■「報告会レポートじゃなくて、丸山純という人間を書いてほしい」。江本さんより壮大なテーマを与えられた。さてどうしよう? 丸山さんの話は今まで何度か聞いている。昨年の8月の報告会では、三輪主彦さん、中山嘉太郎さん、埜口保男さんと一緒に丸山さんとも話させてもらった。「正統派」「論理的」「知性的」「スマート」。どうしてもそのイメージに囚われてしまうので、一度、心を無にしてインターネットで検索をかけてみた。丸山純、W88、W59、H86、んんっ?、レースクイーン丸山純だった。やはり情報に逃げてはダメだ。
◆「申し訳ない気持ちです」。丸山さんの報告会の第一声は意表をついていた。何が?と思ったら、4月以来今まで3回震災関連の質の高い話が続いたあとに、それを打ち切る役目が自分である、ということが聞き手に申し訳ないということだった。それでも話し手を引き受けたのは、この6月に立命館大学でキャリア形成論と国際理解教育論という二つの授業を大学生にしたのに、地平線の若手には話していないのも悪い。しかも話し足りないことがあったからだと続く。
◆そこから話は核心に迫る。探検家になりたかった丸山さんは、地平線会議第5回!(1980年1月)の報告会で「非探検人間の探検行」というテーマで語っている。探検という言葉にこだわる丸山さんからすると、自分は探検家ではない。それでも探検ゴコロは眠らずに持ち合わせている、という思いがある。ここで裏のテーマ「なんで、梅棹忠夫になれなかったのか?を、ちょこっと考えてみた」の文字がスクリーンにドーンと落ちてくる。その鮮やかさにプログラマー丸山純としての顔がのぞく。
◆昨年亡くなられた梅棹忠夫に憧れ続けた丸山さん。当然、大阪の国立民族学博物館で開かれたウメサオタダオ展を訪れる。完成度の高い展示を見ながら感じたことは、12、3歳ごろの梅棹さんは「なんだ俺とかわらない」。普段の丸山さんが言いそうにない強気の発言に、会場にドキリとした空気が走る。そこから、子ども時代の話が始まる。
◆東京出身で、お父さんが映画関係の仕事で忙しかった丸山さんは、アウトドアの体験をする場がなく、心配した両親に小学校2年生のときにボーイスカウトに入れられる。春夏秋とキャンプをするボーイスカウトの野外生活は丸山さんの性にあい、中学2年生まで続けることになる。その組織の中で認められた丸山さんは東京のトップになり、富士裾野で行われた全国大会では何百人も人間に号令をかけ、国旗に敬礼をさせた。そのことに丸山さんはひるんだらしい。もともと軍隊的な組織が嫌いだった丸山さんはそれを機に、ボーイスカウトをやめることになる。小学生時代、探検、冒険の本が大好きだった丸山さんがのめりこんだ本が、イギリスの児童文学作家、アーサー・ランサムの『ツバメ号とアマゾン号』12冊。ボーイスカウト上がりの主人公と自分を重ね合わせて、翻訳された次の号が出るのが待ち遠しくて仕方なかったと本当に嬉しそうに話した。
◆中学になってもっとも影響を受けた本は向後元彦さんの『一人ぼっちのヒマラヤ』。ヒマラヤ登山は大名行列のようなキャラバンでしかできない、と、思い込んでいた丸山さんは、キスリングザックひとつで自由に動く向後元彦さんに驚き、本をなめるように読んだ。
◆そんな丸山さんに転機が訪れる。ボーイスカウトで訪れた武蔵五日市の大岳鍾乳洞に入ったとき、洞窟調査という大義名分を口実にすれば、堂々とキャンプができるのではないか?と閃いたのだ。結果は思ったとおりで、中学の科学部の仲間とともに忘れもしないアポロが月に直陸した日、「アームストロングなど地上の言いなりの猿みたいなもんだ」といいながら洞窟に向かった。当時の洞窟探検で竪穴に下りるにはワイヤー梯子が常識だったが、中学生の丸山さんたちには高価すぎて買えない。そこで研究に研究を重ね、縄梯子を自作する。
