■その日、13時半に報告会の会場に到着すると、すでに十数人が会場入りして準備を進めていた。平日の昼間なのに、みんな早いなあと感心し、やる気満々だなあとちょっと笑う。従来18時半スタートの報告会が、会場の都合もあり繰り上げ開催となったのは、3月の報告会に続いて2度目。私もそのひとりだが、勤め人は仕事を早退して参集している。
◆「3.11から、われわれの意識は変わってしまったと思います。考えなければならないことが多すぎて、ちっぽけな頭では全部を考えて上手に判断することはとてもできない。そのなかで価値観を共有する地平線の仲間たちが、現地に行って何を感じてきたかを聞くことは参考になるのではないかと思います」と、司会の丸山純さんが最初に語られた言葉にうなずく。「いろいろな立場の人がいて、いろいろな切り口があるなかで、地平線会議として、この震災をどう考えたらいいのか……」と丸山さんの言葉は続いた。実際、メディアを通してではない、生の声が聞きたいという思いで会場に集まった人が多かったのではないかと思う。
◆当日は、予定していたプログラムが一部変更になり、以下のような内容となった。
序…わが心の三陸海岸
賀曽利隆(バイクジャーナリスト)
第1部…被災地からの証言
渡辺哲(いわき市在住)
相沢秀雄・寛人(名取市在住)
第2部…リレートーク・支援活動の現場・1
谷口けい(登山家・宮古にて支援活動)
滝野澤優子(福島県天栄村在住・「犬猫みなし ご救援隊」支援)
第3部…RQがやってきたこと
広瀬敏通+佐々木豊志(RQ市民災害救援センター)
+新垣亜美(RQ東北本部総務)
第4部…リレートーク・支援活動の現場・2
佐藤安紀子(「浜のかあさん」応援団)
西牟田靖(フリージャーナリスト・原発取材)
まずは報告会全体の様子を、賀曽利さんが寄せられた文章でご紹介しましょう。(妹尾和子)
■「東日本大震災特別地平線会議報告会」、いやー、すごかったですね。何がすごいかって、「節電自粛」の影響で午後2時という開始時間にもかかわらず、会場は満員になりました。ほんとうに驚きました。平日の午後2時なので、来てくださる方はパラパラ程度であろうと予想していたものですから。会場を包み込む熱気には圧倒されてしまいました。地平線会議の歴史に新たな1ページが加わった、そんな気がしました。
◆さて報告会ですが、私、カソリの「何で東北なの?」がオープニング。第1部の渡辺哲さん(福島県楢葉町)は大地震、大津波、原発事故のトリプルパンチ。避難所での様子は何とも生々しいものでした。つづいて相沢さん父子(宮城県名取市)。大津波前の自宅の写真と、すべてが流されてしまった大津波後の写真の対比はあまりに衝撃的で、言葉を失うほどでした。お父さんらが避難所で、「寝ないように!」とみなさんで励ましあったというお話は感動もの。同じ3月に襲った1933年の昭和三陸大津波では、津波で助かったものの、その後、多数の方々が凍死したという話を聞いていたからです。
◆第2部のリレートークはまさに「地平線会議」の面目躍如といったところ。トップバッターの登山家・谷口けいさんのお話で強く印象に残ったのは自衛隊の救援活動のすごさ。指揮系統がきわだっていたようです。この大震災の第1報を海外で聞いたというのも谷口さんらしいと思いました。つづいての滝野澤優子(福島県天栄村)さんは、いかにも滝野澤さんらしいというか、まさに犬猫大好き人間の発想。「県外のボランティアの人たちが被災地の犬猫を助けているのに、地元の私が…」という思いで「犬猫みなしご救援隊」の活動をしているとのこと。被災地に置き去りにされて餓死した犬の写真はショッキングなものでした。「そうか、今回の大震災ではこのような被害の一面もあったのか」と思い知らされた次第です。
◆第3部の「RQのやってきたこと」は広瀬敏通さんと佐々木豊志さんの対談形式。広瀬さんの「RQはレースクイーンではなくレスキュー!」には会場から小さな笑い声が。沖縄の「地平線会議 in 浜比嘉島」では元気溌剌とした表情を見せてくれた広瀬さんでしたが、今回は憔悴したような表情が垣間見られました。想像を絶する今回の大震災でのボランティア活動の大変さが、広瀬さんのお顔からうかがい知ることができました。広瀬さん、どうぞお体を大事にしてください。
◆会議を中断して会場に駆けつけてくれた広瀬さんと佐々木さんが退席したあとは、第2部のリレートークのつづき。RQ活動真っ最中の新垣亜美さん、「浜のかあさん応援団」の佐藤安紀子さん、原発取材の西牟田靖さんがそれぞれの現状を報告してくれました。午後2時から午後6時までと、4時間もの拡大版の報告会でしたが、気がついてみるとあっという間に終ってしまった……という感じでした。それほど中身の濃いみなさん方のお話の連続。すごい、すごいぞ地平線会議!
