2011年8月の地平線報告会レポート


●地平線通信383より
先月の報告会から

太古の風、光、匂い、そして‥

関野吉晴

2011年8月27日 18:30〜21:00 新宿区スポーツセンター

■関野さん、おかえりなさい! 日本列島へ渡ってきた古(いにしえ)の人々の足跡をたどる「新グレートジャーニー(以下:GJ)」の第3弾は、インドネシアから沖縄へ至るまでの「海のルート編」、別名「黒潮カヌープロジェクト」。足かけ4年、作業に携わった人はムサビこと武蔵野美術大学の学生だけでも100人以上。その顛末を聞きたくて、夏休み最後の土曜日の報告会は全国から集まった人達でいっぱい。

◆日本人の来た道をたどる、という表現は正確ではないと関野さんは話す。「日本人というグループはもともといない。日本はさまざまな地域からたどりついた人間のふきだまり。A・B・Oの血液型がそろっているのは世界でもわりと珍しく、多様な人種が集まっていることがわかる」。日本は東の果ての行きどまりの島国。西のイギリスも同様だという。

◆昔の技術で「海のルート」を渡るのは不可能だと主張する人もいるが、関野さんは反論する。「何世代もの長い時間をかけて島づたいに移動すれば可能」。波風にあおられる舟の旅に女性や子供は耐えられないのでは?と尋ねると「静かで安全な時に行くから大丈夫。1つの世代で隣の島に移るくらい、ゆっくりゆっくりしたスピードなら問題ない」と即答だった。

◆人類が地球上に拡散した道をたどるGJの旅を10年かけて終え、新GJの北方ルート編と南方ルート編も完結した関野さん。最難関の海のルート編に取り組むため、2008年春にインドネシアを訪れた。航海のパートナーに選んだのは、舟作りがさかんなスラウェシ島のマンダール人。「サンデック」という帆船のレースで知られ、今でも帆船を扱う珍しい民族だ。少数民族のマンダール人は他の大きな民族から見下げられていた。関野さんは彼らのことが好きになった。

◆周囲360度が海。航海は島影が頼り。島がない所では星と月と太陽がナビゲーター。ただし日中は太陽がずっと真上にあるため、夕方に西へ沈むまではあてにならない。夜は北極星で方角がわかり、南十字星の位置で現在の緯度が読める。南半球に生きるマンダール人にとって、生まれて初めて見る北極星だ。

◆マンダール人はコンパスを使いたがった。イスラム教徒なので礼拝の方角を知るためだ。しかし関野さんは彼らを説得し、昼の航海中はコンパスも海図も使わず、古代の人と同じように五感のみに頼ることにこだわった。水の深さは海の色を目で見て、風向きは帆の様子や皮膚で感じて。

◆関野さんを含めた日本人4名とマンダール人6名は2隻の舟に分乗し、その組み合わせは時に変わった。4畳半ほどの舟で24時間衣食住と排泄をともにする「多民族共存の実験場」。日本人メンバーはGJのシーカヤックパートナー渡部純一郎さん──経験豊富な渡部さんは主に安全面の判断を担う。ムサビOBの前田次郎さんと佐藤洋平さんはクルーの中で最年少。プロジェクト開始時は卒業したばかりの24歳だった。

◆報告会に参加していた前田さんが、舟の生活について解説してくれた。洋服は各自で持ち込んだものを自由に着て、雨が時々きれいにした。食事はマンダール人に合わせたが、彼らの主食も米。おかずになる魚や貝はすぐに釣れる。途中に立ち寄る村々ではフルーツや水や野菜を買える。舟の上で、薪を燃料に火を使って調理もできるので困らなかった。

◆ある村で物売りに勧められて2羽のニワトリを買い、2隻に1羽ずつ乗せた。その時関野さんと前田さんが乗っていたパクール号ではすぐに食べてしまったが、4人しか船員がいない縄文号では新しい仲間の登場に心が和み、しばらく一緒に航海した。自分達のご飯を分けてあげたり、たくさん糞をするのでこまめに掃除したり、いとおしい存在だったという。

◆前田さんが語る一番辛かった思い出。座ってオールを漕いでいると睾丸がすれて皮がすりむけ、その傷口にさらに潮水を浴び続けたこと。横でうなずく関野さんの苦い表情を見る限り、痛そう。「航海中は寝るか座るかしかないので運動不足になり、足腰が弱って宇宙飛行士の気分だった」と関野さん。日常的に小舟で漁をするマンダール人の男性は一般的に足が細いそうだ。