◆そうして洞窟探検にはまり込んでいった丸山さんは高校入学後、熊石洞などの鍾乳洞が多数ある岐阜県郡上八幡に30回も通うようになる。この頃、『現代の探検』という雑誌で地平線会議創立当初のメンバーである賀曽利隆さん、関野吉晴、惠谷治さんなどを知り、憧れ、その影響を強く受けた。丸山さんが洞窟の入り口で撮った写真のポーズは、『現代の探検』創刊号の表紙を飾った三原山の火口に潜ろうとする惠谷治さんのマネであり、伊藤幸司さんが子どもたちに探検の出前授業を行ったという話が印象に残り、今自分がやっている「子どもたちへのデジカメ教室」につながっているという。
◆ところが早稲田大学文学部に入ると状況は変わった。文学青年ばかりの環境の中で、自分も何か芸術的なことをしなければいけない、と思ってしまったのだ。お父さんが映像技師だったこともあって映画を撮り、フォークギターをひき、探検の世界からは一時遠ざかっていった。大学3年で「西洋史学科」を選択、興味をそそられ学者になろうかな、と思う。ところが現地も知らないまま卒論を書くのもなんだ、と考えるようになり、海外に行こう、と決めたときに、はっ、と思い出したのが『現代の探検』第7巻に載っていた「カフィリスタン探訪記」。
◆そういえば昔、ヒマラヤにアレキサンダー大王の子孫である紅毛碧眼の異教徒がいる、という話にショックを受けた。その関連書物を調べると憧れの向後元彦さんや本多勝一さん、梅棹忠夫さんまで出てくる。これはもうパキスタンのチトラルに行くしかないと決め、その資料のコピーをとりに日本観光文化研究所を訪れた。そこで紹介を受け、憧れ続けてきた向後元彦さんと会ったとき、丸山さんは人生で最大に緊張した。
◆「僕は後輩たちには最低でも四季は体験しなくちゃダメだよ、と言っているんだよね」と向後さんに言われた丸山さんがカメラの相談をすると、伊藤幸司さんを紹介される。その伊藤さんに「言葉は1か月もあればしゃべるようになる」と言われ、そんなはずはない、と思ったが、その言葉は心に響き、以降本格的にカラーシャ族と暮らしたいと思うようになった。
◆チトラルはパキスタンの北西端。アフガニスタンに接して広がる県。標高は1500メートルの極度に乾燥したヒンズークシ山脈の谷間には、独自の多神教を信仰し、周囲のイスラーム社会から孤立した「異教徒(カーフィル)」の村がある、はずだった。ところが1978年、秘境だと思っていたその地に丸山さんがたどり着くと、そこはすでに観光地となり、カラーシャ族は観光客にお金をせびる民族になりさがっていた。さらに疲れ果ててたどり着いた安宿で大麻をふかすイギリス人に「まさか文化人類学の調査に来たんじゃないだろーな。オマエは来るのが遅すぎたよ」とせせら笑われ、最悪の初日となった。
◆翌日、お金を払えば、調査できるようにしてやる、という男に出会い、居候してこそ深く村人を知ることができる、と考えていた丸山さんは断る。ところが一人になると、お金をせびる村人に取り囲まれどうしようもなく、もうひとつの憧れの地であるインドのラダックに行こうかな、とまで思い始める。
◆滞在して3日目。偶然、村の葬儀に出くわした。こういう時なら写真をとっても大丈夫と聞いた丸山さんはこっそり遠くから撮影する。カメラのファインダーに写ったのは、てんでバラバラに歌い、独楽のように遺体の周りを踊りながら回るカラーシャの姿。3日間その踊りは夜も途切れることなく続く。その半音の繰り返しの単調なリズムが耳からはなれず、狂ったように踊り続ける姿に「コイツラは野蛮な人たち」なんだと思った。でもその野蛮さに丸山さんは憧れ、自分も野蛮になりたいと強く感じる。
◆それだけ激しく悲しみながら、遺体を墓地に運び込み木棺に土をかけると、もう棺を振り返ることすらなく去ってしまう乾いた感性は日本人にはない。向後さんがカラーシャについて「謎だ」と何度も書いてある通りだ。「謎は解明されなければいけない」。このときカラーシャに通い続ける覚悟がきまった。この葬儀の場で知りあったブンブール・カーンの宿がそれ以降、丸山さんの第二のふるさととなる。
