★第1部 原発の現場から
樫田秀樹 「飯館村で今、何が起きているか」
恵谷治 「どう違うのか チェルノブィリと福島原発」
★第2部
大浦佳代 「東北の海の現場で見たこと」
森本孝 「津波前の三陸の漁村と漁業をスライドで見る」
★第3部 リレートーク+ディスカッション
八巻英成(聞き手:江本) 「あの日、女川のお寺で起きたこと」
落合大祐 「RQボランティア活動のその後、明日」
三輪主彦 「原発と教育現場」
宮本千晴 「日本に起きていること」
■4月に引き続き、今回も午後2時からのスタートとなった、「3.11を考える」特別報告会第2弾、「ソーテイの向こう側」。この日は予定のプログラムに加え、被災地・女川で、一時は200人余りの避難者を受け入れていた若きご住職・八巻英成さんが飛び入り参加。地震・津波の直後から、自衛隊の救助が入るまでの緊迫した状況を伝えてくれるなど、盛りだくさんの内容となった。
◆「前回、積み残した話題の1つです」と、司会の丸山さんが口火を切った第1部のテーマは「原発」。原発の問題については丸山さん自身、懸念を覚え、70年代半ば、東海村に出かけていたという。いろいろ細かく聞いたことで、要注意人物とマークされたのだろう。取材後、自宅に何度も、そしてご本人がパキスタンに行かれているときには、なんとご両親にまで不審な電話がかかってきた。
◆後で、電話をしていたのは電通の人だとわかったそうだが、「この一件だけでも原発問題の根の深さがわかっていたはずなのに、そのままにしてしまったことに苦い思いがあります」という丸山さんのことばが、ずしりと胸に響く。
◆一人目の報告者は、飯館村に通うルポルタージュ・ライターの樫田秀樹さん。12年がかりで取り組んだハンセン病問題同様、飯館村も10年単位の付き合いになるだろう。そう考えると、迷いもあったという樫田さんが飯館村に通う覚悟を決めたのは、「国が村に、住民の避難を丸投げしてしまった計画的避難地域の、宙ぶらりんな状態を見たいと思ったから」。
◆樫田さんが村で最初に会ったのは、3月14日にビニールハウスを立てたという農家の方。3月14日といえば、福島第1原発の3号機建屋が爆発した日だ。その後、村では高い放射線量が検出され、野菜は出荷停止、作付けもできない状況に陥る。だが、その頃、村には長崎大学の高村昇、山下俊一教授が相次いで訪れ、「このくらいの放射線量なら、帽子を被らなくてもいいし、子どもが外で遊んでも大丈夫」と説明。このため少なからぬ人が、村は安全だと信じてしまったらしい。ちなみに村内でも特に汚染度の高い長泥の曲田地区では、樫田さんが携帯した簡易計測器でも、8.17μSv/h(マイクロシーベルト毎時)を記録している。
◆理想の酪農を実現するため、その曲田地区に骨を埋める覚悟でIターンしていたのが、樫田さんが通信379号で紹介している田中さんだ。村で唯一、牛舎で牛をつながずに飼っていた田中さんは、今年は放牧する予定だったが、すべては原発で狂ってしまった。
◆牛乳を出荷できないまま、牛を飼い続ければ赤字だけが膨らんでいく。村の酪農協会は、苦渋の策として牛の屠場送りを全会一致で決定。家族同様に牛を育てていた田中さんも、仔牛だけは里子に出したものの、残りの牛はすべて屠場へ送るという選択を余儀なくされた。東電は、村に何度か謝罪に来て、補償するといっているものの、5/27の時点で1円も支払われていない。
◆「なぜ、こんなに放射線量の高い土地から、乳幼児や妊婦さんを避難させないのか」。護岸工事業に携わる佐藤さんは、4月26日に結成した青年グループ「負げねど飯館」を通じて、一刻も早く避難を進めるよう、村に働きかけている。佐藤さんの工場の敷地では、32μSv/hという高い放射線量の数値を記録。室内でも、2.09μSv/hと、マスクは外せない。
◆「毎日、この数値を見ていると、慣れてしまいませんか?」。「慣れました。きっと村の人もそうでしょう。それが怖いんです。だから僕は敢えて馴れないように、気を引き締めています」。樫田さんの質問に対する佐藤さんのこの答えに、目には見えない原発の恐ろしさが集約されているといえるだろう。
◆飯館村の人口は約6200人。村は2700人分の避難先を確保しているが、その場所は、車で40分ほどの福島市内およびその周辺に限られている。さらに飯館村は、「住民を受け入れます」という県外の市町村の申し出を、すべて断っているという。これだけ放射線量の数値が高いにもかかわらず、なぜ村は福島市周辺にこだわり、村の方針に住民を追従させようとするのか。その理由を、樫田さんはこう話す。
◆「村は特養や従業員300人を抱える(村の規模では)大企業など、9つの事業所を残したいと考え、通勤可能な場所を避難所に選んでいるのでしょう。でも、従業員にはいろいろな思いがあるようです」。小さな村の事業所が県外に出れば、それは廃業を意味する。会社が残れば給料は保証されるけれど、被ばくは避けられない。「おそらく村長さんは本当に村を愛していて、村をできるだけ早く元の状態に戻すために、近くにいたいのではないか。その辺りは次回の取材で聞いてみたいと思います」。
◆85年にはNPO職員としてソマリアで、89年には今も関わり続けているボルネオの熱帯雨林で、そして9.11後にはアフガニスタンで活動してきた樫田さんは、最後にこう提言された。「メディアはそれぞれの問題が渦中にあるときは報道するけれど、果たしてその後はどうだったでしょう。でも、今回の原発の問題は、自分たちの足元で起こったことで、被災者も大勢います。僕たちは慣れたり、忘れたりすることなく、この問題を考え続けていくべきだと思います」。
◆飯館村の報告に続いては、丸山さんいわく“きな臭いところに出入りしている”ジャーナリストの恵谷治さんが登場。チェルノブイリの体験と合わせて、福島第1原発の問題をどう考えているかを話してくださった。
◆「日本のような小さな国で、原発を使って本当に大丈夫なのか」。某新聞社のインタビューに対するモスクワ市民のこのコメントについて、「的を射ていると感心しました」という恵谷さん。なにしろチェルノブイリの計画的避難地域は日本の10倍。広大な面積が、計画的避難地域として無人化=放棄されたのだ。だが、それは当時のソ連だから、実現できたこと。「計画的避難地域からは当然、退去した方がいいけれど、樫田さんの報告でもわかるように、皆さん生活がかかっている。日本のような自由社会では、そう簡単に強制退去はできないわけです」。
◆しかるべき学者の計算によれば、放射性廃棄物、核分裂性廃棄物の量は1/10。であれば、避難区域も1/10でいいはず……だが、放射能のいちばんの問題は、距離に関係なく被害が及ぶこと。30キロ以遠の飯館村が高い放射線量を示しているように、ホットスポット=高濃度汚染区域は距離にかかわらず生じる。そしてその危険性は、数値を計測することでしか判断できない。
◆“体制自体は今の北朝鮮と変わらない、わけのわからない国”だった25年前のソ連で取材をするため、恵谷さんはツーリストとしてキエフに潜入する。事故後、政府は外交官やジャーナリストの入国を禁止した一方、旅行会社インツーリストは「ソ連は安全です」と、観光客に呼びかけていたからだ。
◆当時、人口250万の観光都市・キエフはチェルノブイリから110キロ。これは、東海村?東京間と同じ距離になる。原発に近い250万人都市の住人の生活を見ることと、汚染された土壌・水・植物の採集を使命として、恵谷さんはキエフ入りする。