◆ゴールを目前にして、ひた走る2隻の映像が流れた。縄文号のほうが小さく、弱い風ではスピードも格段に遅い。2隻が並走するのは簡単ではなく、パクール号が先回りして待ったり、パクール号の帆を操って風を逃がしわざと遅く進んだり、互いを視野に入れ調整しながら進んできた。

◆貴重な映像が見られるのは「撮影班」がクルーを追ってカメラを回し続けていたから。報告会に参加していたムサビOB水本博之さんは、主に伴走船から撮影したが「大切なことは舟の上にある」と可能な限り舟に乗り込んだ。しかしただでさえ定員ギリギリなのでクルーからは歓迎されず、彼らに快く話をしてもらうのが一苦労だったという。

◆未知の航海では、舟の中でも嵐が勃発。いざという時誰よりも頼りになるマンダール人クルーのイルサンは躁鬱が激しく、家族が恋しくて突然家に帰りたがったりするので、マンダール人達が彼をメンバーから外すよう関野さんに頼んでくることもあった。舟体トラブルもたびたびあった。帆の帆桁が古くなって折れた時は骨折と同じ処置をしてなんとかしのいだが、修復が一筋縄にはいかなかったのは人間関係のほころびだ。

◆関野さんは航海が始まる前に「文化も宗教も違う人間が狭いカヌーの中で、危険と隣り合わせの活動をする。本音の出し合いの中でトラブルも多発するだろう」と地平線通信に書いていたが、「自他ともに認めるトラブルメーカーだった」のは前田さん。航海1年目の慣れない旅で、自分も何かやらなくちゃという思いから出た行動が空回りした。

◆マンダール人達が不満をあらわにした理由の一つは「食料が少ない」。もう一つは「前田さんと一緒にやりたくない」。事の発端は、前田さんが持参した防水バッグをマンダール人キャプテンともう一人のマンダール人に「シェアして使ってね」とあげたこと。すぐにびしょぬれになる舟の生活で思いついた善意だった。ところがシェアしているはずのマンダール人がもう一つ欲しいと頼んできたので、前田さんは断った。キャプテンが1人で使っていたのだ。

◆シェアして使うように再度キャプテンに伝えると、他のクルー達の前で年下の若者に注意されるという辱めを受けて、最年長のマンダール人キャプテンは大激怒。マンダール人は年長者を敬い、年長者の意見に従って調和を保つ社会。腹をたてたマンダール人キャプテンが前田さんのことをうっとうしいというと他のマンダール人達も頷いた。孤独になった前田さんは意思疎通がうまくできないのは言葉の壁のせいだと思い込み、辞書を開いてひたすら語学の勉強に打ち込む。

◆後になって前田さんは気づく。荷物入れを他人とシェアするという発想はマンダール人にはない。マンダール人達全員がキャプテンに頷いたのも年長者に同調してのことだと。航海2年目からは互いをもっと理解できるようになり、「マンダール人と正面からぶつかってけんかもしたが、最終的には彼らが考えることがよくわかるようになった。むしろ関野さんや洋平の考えてることのほうがわからないくらいだった」と笑う。

◆マンダール人のコミュニケーション方法は変わっている。「彼らはまっすぐものをいわない。いざこざを避けるために、自分がいいたいことを必ず別の人を介して伝える」と関野さん。マンダール人が関野さんに意見がある時は、他の日本人メンバーにわざわざ伝言を託してきたそうだ。男女ともにそういう習慣らしいが、好きな人に告白する時はちゃんと向き合っていうのかな?

◆インドネシアから、フィリピンを経て台湾へ到着した一同。台湾でしばらく遊びたかった若手2人に、関野さんは明日日本へ出発すると告げた。ちょうど台風3号が来ている。リーダーの関野さんが旅最後の決断を迫られる場面となった。この風を利用してゴールまでの残り300kmを一気に進む大胆な計画、進むか待つか?