◆ぼくは今回の報告会で、みなさんからすごいエネルギーとパワーをもらったような気がします。その力でもって、大震災から2か月後の5月11日、バイクで「頑張ってるぞ!東北!!ツーリング」に出かけます。福島から青森までの東北・太平洋側を走ってきます。東北の入口というのは、はっきりとしています。それは茨城・福島県境の鵜ノ子岬。海に落ち込む断崖の関東側が平潟漁港で、東北側が勿来漁港になります。その鵜ノ子岬から旅を始めたいと思っています。原発事故での立ち入り禁止区域や通行止め区間は、そのたびに頭をひねって迂回していきます。旅の最後は下北半島東北端の尻屋崎。そこには「本州最涯地」の碑が建っています。その途中では本州最東端、岩手県重茂(おもえ)半島のトドヶ崎にも立ち寄ろうと思っています。行ければの話ですが。岬への入口が姉吉漁港。今回の大津波で38.9メートルという史上最高の波高を記録したところです。
◆「頑張ってるぞ!東北!!ツーリング」は被災地の被害を見るのではなく、今現在、国道6号はこんな状態ですよ、国道45号はこんな状態ですよ、相馬名物「ホッキ丼」の店はやってますよ、日本三景の松島は大丈夫ですよ、宮古の浄土ヶ浜には行けますよ、鵜ノ巣断崖から眺める「海のアルプス」の風景はまったく変りませんよ…といったツーリング情報を流し、1人でも多くのライダーにぼくの大好きな東北・太平洋岸を走ってもらいたいのです。
◆じつはぼくと東北のかかわりは、ツーリングライダーのみなさんが使っている地図、『ツーリングマップル東北』(昭文社)にあるのです。1997年に出たのですが、その2年前から現在まで、毎年、1か月1万キロを目安に実走調査で東北各地を駆け巡っています。15年間で15万キロ走りました。東北の全市町村に足を踏み入れたと自負しています。103見開きページからなるものですが、「地図に個性を!」を合言葉に、全部で数千のコメントが入っています。その大半は実際にその地に行き、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の舌で味わったものを書き込んでいます。人呼んで「みちのくのカソリ」、「みちのくライダーのカソリ」なのです。
◆それだけに今回の大震災と大津波によるあまりの惨状は目を覆うばかりで、泣きたくなるほどです。3月11日以来、「なんで、なんで…」が自分の口ぐせのようになってしまいましたが、もう「なんで…」はいってられません。自分なりに東北に一番、恩返しできること、それは東北の今の情報を発信をすることだとの思いに至りました。そのために「頑張ってるぞ!東北!!ツーリング」に行ってきます。(賀曽利隆)
■以上、怒涛の報告と決意表明をしてくださった賀曽利隆さんは、地平線会議ではおなじみの創設メンバーのひとり。これまでに133か国、130万キロをバイクで走っている、少年の心をもつ冒険ヒーローだ(ヒュー♪)。今回は20分というあまりに短い持ち時間だったが、「みちのくの賀曽利」の異名をもつに至った経緯や今回の震災について感じていることの概要を語られた。
◆東北と深く関わるようになった経緯は、賀曽利さんの文章にあるように『ツーリングマップル東北』がきっかけ。今やライダーたちのバイブル(?)となっているツーリングガイドだ。1995年に賀曽利さんに相談を持ちかけ、そのシリーズを立ち上げた昭文社の編集者・桑原和浩さんも客席から呼ばれ、紹介された。
◆ちなみに、全国を7ブロックに分けて発行しているそのシリーズのなかで、なぜ賀曽利さんが東北担当になったかといえば、前身の『二輪車ツーリングマップ』で一番売れないのが東北だったからだという。当時、東北にツーリングに行くライダーはほとんどおらず、2人は「東北に火を!」を合言葉に、まったく新しいタイプのツーリングガイドを完成させたのだ。以来、そのシリーズは版を重ね、東北へ行くライダーが激増したという。
◆お話になった東北の方への恩返しのためにも、「今、再び東北に火を!」という声を聞いたとき、私は「東北に灯を!」だと思っていたのだが、2次会で賀曽利さんに確認したら、「セノオさん、灯ではありません。ファイアーです。燃える火です!」と、まさに燃える瞳で語られた。ちなみに、このツーリングマップル、バイク乗りでなくても参考になることが多く、私は初めて訪ねる土地について下調べが必要なときの参考書として活用させてもらっている。
◆その後は、今回の震災について。まず震災から43日目であるこの4月22日時点で、朝日新聞の報道によれば、死者が14133人、行方不明者が13346人という数字を挙げ、全国家予算をつぎ込んでも、全行方不明者を探し出すべきだと賀曽利さんは訴えた。