◆滞在中の累積放射線量を測定するためのフィルムバッジ、TLDバッジ、TLD指リング。そしてさんざん探し回って銀座で手に入れたガイガーカウンター(当時148,000円)を持ち込み、ホテルの窓の外にフィルムバッジを貼って環境モニターを設置。軽い気持ちでガイガーカウンターを外にかざすと、機械はすぐに反応し、0.1ミリレム=1マイクロシーベルト(μSv)を計測。「数値の高さに応じて音の反応も上がるので、鼓動のように緊張感が高まりました」。
◆放射能汚染を防止するには経口吸入を避け、身体の表面をカバーするしかない。帽子とマスクは必需品だが、日本製のものでは目立ってしまう。現地調達するつもりだった恵谷さんは、町では誰ひとり帽子やマスクをつけていない現実に驚愕したものの、目立つことを避けるため、帽子もマスクも諦めた。
◆完璧主義の恵谷さんは、とにかく不審に思われないよう、街中でもひと目につかない場所を事前に探し、土壌や植物を採取。難しいのは水だった。ドニエルプル川の水を持ち帰ろうと散歩がてら偵察しても、100メートルおきに警察がいる。これは仕方ないと、水については水道水で手を打った。
◆出国の際も、持ち出し禁止の軍事関連書で検査官の目を引きつつ、本当に持ち出したいものから上手く目をそらせ、研究者にしてみれば喉から手が出るほどほしいサンプルとともに帰国。合法的に持ち込んだものでないため、研究所が受け入れない、というトラブルもあったが、名前を出さない条件で、しかるべき機関で測定してもらい、キエフ潜入記は『週刊ポスト』に掲載された。その後、発表されたマップでは、キエフは高濃度汚染地区には入っていなかったそうだ。
◆それまでの戦闘現場取材でも、まずは現地の状況の把握に努めたように、放射能という目に見えない敵について、出発前も、そして現地でも考え続けたという恵谷さんは、「稼働している限り、高濃度廃棄物という100%の毒をつくっているから」と、原発を廃止すべき根拠を明快に語る。「代替エネルギーに切り替えるまで、短期的に認めるならまだ理解できるけど、これをもっと続けて、もっとつくるなんて馬鹿げたことです」。
◆そして25年前同様、これからの代替エネルギーは、無限にある太陽光しかないと続けた。「当時のテクノロジーでは効率が悪い、金がかかるといわれたけれど、原発に費やした予算をかけて、日本の技術を持って本気でやれば、できないわけがないです」。落ち着いた口調だった恵谷さんのトーンが上がると、会場からも拍手が上がった。
◆広島に落とされた原爆の、すでに100倍以上の放射能が拡散しているという今回の原発事故。それでもまだ、日本で原発を推進する必要がどこにあるのだろう。私たちは事態が収束するまで長い長い時間がかかる問題の渦中にいる。そのことを改めて考えさせられた、樫田さんと恵谷さんの報告だった。(塚田恭子)。
※チェルノブイリ原発事故後45日目にキエフに入った恵谷さんのルポ、「被爆最前線キエフ潜入記」は、年報『地平線から・第8巻』で詳細を読むことができます。
■第2部では、三陸の漁村に縁のあるお二人が登場。3.11を境に三陸沿岸の風景は一変した。津波により流されたのは単に家や船ではなく、そこにはかつての暮らしがあったということ。会場にはその“暮らし”に想いを馳せるような貴重な時間が流れた。
◆まず登場したのは、近年農業から漁業へとフィールドを広げたライター兼カメラマンの大浦佳代さん。漁業体験や海の食文化を通じて、人と海の関係を深め伝えようと昨年“海と漁の体験研究所”を立ち上げた矢先の震災だった。「支援として何が出来るんだろう」。大浦さんは気仙沼から宮古まで、3月下旬より3回に分けて縁のある沿岸部を訪ねて廻った。今回は地震ではなく津波の被害が殆どで、「東北の災害」ではなく「海辺の災害」と大浦さんは強調する。東北の漁業と一口で言っても、実に様々な海の暮らしがある。
◆沖合は世界三大漁場の一つとして有名だが、被災地の多くの集落の漁業は浅い海で行われていることはあまり一般的には知られていない。リアスの入り江ごとに“小宇宙”のように点在する漁村では、その殆どが家族経営であり、釜石のような湾の中(牡蠣、帆立、ホヤ等)と、宮古のように外洋に面したところ(ワカメ、昆布等)とでは養殖の種類が違い、加えてアワビ、ウニ、ナマコ等の磯漁が営まれ、水産加工場も多い。
◆最初に訪れたのはRQとも繋がりのある気仙沼の唐桑半島。初めて目の当たりにする圧倒的な破壊のスケールとリアリティを前に「忍びなくてなかなか写真が撮れなかった」。被災地の人々と気持ちを重ねるように入っていく事で良いスタンスへと繋がったと振り返る。そんな写真の一枚目は、津波の引き潮の後に残った、夕方の“音が止まったような海辺の風景”だった。今もなお不明者は多く「海には誰も行けない」と口にする方も少なくない。去年の写真には写っていた気仙川の橋が落ちている。田んぼは海になり、町の至るところが空襲後のように燃えている。海辺の変色した木々や、高台とのコントラストが、押し寄せた津波の大きさを静かに伝えている。
◆牡蠣の養殖を営む唐桑の入り江一帯では、気仙沼港のオイルタンク23基が倒壊し、流出した石油や重油で炎上した大型漁船が漂う。潮の満ち引きに漂う船を回収するにも、「その船が無い」と漁師は言う。震災直後の孤立した歌津半島の集落センターでは、井戸水で自炊をし、過酷な状況下で皆が力を合わせ、自立して生活している姿に感銘を受けた。釜石湾には30年を費やし建設された、水深60mの世界に誇る湾口防波堤があったが、それをもってしても津波を防ぎ切ることは出来なかった。「とにかく船が欲しい」。船の修理をしたがっていた若手の人達に修理道具を届けた際には大変喜ばれたのだそう。宮古の重茂半島にある重茂漁協では、漁協が役場のような存在として地域をまとめ、漁業再開に向けた立ち上がりが早かった。磯漁船780艘のうち、無事だったのは6艘。鮭の定置網船20隻も全部流され、鮭の人工ふ化場も津波にさらわれ見る影もない。
◆大浦さんのお話から、津波被害の現状には、沿岸の地形・漁法形態の違いによってかなりの差異があり、復興の道筋は集落・漁協・家族単位に至るまでそれぞれに全然違うことが伺える。被災した漁師達は、海との関係をどのように繋ぎ直すのか。「コミュニティなくして復興は有り得ない」と大浦さんは語る。
◆この度の震災で、三陸の素晴らしい漁撈文化が切り捨てられはしないかと危惧する一方で、「繰り返される津波は歴史の一つであり、元々の海との関係は変わらないのかも知れない」。今の時代では海は意識しないと見えない存在。東北の沿岸漁業は何をもってしても、代わりのきくものではなく、浅い海が大事。それを知り、守り続けてきたのは地元の漁師に他ならない。「いつも東北の海を心に想っていてください!」これからも海を見つめてゆく大浦さんの一言が、心の深いところまで響いた。
◆続いて登場するのは森本孝さん。民俗学者・宮本常一さんのもと、観文研(観光文化研究所)の最終ランナーであり、学生の頃より日本の“舟と港のある風景”(同タイトルの著書があります)をくまなく訪ね歩いてきた、この島国の“海の民”を知る第一人者である。「これからお見せする写真の数々は、退屈な写真です。血湧き躍るようなものではなく、誠に平凡な写真です。懐かしんで頂ければ、それでいいんじゃないか。ヘタクソと始めに言っておけば、言い訳も出来るだろうといざ自分の写真を見てみると、想定外にヘタでした」という枕で幕を開けた。