◆いつもは慎重な渡部さんが賛成派に回り、前田さんと佐藤さんは躊躇した。「結果としては良かったがとても難しい決断だった」と関野さん。これまでも荒れる波風を乗り越えてきた縄文号の底力に自信を持ち始めていたことや、悪天候で出航を見送ったら最高の航海日和になった悔しい思い出も、関野さんの背中を押した。進む!を選んだ関野さんは興奮で出発前夜眠れなくなった。

◆そして風に乗り猛スピードで2隻はついにゴールの石垣島へ到着!「この旅が成功したことで古代の人々が日本へ海で来たと証明したことにはならないが、可能性があったとはいえる」と関野さん。五感、に加えて、研ぎ澄まされた六感も関野さんを突き動かしていたのかもしれない。はるばる日本にやって来た「僕らのカヌー」は長かった旅を終え、今しばらくはムサビの敷地内で2隻そろって休んでいる、ZZZZZ…………。(大西夏奈子


「僕らのカヌーができるまで」という映画について

■古代のやりかたにならってカヌーを作る。「素材から作る体験はものづくりをする人にとって貴重な機会になる」と関野さんがムサビの学生や卒業生に参加を呼びかけたところ、多くの手があがった。学生達はチームに分かれ、先人の知恵を借りながら体当たりで研究と工夫を重ねていく。その過程は「撮影班」によって丁寧に映像記録におさめられ「僕らのカヌーができるまで」という映画になった。

◆斧・ナタ・ノミを完成させるまで、気が遠くなるような2か月半。伝統的な手仕事にこだわり、技術伝達を通じて人間そのものを育てていると語る職人。自然の素材と人間の知恵と動力だけで作った道具からにじみ出る、言葉にできないやさしい深い深い温かみ。すごい。今までの人生でそういうものにどれくらい触れてこれただろう?

◆「縄班」は葛やシナなどの草木を採取して試作品を編むという地道な作業を繰り返す。「作業が生活の一部だね」と地べたに座り手を動かしながら話す学生達。試行錯誤を経てシュロの縄をインドネシア滞在中の関野さんへ送り届けた。

◆「食班」は天然の素材からの保存食作りを試みる。山形のお婆さんから学んだトチ餅は、灰ときれいな水がない東京では実現できず、代わりにマテバシイの実でクッキーを作った。とれたての熊汁をごちそうしてくれたお爺さんは「やめられねえよ。なんともいえねえだろ? こういう肉食ってると人間正直になる。熊は木の実とか自然のものしか食わねえから」。昔ながらの生活を営む人の日常の会話にはっとした。

◆インドネシアでは丸木舟の材料にする大木探しに苦戦。理想的な木になかなか出会えない。それに加え、ドリルやチェーンソーを使わずに船を作るのは無理だと舟大工達からは文句が飛ぶが、仕事を引き受けてくれる舟大工を探して交渉を重ねる関野さんは「ウルトラCとして、もし大木が見つかったら2隻作っちゃおうかって思うんだよね」と楽天的。

◆その後、奇跡のように大木が見つかってウルトラCが実現した。1隻はマンダール人の伝統に基づいた構造船「パクール号」として、もう1隻は大木をくりぬいた丸木舟「縄文号」に生まれ変わる。反発していた船大工達も嬉々として制作に打ち込み、2隻は晴れて進水の儀式の日を迎えた。

◆舟体にはサンゴの粉をココナツヤシの油で溶いた漆喰を塗り、「アスファルトよりも強いよ」と誇らしげな舟大工。関野さんが「これで日本まで無事に行けますか?」と聞くと彼らはウンとうなずいた。乾燥させたヤシの若葉を居坐機で三角形の帆に編み上げ、マンダールの老人は「30年ぶりに我々の知恵が蘇ったよ」と伝統的な織り方の復活に大喜び。夕暮れで海が金色の光でいっぱいの時、手織りの帆が透けて黄金に輝き本当に美しかった。空も海も雲もきれい。舟もきれい。何もないのに見とれる場面ばかりだった。(大西


報告者のひとこと

「縁というのは実に不思議なもので、一人の人間を探していると、必ずその人と私の共通の知り合いが浮かび上がってくる」「よく考えてみると、たった3年で着いてしまったのだ」
 関 野 吉 晴