◆ブンブールの家は2階建て、その1階が丸山さんの部屋だ。カラーシャは床で眠るイスラム教徒とは違いベッドに椅子の生活をしている。主食はクレープのようなパン。牛の糞を肥料にした畑はとうもろこし、小麦、などを植えている。女神ジェシュタクの神殿は、なんと隣の部屋にあった。一緒に生活することでカラーシャの姿が少しずつ見えてくる。それでも言葉だけは、簡単には分からなかった。
◆ところが1ヵ月後、信じられないことにカラーシャ語で考え、頭の中で他の言語に置き換えなくてもカラーシャ語が口から出てくる自分がいた。その手助けをしてくれたバリベーグは本当の兄弟のようになり、以後付き合いは続いていく。
◆近年、アレキサンダーの子孫である自分たちに祖先がイスラム教徒に弾圧され、悲しい生活をしているという名目でカラーシャの村にギリシャの援助が入り、学校が作られたり神殿が改築されたりしている。しかしその派手な援助が周囲のイスラム教徒の反感をかい、さらに国境を接するアフガニスタンからタリバンが侵入。援助プロジェクトのリーダーを人質に身代金を要求する事件まで起きている。
◆なぜカラーシャに通い続けるのか? 丸山さんが挙げた理由は、向こうに田舎ができた。学びたいことがいくらでも出てくる。気候風土が好き、だった。33年間も通い続けると、カラーシャに行くときは里帰りの気分になり、親友バリベーグに早く会いたい気分になる。しかしそれらの理由よりも「浮気をしたら彼らに申し訳ない」と言った一言のほうが、心がこもっていた。
◆話し終えた後に会場に来ていた宮本千晴さんより、記録を本にすべきだと、薦められた丸山さんは、昔、村人に「オマエも俺たちのことで儲けているんだろう」と言われたときに、「カラーシャのことを書いて稼いだりしない」と心に誓ったと答えた。その答えこそが梅棹忠夫になれなかった、心優しき丸山純の素顔に見えた。(坪井伸吾)
■国立民族学博物館(民博)で開催されていたウメサオタダオ展を、最終日の6月14日におとずれた。わかき日の「発見の手帳」や有名なB6カード、お宝写真なども展示されていてわくわくさせられたが、いちばん印象にのこったのは、2階の壁面をぐるりとおおった年譜だった。小さな男の子が年ごとに成長してとてつもない知の巨人となり、90歳で生涯をとじる。その軌跡がはるか一望できるのだ。
◆山あるきをしたり、手づくりの出版物を刊行したりと、中学生あたりまでの梅棹さんは、わたしとあんまり変わらない。ところが高校生になるとだんだん引きはなされはじめ、そのごは加速度的に差がひらいていくばかり。いまのわたしの年齢である50代なかばには、開館をまぢかにひかえた民博の初代館長として、政官学民のはざまを奔走していた。
◆どうしてそうなっちゃったのか? 頭のデキがちがうから? →う?ん、それはあたりまえだけど、でもそれだけじゃないだろう。やっぱり時代がちがうから? →まあ、たしかにそれもおおきいかな。じゃあ、友人や先輩にめぐまれたから? →そうか、神谷夏実(高校からのケイビングなかま。第37回報告者)が川喜田二郎で、江本嘉伸が今西錦司だったら、おれも梅棹忠夫になれた……わけはない。
◆なんども年譜のまえを行ったりきたりしているうちに、やっぱりフィールドと方法論がちがうからという答えにたどりついた。モゴール族がカラーシャ族で、そこだけにかよいつづけていたら、ひらがなタイプライターも文明の生態史観もうまれなかったし、民博もただの博物館になっていまごろはつぶれていたことだろう。ぎゃくにいえば、梅棹さんが手にできなかったものを、カラーシャたちはわたしにあたえてくれたのだ。