◆タイトルは『三陸の漁村寸描』。昭和52、53年、平成3年に撮影された三陸沿岸(気仙沼?久慈)の写真80点が用意されている。「普段は大変穏やかです」。一枚目は気仙沼湾を見下ろす写真だった。森本さんの話しぶりも穏やかで、自然と会場ものどかな気分に包まれる。サンマ漁船、牡蠣の筏(今も昔も変わらない竹製のもの)、海苔養殖用のヤッコ舟、唐桑の集落(当時基本は農家だったが、船員を多く出したことからマグロ御殿が建った)、アワビ捕り用のカギ、牡蠣剥き工場…。様々な漁法や漁具、時節の行事や人々の表情、的確な解説を交えながらテンポ良く地図に沿って北上してゆく。まるで先ほど大浦さんの話していた“小宇宙”を更に掘り下げて探検している気分になる。
◆「当時のクロマグロの相場は一本100万円。60本で6000万円の水揚げをしていた。それ以来の私の年収はマグロ一本分です」とジョークも忘れない。三陸町の秋祭り(だんじりの活気ある様子)、宮古漁港のはえなわ漁、重茂半島の津波の碑(明治29年、昭和8年)、コンブ干し作業、大謀網漁場図(今回全て被害にあっている)…。生き生きとした人々の姿、豊かな海が会場に浮かび上がった。最後に「一つ一つ多様なところに光をあてなければ復興はない。漁村の伝統文化は、江戸時代から漁業権の共有によって成り立ってきた。国有化などによって破壊されなければ良いが」と締めくくった。また、大浦さんの報告を受けて「新しい支援者が出てきて嬉しい。更に歴史に踏み込んでゆくと、もっと楽しいですよ」とのアドバイスのバトンが手渡され、第2部の幕は下りた。
◆森本さんは、おそらく誰よりも津波の歴史を知り、終始さりげなく「全部今回、こういう処がやられていますけれども」ということを前提に、広い観点からどこかねぎらうように語っているように感じた。ご本人は謙遜しているが、今回森本さんの選ばれた写真はどれも決して退屈とは思えず、時間が許すのなら一枚一枚じっくりとお話を聴きたいものばかりだった。30年の時を経て写真が語りかけてくるような迫力があった。これこそが記録し続けてゆくことの尊さなのかも知れない。
◆森本さんのお話を聴くにつれ、静かな港の風景は、今日に至るまで積み重なる日々の暮らしの営みのなかで、人々の手によって丹念に塗り上げられ、自然との調和のもとに作り上げられてきた風景なのだと気づく。そこに大浦さんの写真が重なり、平凡がいかに平和であることかを痛感する。
◆僕自身、震災2か月後の大槌町を訪れた際には、打ちひしがれるような想いがした。何もかもが流されてしまった景色のなかで、僕の心に深く刻まれたのは、全員が家族のような絆で支え合い、懸命に命を繋ぐ地元の人々の姿だった。“暮らし”が“絆”を育み、“絆”が“暮らし”を生み出している。そのかけがえのない“暮らし”を学び、想うこと。それがこれからの復興をイメージするうえで、一番大切なことなのかも知れない。(車谷建太)
★『三陸に仕事を!プロジェクト』のキャンペーンの一環で、いま岩手県に来ている(先月号に書かせて頂いた“歩きましょう”の唄が、CMソングに抜擢されました)。浜のお母さんが復興の願いを込めて、漁網を使って作った浜のミサンガ「環(たまき)」(紐を編み込んだ日本古来の腕輪)を皆さんに買って頂こうという主旨で、大船渡と釜石を皮切りに三陸沿岸全域に展開してゆく予定だ。こうしたそれぞれが新しく踏み出せる試みが、少しずつでも着実に輪を広げ、実を結んでいって欲しいと願っている。(車谷建太)
■地平線報告会の開会時刻が節電に伴う会場の都合で、最近月によって変更されています。4、5月は14時〜18時と昼間の開催でしたが、今月6月はいつもの18時30分開会に戻ります。7月も目下18時30分スタートの予定ですが、猛暑のさ中、節電の影響がどう出てくるかわかりませんので念のため開催日直前に確認してください。地平線会議のウェブサイトには必ず告知しますので。なお、開催日ですが、7月はいつもの第4金曜日(22日)としますが、8月は27日の土曜日12時30分から16時とする予定です。たまには休日の午後、ゆっくりやろう、という趣旨です。どうかご了解を。(地平線会議)
■第3部は、江本さんと、女川町尾浦の若い住職・八巻英成(やまきひでなり)さんのQ&A形式で再開した。彼の保福寺(賀曽利隆さんの労作『ツーリングマップル2 東北』の地図に名前あり!)は、海から約500m、標高20m弱に建ち、地域の緊急避難場所にも指定されている。地震後に防災無線から流れた津波予想は、「6mを超える」が「10m」に、さらに「10mを超える」と膨れ上がった。その津波が押し寄せてきたのは、地震の約40分後。逆巻く大波でこそなかったが、足元に忍び寄った次の瞬間、首まで上がり、「来た!と気付いてからでは、もう手遅れだった」(八巻さん)という素早さ。右や左に流される家々は、「『モモタロウ』のドンブラコッコと流れてくる桃」で、車や船と、有り得ないもの同士が海の中でぶつかり合う光景に、身の毛のよだつ思いがしたという。
◆当初、230?240人だった寺の避難者は、その後も増え続け、泳いで山肌に辿り着き、ズブ濡れのまま歩いて一山超えてきた人もいた。本堂はコンクリート造りだったが、繰り返す余震に倒壊の不安を感じ、降り始めた雪の中でしばらく様子を見た。約90畳敷きの本堂と庫裏を開放しても、横になるスペースはない。6割が70代以上で、火鉢にバーベキュー用の木炭を焚き、高齢者優先で暖を取っての夜明かし。しかし、毛布も3、4人に1枚と乏しく、体温低下で衰弱の激しいおばあさんには5枚使ってもらったものの、その甲斐なく息を引き取った。
◆翌朝、みんなで町を見に行った。車の上に車が何台も折り重なっている。15mくらいの木のてっぺんに誰かが着ていたであろうジャケットが引っ掛かり、そこまで水が来たことを物語っていた。沖に浮かぶ出島(いずしま)のお蔭で、津波は寺に達しなかった。が、海沿いの集落は壊滅。250軒中、残ったのは5軒だけだった。その日は人の捜索と食料の確保に費やした。転がっている冷蔵庫や流されてきた倉庫などから、とにかく食べられる物を探す。濡れた玄米を干し、一升瓶に入れて棒で突き、精米した。初日の食事は拳半分ほどのお握りと薄い味噌汁。「『今日はこれだけしか出せません』と最初に宣言して、全員、同じものを食べました。それらを、卒塔婆も燃やして煮炊きした」
◆道路の上に家が逆さに転がって、人一人潜り抜けるのがやっとこさ。地区は孤立状態になった。元々、女川の中心部から離れており、1週間分、10日分と買い溜めする傾向がある。それもあって、自活・自立の意識の強い土地だという。米をたくさん拾い、2日目から食事も少し増えた。しかし、寸断されるとモロく、3日目には絶望感が広がり始めた。その翌日、初めての救援物資が自衛隊と共に海からやって来た。もらった深緑色をした携行食の缶詰の中身は、鶏五目飯、赤飯、コーンビーフなど。「おーっ」と歓声が上がり、1人に半缶くらいながら、「大丈夫なの? こんなに食べて」と訊く人が沢山いたと云う。満腹に近い食事、そして「これから継続的に支援物資を出せるので、もう食べ物の心配をしないで下さい」の隊員の言葉に、初めて希望が湧いた。
◆同じ日、瓦礫の間を歩き、15人の子供を避難所の体育館から寺に連れてきた。「体育館の人たちは手厚い支援を受け、何一つ不自由のない避難生活を送っている」、 そんなウワサが流れていた。が、聞くと見るとでは大違い。前日に子供たちが口にしたのは、バターロール半分と紙コップ1杯の水だけ。自活している寺より悲惨な状況だった。ここでも、「情報ってこんなにモロいの!?」と驚いた。