 2008年、道具を作るために素材を自然から自分たちでとってきて、自分たちで作ると決めた。まず鉄を作らなければならない。砂鉄を集め、炭を焼き、たたら製鉄をしなければならない。そこで東吉野に向かった。刀鍛冶の河内國平さんに相談するためだ。日本が鉄鋼先進国であるにもかかわらず、今もたたら製鉄をしているのは日本刀を作るためには砂鉄からたたら製鉄で作らなければならないからだ。出雲では今でもたたら製鉄をしていると聞いた。刀鍛冶に相談すれば何か突破口があると思ったからだ。

 大阪の難波から東吉野に向かった。河内晋平君の父親、刀鍛冶の河内國平さんと会うためだ。佐藤洋平、前田次郎の他に武蔵美の学生、卒業生3名が同行することになった。近鉄の最寄り駅まで1時間半かかる。そこからは車でおよそ40分、吉野杉やヒノキの美しい森に囲まれた閑静な所に家と工房があった。

 家に到着すると、奥さんが迎えてくれて、すぐに仕事場に案内してくれた。暗幕を張って、電気が消されていたので、薄暗い部屋の中に木炭の燃え盛るオレンジ色の炎だけが明りだった。その明りに照らされた國平さんの顔がオレンジ色に輝いていた。厳しい顔で、炎を見ながら手押しのフイゴを押していた。若い弟子が二人、炭を切っていた。コロンコロンコロンと槌で鉄の叩き台をたたくと、その合図に、國平さんの前に重そうな槌を手にして、並んだ。國平さんが忙しくフイゴを押すと、炎が火花を散らしながら燃え盛った。二人の助手が槌を振り上げて、力強く振り下ろす。國平さんが叩く所を指示する。正確に打たないと國平さんの怒号が飛ぶ。この刀匠國平さんとの出会いによって道具作りは飛躍的に進むことになった。

 日本刀は新日鉄や神戸製鋼などが作った鋼からは作れない。宮崎駿監督の「もののけ姫」にも出てくる、太古から行われてきた、たたら製鉄から生まれた粗鋼から作る。日本刀作りの伝統が残っているおかげで、唯一日本にだけたたらの伝統が残っている。そのほとんどのあるいは玉鋼は島根県で作られている。その指導者が村下と呼ばれ、日本では木原さん一人になっている。その木原さんにも連絡を取ろうと思っていた。

 さっそく東吉野に行き、國平さんとお会いしたのだ。刀鍛治として協力を惜しまないと約束してくれただけでなかった。紹介してもらおうと思っていた島根の村下ではなく、東工大の永田和宏さんを紹介しようと言って、さっそく電話してくれたのだ。そしてNPO「モノづくり教育たたら」でたたら製鉄を指導している永田先生も「協力を惜しまない」と言ってくれた。

 縁というのは実に不思議なもので、一人の人間を探していると、必ずその人と私の共通の知り合いが浮かび上がってくる。

 永田氏から120kgの砂鉄を集めてくださいと言われたが同時に「300kgの炭も準備してください」と言われた。炭は何回か焼いたことがある。しかしドラム缶で少量焼いただけで、300kgとは大変な量だ。世界炭焼き協会の会長で「炭焼きが世界を救う」と唱えて86歳の今も世界をまたにかける杉浦銀次さんに炭焼き指導してもらうことになったが、共通の知り合いが何人もいた。難なく連絡がとれ、杉浦さんの協力を仰ぐことになった。

 永田氏は彼がたたら製鉄をする時に使う炭の購入先を紹介してくれた。砂鉄もニュージーランドの砂鉄が九十九里のそれと似ていて良質だ。それを簡単に買えるので購入先を紹介してくれた。しかし私が「いいえ炭も自分たちで焼きたいのです」と言うと、少し声が詰まって、「なんで?」と思っている様子だった。河内さんも最初は何故たたらをするのか、そのために必要な砂鉄を自分たちで集めて、必要な炭を自分たちで焼くのか理解できなかったが、詳しく説明すると納得してくれ、その後熱っぽく協力してくれるようになった。

 それから縄文号とパクール号が石垣島に着くまで3年以上かかっている。しかしよく考えてみると、たった3年で着いてしまったのだ。スンダランドから日本列島にやってきた太古の人たちは幾世代もかけて航海して来たことを考えれば、あっという間に航海し終えてしまったといえる。応援団長の岡村隆氏や事務局の野地耕治氏、安全対策に奔走してくれた白根全氏らこの航海で尽力してくれた人たちは「やっと終わった」とほっとしていると思う。私も最初から腐った木で作ったぼろ船で、トラブルも多かったので、「よく着いたな」「ほっとした」という思いがある半面、もっとのんびりと航海を楽しみたかったなとも思っている。


見事な造形物「縄文号」「パクール号」を必ず見て、さわるべし!!!