◆行方不明者を含め、今回の震災で3万人近い死者が出ていることに関連して、怒りの矛先がひとつあると語る賀曽利さん。それはマスコミの責任だという。昨年の2月28日、前日にチリ沖でおきた大きな地震を受けて出された日本の大津波警報。三陸沖に5〜10メートルの津波が来ると警報を出し、NHKなどテレビ局は報道し続けたにも関わらず、結局津波が1メートルを超えたところはなかったという経験が、今回の大震災の折に三陸の人の避難が遅れたことに影響していると。「気象庁、世紀の大誤報を垂れ流したテレビ局は、オオカミ少年ですよね。誤報を流しながらひとことのお詫びもないことを反省し、報道関係者はきちんと検証していただきたい」と。
◆そのほか、震災後の初動の遅れには、2004年〜2006年にかけての平成の大合併が影響しているのではないかと、合併前の地図で市町村を細かく説明された。「古い地図が役立つこともあるんです」という言葉にうなづいている人が客席にたくさんいた。
◆さらに明治三陸大津波や昭和三陸大津波と比べて、また世界の地震と比べて今回の東日本大震災がいかに巨大な地震であったか、これまで日本では経験したことのない未曽有の超巨大地震であったことをデータを挙げながら紹介してくれた。
◆以前からデータを語るときの賀曽利さんが気になっていた。語られる数値が賀曽利さんの中で反芻されてでてきたものと感じるのだ。どこかからひょっと持ってきた数値ではない重み。今回、震災の翌日から毎日、死者数、行方不明者数を記録していると話されるのを聞いて、なるほどと思った。そうやって数値に向き合い、考え、自分のものにしていくのだろう。ついでに書くなら、こまめに記録をとられること、聞き上手でほめ上手なことも賀曽利さんの魅力というかチカラなのだと思う。取材先ではほとんど自分の話はせず、ひたすら聞き役にまわることに徹していると聞いたことがあるが、それは宮本常一さんの教えとのことだった。
◆話を報告会に戻そう。賀曽利さんが最後に語ったこと。それは1941年12月8日に突入した太平洋戦争は史上最大の「戦災」だと思っているということ。そして今回の東日本大震災という史上最大の「天災」と東京電力福島第1原発の事故という史上最大の「人災」。
◆「歴史のなかでは瞬きするくらいのわずか70年の間に、われわれは史上最大というべき戦災と天災と人災を経験してしまったのです。以上です」という賀曽利さんの言葉を受けて、会場は一瞬、静寂に包まれた。その起きたことの重みと向き合っていく日々がこれから続いていくのだ。(妹尾和子)
■第1部では、宮城県と福島県で被災した3名が、その生々しい体験を語った。「賀曽利さんとオフロードバイクで、三輪さんとはランニング仲間」という渡辺哲さんは、勤務先のいわき市で地震に遭遇。社員は即帰宅となり、彼も住まいのある楢葉町まで、大渋滞と至る所で寸断された道を2時間かけて帰った。
◆実家は海から約1km離れており、津波の心配はしていなかった。けれど、海岸沿いの屋根ごとひっくり返った家やグシャグシャの車を見て、「もしかするとウチも」と背筋が凍り付いた。幸い、津波は実家から500mで止まり、両親も無事だった。その夜は滅茶苦茶の家の中を片付け、リビングで寝袋にくるまったが、絶え間ない余震で眠れぬ一夜となった。
◆翌12日。片付けを再開しようとした午前9時、防災無線から耳を疑うアナウンスが流れる。「福島第2原発から放射能が飛散している模様! 町民は直ちに南へ避難して下さい!」。どこに、どこまで、という具体的な指示は一切ない。とりあえず、両親と隣りの広野町の親戚宅に身を寄せた。食事と風呂の後、仮眠を取って一息つく。そして午後3時頃。地響きと共に強烈な爆発音が轟き、地震とは違う揺れに襲われた。
◆広野には東電の火力発電所がある。「そこで何か起きたのかも」と家族で話したが、午後5時過ぎのニュースで、それが25kmも離れた第1原発1号機の水素爆発だと知った。翌日、町の要請で、いわき市の小学校に移る。すでに1000人ほどが避難しており、体育館も運動場も人や車で一杯だった。
◆2日目から『屋内待避』となり、「体育館から出ると、もう中に入れません」との指示が出た。校庭に停めた車から荷物を取ってくることもできない。「パソコンもテレビもなく、ラジオの情報だけ。どういう状況なのか判らない。それが一番キツかった」。3日目以降は外出可能になったが、16日に「いよいよ原発が危ないんじゃないか」という噂が広まり、その日の夕方、約3分の1の人々が車でワッと移動し始めた。