◆支援物資の中で一番ありがたかったのは、アウトドア義援隊の辰野勇さんが持ってきたソーラーパネルの照明器具。お寺なのでロウソクはふんだんにあったが、電気回復の見通しが立たず、初日は一集団に1本の計7、8本と切り詰め、火事を恐れてロウソク番を立てる気の使いようだったからだ。子供好きの辰野さんはマジックも披露し、その歓声で活気が戻ったと云う。
◆江本さんの最後の問いは、「女川の未来に何が一番必要だと思うか?」それに対し、八巻さんは「『復興』の名の元に小さな浜が統合されようとしています。先日も公聴会があったが、住宅は高台に、との方針でした。漁民は海の見えるところに住まないと、シケの具合も判らないし、漁業はできない」と答え、「町が出している計画は、復興ではなく復旧です。後継者のいない漁業の町に若い人を呼び戻すためには、古きに戻す『復旧』ではダメ。何かを興す『復興』でなければ…」と結んだ。
◆この日の八巻さんの報告は、前日に急遽決まった飛び入り参加。仲介役を果たした宮川竜一さんが、保福寺近くの小学校で子供相手に「動く紙芝居」を行い、それが縁となった。人々の大切な絆を、大津波はズタズタに切り裂いた。しかし、垣根の消えた被災現場で、以前なら起こり得なかった新たな出会いや繋がりが、物凄いスピードで生まれている。それが再生の力になれば…。彼の話を聴きながら、そんな思いに包まれた。
◆続いては地平線メンバーによる報告。トップの落合さんは、歌津でのRQの活動をスライドで紹介した。現在、被災地支援の中心は物資面から生活面に移り、そのための常駐スタッフが必要となり始めている。歌津が新たな拠点に選ばれたのも、行政の中心・志津川から遠く、電気が来るのも一番最後なら水道の復旧もまだ、孤立した集落も周囲に多い、等の理由による。地域の壁が厚く、入るのに苦労したが、地元小学校の先生が佐々木豊志さんのくりこま高原自然学校のお客だったことから受け入れが実現した。『契約会』(元禄時代から続き、今も防災組織として機能している『ゆい』)を手伝う、という形で清掃活動を行っている。流されてきたゴミが、いまだ小学校の植え込みや山の木々に引っ掛かっており、人海戦術の手作業で片付けるしか方法がないのだ。
◆三輪さんは、災害教育の成果で多くの子供が津波を逃れた事実を引き合いに、そういった教育や地学の知識の大切さを力説。公立校のカリキュラムから地学を外した東京都の愚を嘆いた。「ぼくも職がなくなって、定年前に先生を辞めました」という現在は、週に1回、私立校で地学を教えている。その教材?の原発解説図をスライドで流しながら、「大人たちが皆、目を瞑っている『不都合な真実』を、子供たちはちゃんと知っているよ」と一言。さらに、日本列島の断層分布、原発の耐震構造、電力供給量や地球温暖化のウソなどを、いつもの調子で片っ端から切って捨て、「地学の勉強をしなかったから液状化の場所にも住んでいる」とトドメを刺した。
◆報告会はもう4時間になろうとしている。ここで司会の丸山さんは会場にいる宮本千晴さんに発言を求めた。宮本さんは静かな口調で八巻さんに本震と余震の揺れの違いを確かめ、「揺れとマグニチュードは単純な相関関係ではない」として、浜岡原発の耐震性を疑った。その上で、「至るところで同様のスリ替えが行われている。根底にあるのは、国のために痛い思いをする人が何人いてもしようがない、という論理だ」「あるところから切り捨てる。そのラインが『想定』なんです」「誰も責任を取らない、という仕組みの上に世の中が組み立てられる、そういう時代に何年も前から入っている」「戦争を引き起こした日本人の動きに、凄く似ている」と、今回の事故の社会的背景に踏み込んだ。
◆千晴さんの「マスコミも(推進側の)広告塔の役しか果たしていない。呼ぶのは危ない話をしない人たちだけ。あんなヤバい人は呼ばないよ」を受け、そのヤバい人(恵谷さん)も立ち上がって一吼え。原発ビジネスが兵器ビジネスも顔負けのオイシイ商売であること、原爆の数百倍の放射能を出す原発はやめるしかないのに、それでも進めようとする人間は、もうアタマがおかしいんだ、と訴えた。三者三様のやり取りに、いよいよ地平線的議論に突入かと期待したところで、「積み残し一杯で、またまたパネルディスカッションがないまま終ってしまいました。いつか続きをやってみたいですね」の丸山さんのシメが入って時間に。
◆2次会の席で、訊きそびれた質問を八巻さんに問うてみた。今回の大震災の目を覆う無慈悲ぶりに、宗教家として、神仏への疑念は生じなかったのか。それに対する彼の答えは、明快そのもの。亡くなった人々への気遣いを滲ませながらも、「『九死に一生』『生きるか死ぬか』ではない。あるのは『生か死か』で、生き残ったことには意味があり、使命や重責がある」と云い切った。卒塔婆を火にくべ、被災者が溢れる寺での葬儀を控えたのも、まず生き残った人々を救わねば、との思いからだ。それは、原発の周辺住民を平然と切って捨てる政治家や官僚連中にとっても、いま一番必要な信念であり、決意なのではなかろうか。[入稿レースで毎回ビリッケツの、久島弘]
ヒロシマ・ナガサキ、第5福竜丸、そしてフクシマと、日本は原爆、水爆、原発と三たび被曝国となった(水爆実験で被爆した漁船名については、世界的認知度が低く漢字にせざるを得ないのが現状である)。
有史以来5番目ともいわれるマグニチュード9という巨大地震と、1000年に1度といわれる大津波によって、東京電力福島第一原子力発電所は壊滅的被害を受け、現場の対処の悪さが水素爆発を引き起こし、大量の放射性核分裂物質を大気中に撒き散らした。加えて、放射性汚染水が、豊穣な海洋に流れ込んだ。
フクシマの惨状は日本の「安全神話」を崩壊させ、放射能汚染という意味では、原爆と原発、軍事利用と平和利用に境界がないことを、原発に関心のなかった人びとにも知らしめた。一方で、チェルノブイリ事故と同じ「レベル7」との判定により、無知な人びとはフクシマはチェルノブイリ級と騒ぎ立てている。
放射能被害の最大の問題は、原発構内の従事者以外には、いわゆる「直ちに危険があるものではない」ということである。つまり、どんな専門家でも、万人が納得できる放射能被害を提示することができない点にある。しかし、放射線は活発に細胞分裂している部位に障害を与えるということを知れば、胎児・妊婦、幼児、造血器や生殖器などがもっとも危険であることが分かる。ならば、慌てふためくことなく、それなりの対応をすればいい。
放射線被害というのは端的に言えば、白血病を含むガンの罹患であるが、それも確率論でしかない。昨今、“禁煙ファシスト”たちが騒いでいる喫煙や副流煙(受動喫煙)による肺がん発生率よりも、感覚的には遥かに罹患率は低いと思われる。
事故から3か月が過ぎ、大気中の放射性核分裂物質は拡散し、ほとんどが大地に沈降した。今後は「ホットスポット」と呼ばれる放射線量の高い土壌の処理が問題となるが、すでに消滅したヨウ素をいまだに話題にしたり、海開きにあたって海水の放射線測定といった無駄な作業が行なわれている。
海洋が汚染されたのは事実であるが、事故から3か月もたって海水がまだ汚染されているようでは、地球はとっくに滅亡している。大気や大洋は、人間の営みによる程度ではほとんど影響しないほど広大無窮である。いわゆる「二酸化炭素問題」も、私は疑っている。
フクシマの被害は時間とともに減少していくことは疑いないが、今後、奇形の動植物の出現などで話題にはなるだろうが、それはもう過去の問題である。残る問題は土壌汚染であり、この問題が解決されない限り、フクシマの復旧・復興はあり得ない。