◆ポイントとなるのは、やはり1978年のはじめての旅だ。あの旅のもようを、なぜ梅棹忠夫になれなかったのかという切り口からかたってみると、あらたにみえてくるものがきっとあるのではないか。そんな確信がふとおもいうかんで、それまでことわりつづけてきた7月の地平線報告会の報告者をひきうけることにした。
◆ところが、ほんとうに、ほんとうにもうしわけないことに、予定していた内容の半分もみなさんにつたえることができなかった。あれでもずいぶん数をしぼりこんだつもりなのだが、スライドの説明にかなり時間をとられてしまい、旅そのものをかたる余裕がほとんどなかったし、民族衣装を着てもらうのにもけっこうてまどった。おかげで後半あせりにあせって、近代化と援助の問題を表面的になぞるだけになってしまったのは、いまおもいだしてもくやしくてしょうがない。森田靖郎さんにならって吹こうと用意していた、カラーシャのななめ笛もおきかせできなかった。
◆ほとんど自給自足だった伝統的な無文字社会が、この30年間で内側からおおきく変わっていった。雪にとじこめられる冬のあいだ、春がきて峠のジープ道がとおれるようになるのをこころ待ちにしていたのに、いまでは1時間半で川ぞいの道からチトラルの町まででていける。町にいるあいだしか通話できないのにケータイ電話をもつ若者たちが急増し、インターネットカフェにいりびたる者もいる。乳児や幼児の死亡率もぐんとさがり、おかげで人口が80年代の1.5倍ぐらいにふえて、どの家も子どもだらけだ。援助にささえられて、カラーシャという民族のパワーは最高潮にふくらんだ。
◆いま日本人がすこしずつ自省へとむかいはじめた文明の便利さを、カラーシャたちはなんの疑問もなく享受しだした。梅棹さんは、科学技術は人間の業だとどこかで書いていたが、文明論として上からきっちりと押さえながら、こうした文化変容の個々の事例を下からえがいておかねばならないとつくづくおもう。こころの奥ふかくまではいりこむこともあるので、宮本千晴さんが当日アドバイスしてくれたように、これまでとはちがった、あたらしい手法を編み出すことも必要になるだろう。ただし、文明論はニヒリズムの立場からかたってもかまわないが、辺境でまえ向きに生きようとしている相手にそれを強要することはできない。究極のニヒリストを自認する梅棹さんを意識してしまうと、とんでもなく困難な作業になりそうだ。
◆ともかく、まだ自分でもよくまとまらない話をしてしまって、当日わざわざきていただいたみなさんにはとても気の毒なことをした。でも、わたし自身はおかげでずいぶん見えてきたものがある。あの日につかんだものをかたちにしていくことが、せめてものおわびとお礼になるとおもう。
◆最後に、ちょっとただし書きというか、はなしわすれてしまった訂正を。長野画伯が地平線通信で、洞窟探検を小学生でやりはじめたように書いていたけど、はじめて洞窟に行ったのは中学2年になる直前の春休みだった。また、大学の探検部の部室に行ったのに30分で入部を断念したのは、わたしの経歴をきいて「それならおまえ、惠谷治先輩のあとをついで三原山の火孔探検をやれ」と断言され、もう穴ぐらはこりごり、せっかくひろい世界にでたくて探検部にはいろうとしているのに、これじゃ、またおなじことをやるはめになるとかんじたからだ。当時の早稲田の探検部には、ケイビングを本気でやっている人はいなかったはず。
◆河田真智子さんからは、うまれてはじめて花束なるものをいただいてしまった。穴があったらはいりたかったが、いまさら洞窟にもどることはできない。2004年からごぶさたがつづいている、カラーシャの谷におもいをはせることにしよう。[文体はとてもまねできないけど表記だけはウメサオ流で書いてみた・丸山純]
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