◆寛人さんも逗子の親戚宅に行くことを決意。途中、唯一開いていた守谷SAで、2時間待って2000円分だけガソリンを入れた。周囲も全て『いわき』ナンバー。福島から関東方面への避難者だった。「一人が動くと、一斉に動き出す。今から考えたらちょっと異常でした」 そう振り返るくらい、脱出時の空気は緊張していた。
◆結局、1週間ほど親類宅でお世話になった渡辺さんは、両親を残し、一人でいわきに戻って会社の近所にアパートを借りた。そして毎週、バイクや車、たまにはランニングで楢葉町の家に帰り、必要な物を持ち出した。しかし、それも報告会前日の22日以降は立ち入り禁止。今は、20km圏ギリギリで検問から100m先に見える実家にも入れない。親子別々に暮らしながら、「原発にケリがついても、その後、実際に住めるのか。それが町の人々の一番の不安だ」という毎日を送っている。
◆ここで進行役の丸山さんが立ち、「今窺ったお話の概略が『地平線3.11 NEWS』に載っていますが、ナマで聞くと全然違いますね」と、次の報告者へとバトンタッチ。その相沢寛人さんは、宇都宮でプロパン関係の仕事に就いている。それ故すぐには動けず、故郷の宮城県名取市閖上(ゆりあげ)の惨状を目にしたのは、大震災から1週間後の土曜日だった。父・秀雄さんと祖母が住む実家へ車を走らせると、海から2km程のところで検問に止められた。「この先、車は入れない」と云う。
◆実家は港から200m。そこから約30分、瓦礫の中を歩いた。「少しは残っているんじゃないか」との淡い期待は、1kmも先から港が見えた時、ショックに変わった。かつて視界を遮っていた家並みは消え、町自体がなくなっている。裏手を流れる川と橋の位置を手がかりに探すと、実家玄関の土台だけが残っていた。被災前後のスライドを交え淡々と語る寛人さんの口ぶりには、言いようのない寂しさがこもっていた。続いて父の秀雄さんが登場。江本さんとのQ&Aの形で話が始まった。
◆これまでも地震は度々来たけれど、今回は強さが違ったという。「8mから10mの津波の恐れ」との情報に外に出ると井戸から水が噴き出している。「これは普通ではない。確実に津波が押し寄せる」と確信した。隣のおばさんにも「片付けは後でいいから逃げろ!」と声を掛けたが、出てこない。しかたなく、免許証とラジオ、ケータイと財布を持ち、5〜600m離れた避難所の中学校に車で向かった。
◆校庭に車を止め、3階まで上がって窓を開けると、海の方がボヤーッとして見えた。津波は最初、名取川を物凄い勢いで上がってきた。そこだけが水しぶきで薄暗く、200mほど離れているのに音が聞こえる。校舎のすぐ下の公民館からは、より安全なこちらへと移ってくる人たちがいた。が、迫る津波は家の蔭で見えず、歩いてくる。3階から皆で叫んだ。けれど、逃げ遅れた3人が波に呑まれ、うち1人は助からなかった。
◆校舎は1階まで水に浸かり、ずぶ濡れで上がってきた人もいる。津波の後、町の廃墟の4か所くらいから火の手が上がった。それが停電による暗闇での、唯一の明かりとなった。寒さとショックの中、眠らぬように皆で励まし合いながら、夜明けを待った。もちろん食べ物もない。誰もが逃げるのに精一杯で、殆ど手ぶら。あれこれ持ち出そうとした人や、一度避難しながら家に戻った幾人かは、津波に呑まれてしまったという。体育館から出られたのは翌日の午後。自衛隊が路上の瓦礫を片付けて県道を確保し、そこを通って内陸の小学校に移動した。
◆報告が進むにつれ、秀雄さんの口は重くなってゆく。助けられなかった隣のおばさん。避難場所の僅かな差で生死を分けた人々。そして、デイケア先で一人にさせてしまった97歳の母。「でも、避難所より良かったじゃないですか」そんな江本さんの言葉も慰めにはならず、繰り返し自分を責めた。
◆その秀雄さんが、「避難所暮らしの2週間で、何が一番大変だったか?」の問いには、「(避難場所を)与えて貰っただけでも助かりました」と即答し、地震後のいち早い沈着冷静な行動と併せ、謙虚で責任感の強い人柄が窺えた。だからこそ、自責の念も人一倍深いのだろう。3名の過酷な体験談に、私たちは黙って頷くだけだった。恐らく、限られた時間の中で、渡辺さん、相沢さんたちは各々の胸中の何分の一も話せなかったに違いない。我々は、語られなかった部分まで彼らの思いを受け取らねば。そんな気持ちで聴き終えた数十分だった。(久島弘)
■第2部、第4部は様々な角度から被災地に関わり活動している4人の方のリレートーク。トップバッターは、岩手県・宮古市で支援活動に携わった、登山家の谷口ケイさん。3月11日、タスマニアの原生林の中にいた。2日後の13日、森から戻り、震災を知らされたという。日本への電話は通じず、帰国できないかと思ったが、14日に降り立った成田空港は平和だった(その数日後から海外へ脱出する外国人が殺到したらしい)。