しかし、忘れがちなのが原発による放射性廃棄物の存在である。原発が稼働しているということは、地球上に存在しない毒物を生成し続けているのである。日本では六ヶ所村がその貯蔵所にされているが、世界規模でどう貯蔵するかが問題になっている。
今後、原発の設計が完璧となり、原発運転の安全性が完全に確保されたとしても、放射性廃棄物の毒性を軽減する手法を人類が見出すことは不可能と思われる。これまでに生成した毒物は管理を徹底し、厳重に保管しなければならないのは当然であるが、今後は増加させないことが人類にとって最大の課題である。
独断で浜岡原発を突然に停止させるほどの“英断”ができる人物であれば、ドイツのように年限を明示し、早急にではなく廃止に向かう方向を、なぜ示すことができなかったのだろうか。この好機に国家百年の計を打出せば、歴史に残る男になったはずである。
■飯舘村で感じたのは、原発事故から2か月も経つのに、放射線量が高いのに、まだ多くの住民がいる、いや、避難させていないという人命軽視の政策が行われていることだった。
◆まず、御用学者。何人もの御用学者が村に入っては「この程度の放射線量ならマスクなしでも大丈夫」と村人を洗脳し、赤ん坊までもが村に留まる現実を作り出した。
●安全を信じた村(村長)も、村の基盤維持のため、大手企業は村に残し、福島市周辺に避難させた住民を「通勤」させるという奇策に出た。その避難先の福島市だって、いまや年間20ミリシーベルト問題で揺れている場所だ。
◆次に東京電力。補償をしますと言うだけで、ただの一円も払っていない。仮払金の100万円すらまだ来ない。そして、一人ひとりの人生が壊れていく。報告会で写真で紹介した酪農家の田中さんとは連絡を取り合っている。田中さんの乳牛は5月末をもって全頭が畜舎から屠場へと運ばれた。そして今は、栃木県の那須高原の牧場で6月だけのアルバイトで過ごしている。7月からは? まったく見通しが立っていない。お金儲けではない。自分が自分として存在するために人は仕事をする。その仕事がもうできないのだ。10年前に希望に燃えて飯舘にIターンした田中さん。まだ牧場の借金が残っている。本当にどうするんだろう。
◆当日話したことで、一番言いたかったのは「心に刻み続けてほしい」ということだ。1985年から87年まで私は某NPOの一員としてソマリアの砂漠の難民村で活動していた。85年当時は、マスコミは連日、腹だけが異様に膨らんだ子どもを報道しては危機を煽り、私のいたNPOにも1か月で100万円以上の募金が寄せられた。だが翌年、マスコミ報道が引くと、募金も数万円になり、「難民を助けるぞ!」と立ち上がったはずの市民団体も活動休止した。
◆89年、私はボルネオ島の熱帯林にいた(今も通っている)。89年前後はこれまた「熱帯林破壊」報道ブームで、やはり日本のあちこちで「熱帯林を救え!」の市民運動が起きた。そして翌年には報道の終焉と同時に市民運動も終わった。
◆2002年1月はアフガニスタンにいた。米軍の空爆直後の様子を取材していたが、当時も、「アフガン避難民を救え」といろいろな市民運動が始まった。だが私は思った。「こんなブームは来年には引く」。これを知人に話すと「あなたは市民の熱意を理解しないのか」と批判された。だが私の予想は当たった。
◆共通点がある。アフリカ難民も、熱帯林も、アフガン情勢も、何一つ好転していない。今も悪化の一途をたどっている。ただマスコミが報道しなくなり、市民の関心が薄れただけだ。じつは、阪神淡路大震災を経験した神戸市内においてでさえ、あの震災の教訓を活かさず、隣近所の高齢者や障害者には無関心になってしまった住民もいる。
◆だから強調したい。この原発事故で土地を去った人たちのことだけは忘れまい。今度こそ。彼らの誰かは、私たちのすぐ近くに住んでいる。今度こそ。
◆田中さんとはまた今月か来月に会う予定だ。(樫田秀樹)
■3月11日の大津波で三陸沿岸は壊滅的な被害をこうむった。映像に映しだされる光景は無残きわまりない。水産関連施設も破壊され、沿岸の登録漁船の9割が失われたという。4月下旬、某県のトップがいち早く漁港や漁業施設の国有化や、企業の漁業への参入という復興構想を打ち出したが、多少とも三陸沿岸の町や村の漁村の実態や歴史に思いをはせれば、とてもそんな構想はでてこないだろう。
◆三陸には第3種漁港に指定され、全国から三陸沖漁場を目指してやってくる漁船のための水産基地の町が点々とある。この他、というより、その方が実際には三陸の漁業の主たる担い手なのだが、主に地元民だけが利用する小さな第1種漁港と第2種漁港が、宮城県137港、岩手県には107港ある。1漁港を周辺の沿岸集落で利用するのだから、実際にはその3倍程度の漁村集落があると推測できる。
◆これら漁村集落の零細漁船漁業や磯漁業、養殖漁業など多様な漁業は、国営漁業化などできるはずもない。それに三陸の漁村は江戸時代以来の地先漁業権を維持、管理することで、村の結束、紐帯感を培ってきた。その協働精神があればこそ、厳しい自然環境や災害にも耐えて、漁業を生業として暮らしをたてることができた。漁業の国有化は三陸の漁村を破壊するに等しい。
◆幾多の津波を体験した宮古湾磯鶏村の古老の次の話を紹介しておこう。平成元年の5月に聞いた話である。「カキの養殖を今のようにカキイカダにつるす方法でやり始めたのは、昭和7年からです。磯鶏の漁業会で組合直営事業として開始しました。ところがその翌年が昭和8年3月の津波です。養殖イカダが全部流れて、組合事業としては断念し、組合員の中から希望者を募ったところ7名が手を上げた。この人たちで20台のイカダで養殖を再開したんです。
◆津波にはその後もたびたびやられました。昭和35年の5月24日には前触れもなく津波が押し寄せてきて施設は全滅です。総額10億円という被害でした。地球の反対側のチリからやってきた津波だというニュースを聞くまで訳がわかりませんでした。この3年後には南千島、カムチャッカ沖地震の津波、昭和43年5月には十勝沖地震、この津波は地震発生から30分もしたら最初の津波が押し寄せ、随分せっかちな津波でした。合計11波も押し寄せるというしつこい津波でもありました。養殖施設も港湾も船も大被害を受けたのですが、日中だったので人の被害がなかったのが幸いでした」(森本孝)
■5月27日の地平線会議報告会に飛び入りで参加、東日本大震災の被災地の避難所生活についてお話させていただいた宮城県女川町保福寺の住職八巻英成です。地平線会議の宮川竜一さんの紹介で、報告会前日に初めて江本さんとお会いして、本当に飛び入りでの参加となりました。報告会の次第の中に半ば無理矢理割り込んでお話をさせて頂いたにもかかわらず皆さん暖かく迎えてくださいまして本当に感謝しております。
◆思えば震災被災地からの生の声を届けたいと考えたまではいいのですがどう動いたらいいのか検討がつかない状態でした。だんだんと原発事故の報道に押され、津波による被災地域への関心が薄れていく危機感を感じ「このままではいけない!」、TV等の報道による一方的な情報公開では限界がある。自分たちの力だけで復興するには失ったものが多すぎる。それでも被災者が自ら声を大にして、生の声で訴えかつ対話をしなければと思いついたのが事の始まりでした。蓋を開けてみればあれよあれよという間に事が進み、気がつくと地平線報告会に参加しておりました。