■東京・小平市にある武蔵野美術大学鷹の台キャンパスの中央部、12号館前の広場に2隻の丸木舟が鎮座している。手前の、やや短い艇は、「縄文号」。全長7メートル。奥の幾分大きいほうは「パクール号」。11メートル。2艇ともこの大学で文化人類学を教える関野吉晴教授と弟子、インドネシアの島人たちの労作だ。
 縄文号、パクール号を身近に見て、なんと美しい造形物か、と感嘆する。すべて手作りの潔さがひとつの「作品」となっていることに驚くのである。そして、21世紀の今、東日本大震災の大津波で太平洋沿岸がことごとくやられ、人々が必死で立ち上がろうとしている時、この2隻が訴えかけるテーマはとてつもなく深い、と感じたのである。
 滅多にない造形物だ。見に行くべし。足を運び、自分の五感で確かめるべし。無形文化財クラスではないか、と私は大袈裟でなく思う。(E

 以下、武蔵野美術大学のウェブサイトから、展示の案内。

◆海のグレートジャーニー展
 日本列島にたどり着いた人類の足跡。インドネシアから石垣島4,400km◆

■開催日程:2011年07月11日(月)〜2011年09月30日(金)
   平日:9:00-20:00/土曜日:9:00-17:00 *日曜日・祝日は休館
■開催場所:武蔵野美術大学図書館
★外部の方は図書館入口で「海のグレートジャーニー展」を見に来たと伝えると入場できます。
■入館料:無料
■主 催:関野吉晴研究室

★本学関野吉晴教授(文化人類学/人類史)が、佐藤洋平(2007年油絵学科卒業)と前田次郎(2008年基礎デザイン学科卒業)、その他本学の学生、卒業生及びインドネシアのマンダール人とともに、日本列島にたどり着いた人類の足跡を旅した記録を紹介する展覧会を、武蔵野美術大学 図書館にて開催しています。
 現在、12号館前に二隻のカヌー、「縄文号」と「パクール号」が展示してあります。それらのカヌーが「どのように作られ」「どのような航海をしてきたのか」を、ここ図書館での「海のグレートジャーニー展」をご覧になっていただくと、お分りになると思います。

報告会もうひとこと:関野吉晴さんと宮本常一さん

■「旅するお医者さんのすごい先輩がいるよ!」と高校生の時に同級生から関野さんのことを聞いて初めてGJを見ました。アドレナリンがどばどばめぐって、大人になってもこんな生きかたできるんだ、世界の人とこうやって話ができるんだ、行っちゃえばいいんだー!と衝撃を受けました。

◆親子ほど年上の関野さんに、「世界」とか「冒険」とか「人類」という刺激的な世界があることを教わりました。「GJに憧れて世界へ行く」と旅に出ていった同世代の友達が私の周りに何人もいます。関野さんは好きなことを貫いているだけだとしても、違う世代にまでこれほど強烈な影響を与えてしまうのはなぜだろうと思います。

◆関野さんはどんな高校時代を送っていたのかお聞きしたら、「柔道部にいたけど道場の窓から校庭のラグビー部の練習が見えて、外で走り回れるからいいなぁと眺めてた。それで気がついたらラグビー部員になって一緒に外を走ってた」と、関野さんは青春時代から「いいな。いいな。やりたいな」に駆り立てられていたことが判明。今でも仲良しの高校の親友がめざましテレビの大塚範一アナウンサーだと聞いて、鋭いところや憎めない笑顔の温かさがなんとなく似ているなあ?と思いました。

◆地平線会議創設メンバーの皆さんの口から宮本常一さんのお名前が出てくるたび、若者の人生にそんなにも影響を与えた宮本常一さんとは一体どのような方だったのだろうと、文字や写真だけを見て想像をふくらませています。人と人の生きる時代が重なるかどうかは、人の人生を大きく左右することなんですね。こうして今同じ時代に生きて、関野さんから直に旅の話を聞いたり見たりするチャンスがある、関野さんのかたくなな熱を感じることができる嬉しさをかみしめる人が、私以外にも本当にたくさんいると思います!(大西夏奈子


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