◆日本に帰ると落ち着かない。「何かしたい」でも「何をしたらよいのか」。本震を知らないため、余震でも怖く家に居たくない。山に行きたいが、地震による雪崩の恐れがある。ならば現地に行きたい、けれどいまは迷惑だ。自分の意思を決定できないまま、悶々と数日を過ごした。そこで小さな山へ行った。と、いつもと同じ姿でそこにある自然を見て、恐れていたものがすっきりしたという。
◆山から帰ると、宮古市から「支援活動のベースを作るため来てくれ」との要請があり、山仲間3人と現地に向かうことになった。山で数週間生きられる食糧や装備(テント・寝袋・火器)は家にある。自分で衣食住、身の安全を確保できるケイさんが必要とされたのだ。震災から10日後のことだった。
◆岩手県に入っても地震による被害はほとんどなく、海のそばでがらっと風景が変わる。津波による被害が9割、と感じられた。ベースにする教会を人の入れる状態にして、避難所を回り被災者のニーズを聞いた。感じたのは「外部の人間が入り、何から何までやろうとしても上手くいかない」ということ。
◆ここから写真のスライドが。全壊の家々の写真を前に、「自衛隊はすごかった」とケイさんは言う。おそらくGPSを使い、猛スピードで瓦礫を分けて道を作った。主要な道路、続いて細かい道と、「動線」を確保することが捜索のためにも重要なのだ。また避難所のニーズは毎日変わって行くが、それを社協にあげても人が足りず、なかなか反映されない。が、自衛隊は指揮系統が統一されており、迅速に支援物資を届けていたという。
◆全壊の家には重機が必要だが、宮古市の中心部は、1階が浸水し2階は残った家が多かった。ケイさんが行った時は「被災者の方が避難所から自分の家に通うが、何もできずため息を繰り返している」という状態。「外部の人間の話に耳を貸すのに時間がかかる時期だったと思う」。冷静に見れば全てゴミでも、住んでいた人にとっては宝であり、財産なのだ。「これはばあちゃんの嫁入りの時の箪笥だ」。話を聞き、「でももう使えないね」「そうだね」と会話を繰り返し作業を進めた。
◆「宮古から陸前高田まで見て来たが、小さな町のままがんばっていた大鎚町や山田町などは、これからが大変そうだ。合併して市になっているところは内陸部が元気で、地元の人が自分たちで復興しようという思いや力がすごくあるな、と感じた。それを知ることが出来ただけでも、行ってよかったと思う」。
◆2人目は、滝野澤優子さん。滝野澤さんの住む福島県天栄村は、東京電力・福島第一原子力発電所(以下・原発)から70キロの場所にある。3月11日にも被災し、さらに原発問題と落ち着かなかったが、31日にガソリンが普通に買えるようになり、気持ちに余裕が出てきた。と同時に4月に入り、マスコミに「被災地の犬や猫のニュース」が流れ始めた。いままで動物保護活動を「旅行できなくなる」と避けていたが、犬猫好きを自称し、なにせ「地平線犬倶楽部」の会長でもある。
◆いくつのも県外の保護団体が福島でも活動してくれているのに、県内の自分が何もしなくていいのか。「原発近くまで入ってゆく」「依頼された犬猫だけでなく、どんな犬猫も助ける」という方針に感銘し、広島の団体「犬猫みなしご救援隊」の活動に参加するようになった。
◆原発20キロ圏内は避難指示が出た後、ゴーストタウン状態だ。ひびの入った道路を、野良(になった)牛が闊歩している。滝野澤さんは、軽のワンボックスカーで、ガケが崩れていて車の通れない道も、歩いて犬猫を探しに行った。すぐ帰宅できると思い、ペットを家の中に置いて来た圏内の住民も多い。中で餓死したペットも多く、家を覗くのが怖かった。もちろん依頼のない家の中には立ち入れないが、庭に繋がれている犬も「所有物」とみなされ、勝手に首輪を外してはいけないのだそうだ。
◆自衛隊員が独断で首輪を外してくれ、餓死を免れた犬も多く、滝野澤さんも「自衛隊を見なおした」と言う。浪江町や双葉町、ニュースで散々耳にしている場所のいまの写真が。ペットショップでは、たくさんの犬猫がケージに入ったまま死んでいた。リードが絡まったまま死んでいる犬も。あるいは、がりがりに痩せている犬の写真。衰弱しており、この犬はすぐ捕まえられたという。
◆人寂しく寄って来ることもある犬に比べ、猫は捕まえづらい。捕獲器を仕掛け、翌日になって見に行く。警戒心の強い犬の場合も、何日も通い安心させてから捕獲する。が、それもできなくなった。報告会の当日、22日0時の時点で、20キロ圏内は「立ち入り禁止区域」になったからだ。「まだ沢山の犬猫がいるのに……。餌を置いて立ち去るしかなかった。これからどう活動すればいいのか」と滝野沢さん。保護した犬猫は、スクリーニングしても放射線数値は大したことがない。どこの団体も目いっぱい預かっている状況だという。「里親(終生飼育になるだろうとのこと)を募集しているので、飼える人はぜひ問い合わせて見てください」。
