絶好のポジションにいるのではないかと思うのです。
◆子供もいないしこれから生むこともないから、放射能汚染に対してもそれほど神経質にならなくてもいいし、いつでも福島を脱出できるという身軽な状況でもあります。
◆ところで、最近のペットレスキュー活動はちょっと進展がありました。葛尾村や飯館村、浪江の津島地区など、放射線量が高くて住民が避難してしまった場所に残された犬猫への給餌活動を効率よく行うために、団体の枠を越えたボランティアのネットワーク作りを進めています。それと同時に猫のTNR(去勢・避妊をしてからもとの場所に戻す)の計画もあります。シェルターで保護しなくても、生まれ育った環境の中で一代限りの生を全うしてもらおう、というわけです。
◆また、20km圏内からのレスキューも続けています。先日は浪江から子犬9匹と母犬などを連れ出してきました。そのとき人間が誰もいない「死の町」でテントを張って泊まりましたが、まだまだ頑張って生きている命が少なくないこともわかりました。みんな、ボランティアや心ある原発作業員、警察の方などが置いていく餌でなんとか命を繋いでいます。本来ならもっと行政が動くべき問題なのですが……。とにかく、今後もいろいろな方法を駆使して一匹でも多くの命を救っていきたいと思っています。(滝野沢優子)
■皆さん、お元気でしょうか? 地平線会議で発表をさせて頂き、そして夜の懇親会で力をもらい信念を貫く事を再認識し意気揚々と新潟経由でその後南相馬に一度帰りました。南相馬では話題に上がったように避難区域が解除になり学校や保育園が始まりました! しかし市民の多くは相変わらず戻ってこない人がいてまた日中外で遊んでいる子供もおらず正直何の意味があったのか? と思っています。
◆休止している施設再開移転に向け隣市町村、相馬市(原発から約35キロ)新地町(約40キロ)の国道沿いの巷では空間線量が低いと聞いて行ってみました……しかし!なんとどちらも空間線量は高く!地上1cmでは1.3μを超す高さ! やっぱりという感じです。まぁこんなもんだろうと思っていましたが。
◆最近の福島市民は地域の復興の名のもと様々な活動をし、戻って来い的な動きからもう安心原発収束、身体に問題無いみたいな感じです。自分がおかしいのか? 他人がおかしいのか? わからなくなりそうです。今また除染問題や東電の補償問題次から次と様々な事が実際に起きている次第です。
◆ここ数日間で南相馬は紅葉が進み素晴らしい景色になり、この素晴らしい景色の陰には放射線が……と思うと悲しくなってきました。この問題を決して忘れないため、今後の日本の為、次につながる一歩の為に命の大切さを訴えていきます。また地平線会議呼んでください!みんな忘れないでください! 震災を、そして原発事故を! 僕の信念は負けません!(上條大輔)
飯舘村の菅野典雄村長は「放射能の害よりも避難の害の方が大きい場合だってある」と公言して物議をかもした。でも、これは的を射た指摘だったと思う。避難せよというのは簡単だが、避難は巨大なストレスを住民にもたらすのだ。
◆原発事故から1ヶ月が経った4月11日、飯舘村は、政府から突然の全村避難指示を受けた。菅野さんはこれに抵抗し、「柔軟な避難」を粘り強く要求した。避難は「精神的、肉体的、経済的、さらに子どもの教育までもリスクを負う。避難によって生活の安心を崩すリスクが考慮されていない」からだ。牛もいるし会社もある。補償もないまま村民を避難させるわけにはいかないと菅野さんは考えた。
◆実際、他の自治体では、避難の結果、亡くなった高齢者が出ており、家族は分断され、多くの人々が失業で収入と生きがいを奪われていた。菅野さんは、村民がばらばらにならないよう、車で1時間以内に避難場所をさがし、終末期含め107人の高齢者が入居する特養施設「いいたてホーム」や複数の工場を村に残す例外措置を認めさせた。
◆従業員は車で通うことにして550人の雇用を守る。牛の補償についても、交渉を重ね、成牛1頭100万円という高い金額で買い取らせることに成功。さらに、空き巣対策として、村を巡回する「いいたて全村見守り隊」を結成し、村民400人(多くは中高年)の臨時雇用を生み出した。
◆この間、交渉と対策に時間がとられ、避難が終わったのは、政府が指示した「1ヶ月以内」から大幅に遅れて6月下旬になる。菅野さんは「人殺し」とまで非難された。チェルノブイリ事故の汚染地では、住民は「町の発展をめざす」か「はやく移住したい」かに分かれ、毎回の選挙の争点になっている。事故から25年も経つのに、である。故郷からの避難・移住が、いかに難しい問題かがわかる。
◆菅野村長は「2年で村に帰る」という目標をかかげる。実現は難しいと思うが、このスローガンが村民を力づけていることも確かだ。今回の事態はまさに未曾有の出来事。唯一の「正解」があるわけではない。模索を続ける飯舘村の今後を見守りたい。(高世仁)
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