◆世の中では復興、復興と今年の流行語が決まったかのように耳にしますが、現地宮城県女川では震災後3ヶ月でもそれほど事が進んではいません。瓦礫は撤去されてはきたものの、場所を移して山積みになっているだけですし、仮設住宅に至っては必要数の建設用地が確保できないなど問題も山積みです。そしてよく言われることですが「天災の後は人災が来る」避難所、在宅、仮設住宅それぞれの住居形態の差から生じる妬みや僻みといった被災者同士の見えない壁など精神的な問題も浮上しています。
◆先の阪神大震災から学ぶことも多かれとも思いますが、今回の被害のほとんどは地震ではなく津波によるものです。被害の性質自体も異なる有様です。復興と呼べるようになるまでは多大な時間とお金が費やされることでしょう。今は行政側が提案した復興計画と住民の意見をすり合わせている段階です。とにかく真っ向から衝突の連続で中々話も前に進みません。詰まる所はそれぞれが歩み寄って良い所で決着がつくのがわかってはいるのですが、そううまくいかないのが現実です。小さな問題も大きな問題も一つ一つ丁寧に解決していくことが一番の近道なのかもしれません。
◆刻一刻とニーズが変化していく中、支援の形態も変化させなければいけません。衣食住でいえば最初は「食」から始まり、「衣」が必要になり、「住」を求める。衣食住が揃えば次は生活の安定化を図る。そしてあくまで最終到達点は自立した生活です。この震災復興には支援の長期安定化は必須条件となり震災の記憶の風化は一番避けなくてはいけないことだと考えます。これからも様々な形で被災地からの生の声を届ける活動をしていきたいと思っております。
◆今回地平線報告会に参加させていただき、またたくさんの「縁」をいただきました。RQとして今も最前線で活動されている方々もいらっしゃるかと思います。少しずつですが拡がる輪を大切に育てていきたいです。僕たちの震災はこれから3年、5年と続いていきます。それでも着実に歩みを進め、また「海の街 女川」を取り戻すために頑張ります! まげねど(負けないぞ)女川!(八巻英成)
■初参加でいきなり報告者。恐縮です。感想は…。広々と開けて見晴らしがよく、さらりとした空気感。草原のような感じでしょうか。なるほど「地平線」。さらには、面白いひとと出会える平原の交差点。というわけで、報告会でお会いした宮城県女川町尾浦の保福寺ご住職、八巻英成さんを6月4日にお訪ねしました。すてきな姉さん女房の久美子さん、尾浦住民の“癒しと元気の源”4歳、3歳、10か月の子どもたちも総出で迎えてくださいました。深く感謝です。
◆5つの浜に約250戸の檀家をもつ「おっさん(和尚さん)」として親しまれる弱冠29歳の八巻さんは、住職になって6年。今回200人の避難所として70日間、お寺兼自宅を開放しました。尾浦は72戸のうち65戸が養殖漁業を営む純漁村。地域の結束はすばらしく、区長さんはじめ年長者が統率をとり、50歳以下が30人もいる若手漁師や女性陣がテキパキ動いて、見事に自立した避難生活だったそうです。お寺は集落から少し離れた高台にあり、広い庭の池には山水がひかれています。昔から万一のときの避難所だったのでしょう。
◆区長の小松長一さんや若手漁師さんたちにもお会いできました。小松さんは「お寺は何かにつけひとが集まる地域の中心。開放してもらって本当にありがたかった」といい、和尚の八巻さんには「よくやってくれていうことなし」と全幅の信頼です。
◆尾浦の養殖は、ギンザケ、カキ、ホタテ、ホヤなどが主。「養殖は研究熱心でないとダメ」だそうで、人材が多い尾浦は女川町の水揚げの3分の1を占める優等生。しかし今回、ほぼすべての家屋が被災。養殖施設は全滅で、漁港の加工施設や倉庫も見る影もありません。ただ幸いなことに、正面に浮かぶ出島(いずしま)のおかげか、漁船被害は他と比べると少なかったそうです。
◆問題は、国の補償がいつどの程度おりるのか見えないこと。また、同じ養殖でも違う種目の漁業者とは共同作業ができない補償の仕組だそうで「互いに張り合いながらも、助け合いで成り立っているのがここの漁業なのに」と、小松さんは憤ります。案内してもらった尾浦の漁港では、海底のサルベージ作業中。漁港が終わると養殖漁場の片づけに進むそうです。地震で1m近く地盤が落ちた岸壁の上げ潮に、八巻さんの4歳の長男が大はしゃぎでズボンを脱ぎ棄て足を浸すのを見て、漁師たちが「次の和尚だ。写真撮っといて。大人になったら見せるから」と明るい笑い声を響かせました。
◆次いで、南三陸町の旧歌津町へ。ここでは、地域固有の文化にふれる出会いが重なりました。先日お話した「経済が尺度の復興計画ではこぼれ落ちる」かそけくも奥ゆかしき地域文化です。歌津には、元禄6(1693)年が起源の5つの家系から始まる一種の地域コミュニティが、現代に残っています。会長さんが、この組織をこわさずに新しい居住地を作るべく奔走していました。
◆歌津で面白い話がもうひとつ。「うたちゃん橋」のあたりの川で、ちょうど今頃シラウオ漁をするらしい。これは漁業というより「季節の楽しみ」に近い。権利をもつ5人ほどが、暗黙の了解で縄張りをもち、漁獲は近所や親戚に配って回るとか。歌津の町はなぎ倒されましたが、自然はそれほどヤワではない。シラウオはきっと今年ものぼっているはずです。
◆実際、気仙沼漁港のコンクリ水路で、先日思いがけずシラウオの大群を見つけました。歌津のシラウオ漁の漁具は流されなかっただろうか。漁をするひとはどうしているだろうか。気仙沼市の旧唐桑町では、カクシャクたる78歳の元船大工さんに出会いました。櫓(ろ)櫂(かい)のほか、注文を受けて竹製の網針(あばり・網の修理道具)、木や竹の先に鉄の「カギ」をつけたアワビ、ウニ、ホヤ漁の漁具などは今でも作り、よく獲れると人気だそうです。獲物によってまったく形が異なる「カギ」は鍛冶屋さんが打ちますが、もう現役はいません。この船大工さんの海辺の作業場は、多くの道具類や備蓄してあった木材もろとも流されてしまったそうです。
◆統計数字として社会の表面にはけっして現れないこうした民俗文化が、どれだけ押し流されたのでしょう。そして復興の名のもとに失われつつあるのでしょう。丁寧に歩き注意して見ること聞くこと。改めてこころに刻む旅になりました。(海と漁の体験研究所 大浦佳代)
■事の始まりは3月13日、僕が「Panic in Tokyo!!」と、YouTubeに映像を英語で投稿したことからだった。投稿をしたのは、海外では恐らく流れゆく家々や火事の映像ばかりで、東京でさえ半ばパニック状態になっていること等報道されていないだろう、との考えからだ。その映像は三日後には10万回再生されドイツ・シュピーゲル誌のサイトより、ビデオブログ制作の依頼が来た。
◆ひと月後、それを見たドイツに住む学生が、ドキュメンタリー映画撮影のため宮城に行きたいので通訳をしてほしい、と訪ねてきた。僕は友人のT君を連れ三人で宮城へ行った。「想像を絶する」「言葉にならない」、なんとなく聞いていた言葉だが、凄まじい現実を目前に、やはり言葉ではそうとしか表せない、とコトバの無力ささえ感じた。
◆もう一度、今度は自分のビデオブログの取材で宮城へ行くことを考えた。今度は一人だった。現地で身軽に動けるようにと、長距離バスに折りたたみ自転車とザックを積んで出発した。動物病院から右翼団体まで色んな方に話を伺った。避難所へ取材に行く時、僕は自作の紙芝居で娯楽を提供しつつ、情報を得ることを考えた。そんなときに出会ったのが、女川の避難所のお寺のご住職、八巻英成さんだった。