◆3人目は、「ウーマンズフォーラム魚」で、「『浜のかあさん』応援団」の活動を18年続けて来られた、佐藤安紀子さん。震災で津波の被害に合い、いままさに語られている三陸の村々は、「漁村」である。佐藤さんは、「これまで漁村が語られることはなかった。感慨がある」と言う。米と魚は日本の食文化だが、米作りの農民が200万に対し、漁民はたったの20万。水産省は小さく、漁業権の交渉が主で、「語れる場」がなかったのだ。漁民の半数は既に60歳以上で、後継者は少ない。海に囲まれている日本で、輸入魚が半分という現状がある。
◆そんな中での震災だ。厳しい漁業を生業として生きて来た三陸の人たちは、前向きで暖かく、謙虚。「『石原軍団の炊き出し』と聞き、気にはなっても、遠慮して行けないような人たち」だと言う。佐藤さんが一番仲良くして来た宮城県女川町は、津波が高台の一階まで来て、住民の15パーセントの方が亡くなった。
◆未来の子供たちのために、漁業の状況を変えたい。そのためにも、浜と都会の母さんが手をつなぎ、まずは現状を知ってもらうこと、と佐藤さんは活動してきた。三陸の浜の母さんたちに魚を持って来てもらい、小学校で「浜の母さんと語ろう会」の授業。興味を持った高学年の子が「子供記者」となって漁村へホームステイや漁に同行をし、記事にするという活動も行っている。11年前の子供記者が、いま大学生になった。今回、佐藤さんたちがつくった「浜の母さん義援金」口座に24万円を集めて送ってくれたそうだ。
◆佐藤さんたちが集める義援金は、日赤ではないので、町や漁村へではなく、○○さんや○○さんへ渡すお金だ。僅かだけどお金を渡すことで、「あそこの母さんが元気になったら、町も元気になるはず」という思いがある。女川町では現在も瓦礫がそのまま残り、ご遺体があるのではと捜索している状況。4月28日を四十九日とし、お祭りをして祈りを捧げることで区切りとし、前を向き復興を誓おうと話されているという。佐藤さんは、だから行って「うんとお話を聞きたい」と考えている。
◆報告会会場の閉館時間まであと僅かの中の4人目。フリージャーナリストの西牟田靖さんは「自分の興味のために動いている……」と(少し気まずそうに)言う。今回、被災していない東京の人間としては、なにより「原発事故」が気になった。昨年子供が生まれ、現在9か月。40歳の自分はよいが、これから成長する赤ちゃんは違う。東京都でも「水道水の乳児摂取制限」が出されたこともあり、状況によっては実家の大阪に帰ろうかと不安を感じた一方、「放射能ってなんなのか」という疑問が出て来た。そして長い付き合いになるのだろうし、なるべく早く現状を見に行き、その上で自分や家族の身の処し方を決めた方がいいんじゃないか、と考えるようになったという。
◆すぐにウクライナから「ガイガーカウンター」を買い、4月6〜8日と21日に福島県の南相馬、飯館村、いわき、そして原発20キロ圏内に入って来た。飯館村は避難区域に入っていないが、数値の高い(西牟田さんの測定で【8.86】μSv/h=毎時マイクロシーベルト)地域だ。子供は避難し、人っ子ひとり出ていない。76歳のおじいさんが1人いた。どっかりと地面に腰を下ろし休んでいる。下の地面を測ると【13.39】μSv/hを示した。
◆ほかにも、避難所に移ったが、「慣れない環境で身体を壊すより、家に戻って放射能を浴びたほうがいい」と覚悟を決めたというお年寄りのご夫婦も。自分の畑の米や野菜を食べているという。チェルノブイリの原発事故で汚染された村を撮ったドキュメンタリー映画『ナージャの村』のような世界だ。
◆南相馬で会ったご夫婦には、3か月の赤ちゃんがいた。家は双葉町。13日までいたが、むりやり親戚の家へと避難させられたという。「育った場所だし、私たちのすべて」とこれ以上遠くに行く気はないそうだ。西牟田さんは「様々な人がそれぞれ決断を迫られている状況」と感じた。色々見るとマヒして、東京では砂場が【0.2】μSv/hでも「子供に危険だ」と思うが、飯館村に行き、0.7μSv/hと見ると「低い。安全だ」と思う。放射能の影響はすぐには出ない。数値に安心したり不安になる自分に思ったことは「判んないなあ……」だった。
◆ほかにも、楢葉町にある原発事故対策の拠点「Jビレッジ」。分煙なのか、外でタバコを吸い息抜きをしている作業員たちや、陸自で運転できる者が揃わず使用できていないらしい七四式戦車の写真も。20キロ圏内はほぼ無人のため、略奪されているコンビニなどもあり、ゲートでは「バールを持っていないか」と聞かれたそうだ。禁止区域になる前日の21日にも行くと、原発から4キロ、双葉町の風の谷間になるような場所は、1か所だけ車中で64.34μSv/hを記録したそうで、怖い。「今のところよく判らないが、不安と付き合いつつやっていくしかないのかな……」。(加藤千晶)
■第3部は、「日本でもっとも優秀なボランティアのリーダーたち」と、江本さんが評する「RQ市民災害救援センター」(通称RQ)総本部長の広瀬敏通さん、東北現地本部長の佐々木豊志さん、そして地平線会議の若手支え手のひとり、3月下旬から現地に入っている新垣亜美さんが登場した。
◆RQは、広瀬さんの呼びかけのもとでスタートした、災害ボランティアのプロジェクトチーム。東日本大震災が起きた2日後の3月13日に結成された。現在、100を超える団体が参加。そのネットワークを生かし、幅広い支援活動を行っている。日々変わっていく現地の状況を的確に把握し、そのニーズに「迅速」かつ「臨機応変」に対応する。そんなRQの活動については、テレビや新聞、そして「地平線通信3.11ニュース」で見聞きされている方も少なくないと思う。
◆79〜80年、内戦下のカンボジアで、難民の救援活動に携わってきた広瀬さんは、その後も阪神・淡路大震災(95年)やインド洋大津波(04年)、ペルー地震(07年)など、国内外で災害救援活動を行ってきた。その広瀬さんをして、「自分がこれまで体験したことのない大災害であることが、どんどん明らかになって……」と言わしめたのが、今回の大震災だ。
◆RQの活動エリアは、“ボランティア過疎地”といわれる石巻以北。女川、気仙沼から岩手県の大船渡まで、南北約120キロをカバーする。現地本部は、この広範なエリアの“扇の要”に位置する、登米(とめ)市に設置された。
◆このエリアには、今もRQ以外の団体はほとんど入っていないという。NGOやボランティア団体が活動場所を確保するのが難しいことが、その理由だそうだ。そんななか、RQは行政の手の届きにくい小さな避難所を口コミで探しながら、救援活動を行ってきた。報告会当日の4/21時点で被災者の方々に届けた緊急支援物資は約250トン、回った避難所の数は150か所に上る。
◆広瀬さんによれば、救援活動は大きく4つのフェーズに分けられる。第1段階は災害が勃発してから避難所といわれる場所に腰を落ち着けるまで、命を存(ながら)えさせるための「緊急支援期」。支援をしながら一人ひとりの話を聞いていると、被災者の方々は、映画の主人公さながら、奇跡的に助かった方ばかりだという。第2段階が「被災者の支援期」。これは現在、モノ(物資)から人の(手による)支援へと移っている。今後は仮設住宅への移設に伴う被災者の「生活復興支援期」(第3段階)、そしておそらく数年がかりで、「地域の復興支援期」(第4段階)へと続く。「そこまで被災地に通い続けることができるのか」と問われたら、今は答えようがないと言いつつ、ボランティアの多くは、長期的に現地を支援していく意思を見せているそうだ。
◆ボランティアは、被災者支援のために現地に入るが、ある程度の規模になると、ボランティアを支える「ボランティアのためのボランティア」が必要になる。現地総務という激務をこなしている亜美さんはまさにそうだし、ボランティアのための炊き出し班や、東京からボランティアを派遣するチームなどもこれに当たる。
◆さらに長年、被災地の救援活動に取り組んできた広瀬さんは「災害教育」ということばを口にする。日本の面積は、地球上の0.04%に過ぎないものの、マグニチュード6以上の大きな地震の、実に1/4が集中している。確率的にいえば、日本人は一生に一度、災害に遭遇してもおかしくない、と。
◆にもかかわらず、少なからぬ人が災害の実態になるべく触れたくない、という反応をする。メディアもはじめのうちこそ被災地を報道するけれど、やがてもとの日常の番組に戻ってしまう。だが、災害の現場で学ぶことはたくさんあるから、子どもも大人も、企業の人も、現地に行ってほしいと広瀬さん。「少し落ち着いたら、被災者の方々の話を、そしてボランティアからも、なぜボランティアはいるのか、どんな役割をしているのかを聞いてください」。被災地はどのように立ち直っていくのか。現場を見て、話を聞き、具体的なイメージを持つこと。それが広瀬さんのいう災害教育だ。