◆ボランティアや復興に向けての改善点など、二人で熱く語った。「宮川さん、もう暗くなりますけど今夜は寝る所あるんですか?」これは僕がヒッチハイクをしている時なら、実は密かに待っている言葉だったりする。だが、非被災者が被災者に世話になることはタブーのように思えた。しかし「そういう線引きはしないで欲しい、同じ物を食べ同じ所で寝てこそ我々の気持ちが分かる」との言葉に、有り難く畳の上で寝かせてもらった。避難されている方々にも大変良くしていただき、次の日の朝、朝ご飯まで頂いて別れた。のべ十日間の取材だった。
◆帰宅した後も、被災地のために何が出来るか考えていた。東京で協力したいと言う人は沢山いる。その割に現地との直接の交流が少ないのではないか。そこで僕は八巻さんを地平線報告会に招待することを考えたのだ。直前の申し立てであったにも関わらず、報告者としての参加を即決してくれた江本さんにはとても感謝している。
◆報告会自体はとても濃い時間だった。特に恵谷さんのチェルノブイリ取材の際の苦労話は大変興味深かった。八巻さんは震災当時の避難所の様子を生々しく語られたが、その時の会場の空気からは、やはり現地の声を生で聞く事の重要さを感じずにはいられなかった。今後八巻さんと地平線との繋がりが、女川と東京の懸け橋になることを願ってやまない。
★シュピーゲル誌ビデオブログのサイトは「spiegel miyakawa」でご検索下さい。宜しくお願いします。(宮川竜一)
(以下は、東電の元技術者の告発映像を見て、編集長に書き送ってくれたメールです。報告会での発言を補足する意図で、本人の了解の下、掲載します。最後の「毎日の人」のくだりは、真実を報道すべきはずのジャーナリストも、社命、あるいは組合命で自分の取材意志を簡単に抑えてしまう現実に驚いた、ということであろう)
■最前線にいた人の一次証言はやはり具体的にイメージできていいね。要するに彼の当時の感覚と判断がわれわれの問題であり、ひとつの手本なんだと思う。たとえば今回の3月11日、12日の状況。原子力について知識を持ち、かつ現場が想像できる技術者たちや研究者たちは、外部にいてさえ、近頃発表されつつあるような事態は各自確信できるレベルで推察できていたのだと思う。
◆いくらでたらめだったとはいえ安全委員会の、少なくとも一部委員にも推察できていたでしょう。まして炉の設計者であったGEや施工メーカーであった東芝をはじめ分担していろんな設備を作り、メンテナンスをやってきた日立・IHI他のメーカーの歴代の担当者たちや下請けの技術者たちに分からなかったはずがないし、技術者の間ではそれほど差異があったはずのないそのときどきの適切な対応策も東電の吉田所長には提案していたのだと思う。
◆しかし、決定し、コントロールするのはまったく別の価値基準・別のからみや損得で動く人たち、事態を評価する能力を持たない東電幹部や素人の政治家・役人たち。そして多くの実態を推測できていた人たちは、引退しているか、すでに世間から疎外されているか、反逆者というレッテルを貼られていないかぎり、誰も口を開かなかった。あるいは開いてもつぶされた。
◆この構造とメカニズムですよ、わたしが怖いと思うのは。かつてそうやってわが国は戦争に突入していった。さいわい原子力については国民が戦争のときより利口になっているから、流されっぱなしにはならないでしょう。でも原子力は止むなく必要なんだとほとんどの国民が思わされてきた。わたしを含めてね。公表されている情報を自分自身で検討してみることもしないで。空気として。
◆自分が空気に流されるのはまだいい。しかし流されると、流されない人を異端や過激・狭量として排除する側に回る。バランス感覚の支点をそちらにずらしてしまう。たかが空気で。空気をつくるプロであるメディアも自ら空気に乗せられて動く。しかも支配者と同様の権力を持っているから、たとえば「パニック」を口実に、情報をコントロールする。つまり本質的な欠陥を内蔵している。
◆その上メジャーメディアのジャーナリストはジャーナリストである前にサラリーマンであり、組合員だった。毎日の人になぜ動けなかったのか聞いてがっくりした。世の中こんなに簡単に個を抑えることができるしかけになっていたのかと。そしてそれほどの内在的な危機を誰も本気で問題視していないのかと。ま、今日はこの辺で。(宮本千晴)
■こんにちは。登米(宮城県)は昼間は夏日のこともありますが、朝晩はまだだいぶ涼しいです。海沿いだと、昼間でも浜風で寒いくらいのこともあります。6月下旬からは、源氏ボタルのシーズンです。 震災から3か月、片付けの進んでいる地域とそうでない地域の差はありますが、緊急支援の時期は過ぎました。私たちの活動内容も急速に変化してきています。
◆被災地で復興に向けて具体的な動き(仮設住宅入居、新しい町計画など)が進んでいるのは嬉しいことですが、新たな問題もたくさんたくさん生まれています。「形にすること」の難しさを実感している日々です。これまで、東北本部で総務として内勤中心でいましたが、これからは徐々に自分の目で現地を見て、もっと多くの人と話して、今後に必要なこと・自分にできることを考えていきたいと思っています。まだまだ視野が狭いので、もっと東北全体を見ていきたいです。
◆RQの内情は、だんだん「個人の集まり」から「社会」になってきています。今までの積み重ねでできたノウハウや、多くの人(被災された方、活動を支援してくれる地元の方、ボランティア、他団体など)の繋がり(=責任?)があることで、情報の共有が大きなテーマになっています。
◆他人と一緒に何かをする、ということについて、システム面でも心理面でも勉強になっています。それもこれも、仕事・特技・年齢が様々な人たちが集まっているからこその環境だからでしょうか。最近はリピーターがボランティアセンターの運営上で大きな力になってくれていて、とても助かっています。心の面でも大きな支えです。もちろん、初めてボランティアに来られる方の新鮮な視点や、短期の方だからこその勢いも大切です。
◆話は変わって、夏が近づくにつれ、外で体を動かしたくなってきました。ここ数年通い慣れている山、沖縄、屋久島など、何とか時間を作って行きたいと思っています。なんで私がこれらの土地に通うのかというと、そこの自然や文化が好きなだけではなく、「人の結びつきがある」というのが大きな理由なのだな、と気づきました。そういう意味で、私にとって東北はまちがいなく今後も「通い続ける土地」になっています。震災がつないだ絆、各地で話題になっていますが、日本中に広がるといいなと思います。ではまた。(新垣亜美)
前回の昼間の報告会では、迫真の現地報告があり4時間があっという間に過ぎました。私の発言時間は10分、早口の報告でほとんど意味不明でしたが、その時に話した内容に付け加えて、私の思っていたことを書いておきます。
石巻の小学校では避難誘導の失敗で多くの先生生徒が亡くなった。しかし今回の津波では、学校全体で犠牲者はそう多くはなかった。津波に備えて学校を高台に造り、教員の指示も適切であったことなど、過去の歴史に学んでいたからと思った。私は2004年12月スマトラ沖地震をミャンマーのマングローブ林の中で経験し、インドネシアの津波被害をテレビで見聞きしながら、防災教育の重要性を実感した。日本では大津波が起こってもあんな被害は出るはずはないと思っていた。しかし現実にはまだ防災教育は不十分だった。今回の地震、津波を未曽有というが、明治三陸地震の時、巨大な津波は追波湾から北上川を数も遡っている。M9の地震は近年スマトラ沖でもチリ付近でも起きており、日本付近で起きても不思議ではないと、地震、地質学者、防災担当者は危惧していた。しかし行政も一般人も、特にチリ地震津波を経験した大人たちは、「あの津波でも大丈夫だった」という自分自身の体験から変な自信を持っていた。宮古市の田老の大堤防で説明を受けた時、「この堤防を越えることはないだろう」と私も思った。しかしそれは明治の巨大津波などの歴史に学んでいない見方だった。大いに反省をしている。
同じことは原発にも言える。原発が危険なものであることは繰り返し言われてきた。チェルノブイリの時には、「日本のとは形式も違うので絶対にあり得ない」と宣伝された。学校には今も原発の安全性を強調した副読本が環境の授業などで使われている。多くの有名人芸能人が、根拠のない安全性を宣伝していた。しかし子供たちの中には、「安全を強調する背後にはなにかあるのではないか」という疑問を持つものもいた。私は教員引退後、私立高校の講師をしているが、原子炉の模型図をみせたら生徒が、「防護壁の順序は逆じゃないか、周りの人々を守るのではなく原子炉を守ることを優先しているみたいだ」と見抜いた。東電福島第1原発の現場写真を見た生徒は、「なぜ燃料を取り出してある4号機が爆発したのか?」という疑問をもった。原子炉建屋内のプールにむき出しで保管された燃料棒が、冷却不能で高温になり、水素爆発した。核燃料サイクルでは使用済み燃料は別の場所に運んで保管することになっている。しかしその施設の建設計画は中断、燃料棒は原子炉脇に置かれたままになっている。副読本には核燃料サイクルが完成しているように描かれているが、矢印はまったく途切れており、サイクルにはなっていない。高校生たちは安全性のウラを読む目を持っていた。大人たちは宣伝に目をくらまされていた。
核燃料サイクルで原発の使用済燃料を再処理する予定の青森県下北の六ケ所村、さらに放射性廃棄物の地層処理施設候補地になった北海道の幌延を何回か訪れた。地平線の仲間の住む幌延は候補地というだけで風評被害がでて牛乳が売れなくなったことを彼から聞いている。1999年9月、東海村のJCOという会社で核燃料を作る作業中、まさに未曽有の放射能漏れ事故が起こり、8Svの放射線を浴びた2人の方が亡くなった。屋外で作業中に青い閃光がでて臨界が起こった。バケツの中で臨界が起こるなんてそんなバカな?と誰もが驚いた。350m以内は緊急避難、半径10km圏では屋内退避の指示が出た。青い閃光を見た2人は病院に運ばれた。その時は外見上何も異常がなく、自分で歩くことができた。「被曝治療83日間の記録」というNHK取材班の本に詳しい。中越地震では東電柏崎刈羽原発が全電源喪失の寸前まで行き、放射能汚染水が海に流れた。放射能という言葉に日本国民は敏感で、風評被害が出ることは経験済みなのに、政府、原発関係者、農協、マスコミは何も学んでいなかった。今回の原発事故、未曾有でも想定外でもない。「想定外」と言えば責任を逃れることができるので「想定外」を連発するが、マスコミが気軽に「想定外」とは言ってはいけない。ここわずか十数年の間に起こったことさえ忘れているなんて、とんでもないことだ。
原発が停まったら直ちに「計画停電」という聞き慣れない言葉が出てきた。しかしこれは原発が停まると大変なことが起こる!という東電の脅しだ。広野の最新鋭の火力が津波で被災したことが電力不足の最大原因だ。広野火力が復活し、横須賀にある停止中の火力発電所も復活し、ガスタービン発電機も集められている。東電にはそれぐらいの余力は十分にある。一般の人は、この一大事、節電にはいくらでも協力しようという意志も実行力もある。しかし原発推進派の人たちは「原発がなくても大丈夫」と思われたら一大事。「電力が不足したら大変だ」と言い続けなければならない。産業界、経済界の人は「火力発電が増えてCO2が削減できなければ、地球温暖化が進む」と脅す。今どきCO2を減らせば温暖化が止まると言う学者先生はいない。教科書を見れば温室効果ガス(CO2もその一部)が温暖化の原因とある。エアコンの普及などエネルギーの使いすぎで都市の気温だけが上がっているというのが現実である。地平線報告会でも極地の気温の変化はないと聞いた。石炭や天然ガスの可採掘年数はまだ数百年もある。化石燃料はもうすぐなくなるというのは数十年前の見解だ。火力発電でCO2が少しぐらい増えても地球温暖化には何の影響もない。太陽だろうが原子力だろうがエネルギーの使いすぎが都市温暖化の原因だ。使用電力の30%が原発によって生み出されていた。その30%が減れば、温暖化防止の目標に到達する。本気で鳩山さんの25%削減を考えるなら、今の電力不足のまま行けばいい。
今から20年前のエネルギーの使用量は震災前の70%程度だった。原発を全部止めた量と同じである。省エネが進んでいるのでそれでも20年前よりはるかに効率がいい。しかし人々の欲望を停止できるのは一時だろう。インド、中国は新しいトリウム液体燃料の原発を開発、実用化寸前のところにきている。過去には我らが尊敬する西堀栄三郎さんも推進しておられた原発だ。放射能をほとんど出さない、プルトニウムを生成しないなどよい点も多いが、「原発」というだけで日本では建設不可能だ。ドイツでは直ちに脱原発に踏み切った。日本でも菅首相は浜岡原発を止めたが、他も止めると言われたら困る勢力が首相を引きずり下ろした。その結果日本はこれからも原発維持国になることが決まった。こんな危険で効率の悪い発電はこれからは産業のお荷物になる。結果として日本はエネルギー後進国になり、インド、中国は新しい型のトリウム原発派が先進国になる。インドはすでに液体燃料の原子炉を実用化している。日本では風力、太陽光など自然エネルギーを推進する予定だが、それをメインにすることはできない。しばらくは火力で行くしかないが、その先は小規模分散型になる。大規模工場は電力会社から独立して自前の発電所をもつことになるだろう。
地震、津波に関しては別に考える。ここでは原発に関して述べておきたい。世界的に見ると「日本はなんて品格のない国になったのか」私はそう思う。チェルノブイリの事故以上の放射能をまき散らしながら、世界の国への謝罪も配慮もない。それはすべて自覚のなさからきている。政府は世界の中でどう行動すればいいか、東電は自分たちが起こした事故がどれほどのものか、マスコミは安全神話を流し続けた責任は、原子力を推進した学者、技術者はどうして現場にいかないのかなどなど。一般の人々だって自分で考え行動しなければ、マスコミなどの権威にいいように振り回される。1μSv/時が危険かどうかはかけ算すればすぐわかる。1μSv×24時間×365日=8760μSv/年 =8.76mSv/年である。「今のところ健康に被害はない」という発表は正しい。しかし何日かすれば被曝の許容量を超える。その時に慌てたのでは遅すぎる。マスコミは政府の発表が悪いというが、きちんと解説するのがテレビや新聞の役目だろうに。いろんな人を連れてきていい加減な報道をするから風評が起こるので、モニターの基準値が超えているかどうかを教えてくれればあとは本人が判断する。ゆとり教育、IT化推進などで科学や技術の教育が行われなくなった。自ら考えるためには現代が置かれている状況を把握する基礎知識が必要である。しかし学校ではどんどんバーチャル化が進んでいる。我田引水になるが私が取り組んできた地学という授業は東京都ではほとんどない。専門の先生の採用は数十年間おこなわれていない。今回の原発事故に対し私のできることは地学・防災教育の復活かなと思っている。(三輪主彦)
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