◆長期にわたる支援のなかで、ボランティアの協力は待ち望まれている。映像や写真で目にしているように、被災地には、地震で崩れ、津波で流された家や家財道具などが山となり、夥しいガレキと化している。ガレキ、ということばを安易に使ってしまうけれど、それらは3月11日まで、被災者の方々が愛着を持って使ってきたもの。軽々しくゴミとはいえないものばかりだ。広瀬さんはこう続ける。「こうしたものを目にしていると、被災者の方々には絶望しか起きません。皆さんも理解できるでしょうけれど、もしこれがきれいに片づけば、被災者の方々の絶望が希望に変わるんです」。
◆広瀬さんに続いては、東北現地本部長の佐々木豊志さんが登場。一緒に仕事をしている亜美さんいわく「被災者の方々のことをまっすぐに考え、行政の手の届かないところに目を向けて行動を起こす、貴重な存在です」。宮城・岩手・秋田にまたがる栗駒山の中腹で「くりこま高原自然学校」を運営している佐々木さんは、3年前の岩手・宮城内陸地震で被災者となり、山から下りることを余儀なくされた。そのとき多くの方の支援を受けた佐々木さんは、3月11日、ガイドをしていたブナの原生林で尋常ではない揺れを感じた時点で、自然学校を災害支援学校にすることを決意。広瀬さんと連絡を取りつつ、情報収集を始めた。
◆津波で浸水した海岸線沿いの地域は障害物が多く、船外機付きのボートを捜索に使えない。このため名取市や亘理町では、自然学校のラフトボートを使った。その後、登米に本部を設置してからは、知人や自然学校の参加者の安否を確認しながら、物資を運んだ。「まずは防寒具を、その後は電気や水道が途絶え、洗濯も、風呂に入ることもできないので、下着や衛生用品を運びました。3週間ほど経った頃から被災者自身が動き始めたのに合わせて、長靴や作業・片づけ道具を、そして子どもたちのための遊び道具や勉強道具を用意しました」。このように、被災地での物資のニーズは状況に応じて日々変化している。
◆4月上旬からは、人と人の交流を促し、被災者の方々がリラックスできるような支援も始まった。「ヨガ、足湯、マッサージ、移動美容室、落語の会に音楽コンサート……。ボランティアにはいろいろな人が参加しているので、さまざまな活動ができるんです」。
◆南三陸町の学校再開(予定)は5月9日。思い切り遊びたいのを我慢している子どもたちのために、4月19、20日には「第1回子ども元気村」が開催された。レクリエーション・ゲーム、地元の演歌歌手のステージ、ドラム缶で焼いたピザ……。ここでもボランティアは大いに力を発揮し、楽しい会になったという。
◆今は1日100人前後が活動している現地ボランティアだが、スタート時の人数は20人ほど。大量の支援物資を効率よく運ぶために、いろいろなシステムを試してきました、と佐々木さんは振り返る。「最初から決まったやり方やシステムがあるわけではなく、ボランティアの人たちの自発的な創意工夫で、やり方はどんどん変わってきました。もっといい方法があるんじゃないですか、と誰かがいえば、その人に、改善方法を考えてもらう。こちらが一方的に指示するのではなく、みんなでこうしよう、ああしようという、その積み重ねですね」。毎日これだけボランティアが入れ替わりながら、システムはどんどんよくなっているという。それは、佐々木さんがいうように、どうすれば支援活動の先にいる被災者の方が、少しでもよい状況になるか、参加者全員が日々考えて行動しているからだろう。
◆最後は4週間ぶりに一時帰京中の亜美さんから。「RQの活動の核についてはお二人が話してくださったので、私は、ボランティアはこんなに明るく元気に頑張っているということを伝えますね」と、写真を見せながら、現地の状況を語ってくれた。
◆まず、スクリーンに現れたのは、金色がかった白髪の、年齢不詳の男性。タオルと輪ゴムで瞬間芸的にぬいぐるみをつくるタオル人形おじさんは、実はご自身も被災者だという。避難所でコミュニケーションのきっかけになればと、各避難所にぬいぐるみを置いて巡っているおじさんを、仕事帰りのボランティアが捨て犬のように連れ帰ったという話に、会場は大爆笑。
◆現地の総務は亜美さんを含めて女性3名。総務の仕事は、ボランティアの環境整備、オリエンテーション、情報収集と発信、ボランティアの人数管理、ニーズに対する人・物資のマッチング、お金の管理、企画の作成、事務作業、渉外、その他雑務……と膨大だ。「洗い出してみると、半分くらいは短期の人でもできそうなので、今後は仕事を割り振りしながら、体制の立て直しを図ります」。
◆炊き出し班がつくる食事、地元の中高生ボランティア、子ども元気村、京都から現地本部に来たラジオの取材……。現地の様子を伝える写真がしばし続く。
◆資格があって、できることが明確な人から、何ができるかわからないけど、とにかく役に立ちたいという人まで、ボランティアも十人十色。でも、現地に長期滞在中の亜美さんが何より実感したのは、「ボランティアの役割は、被災地に活気を届けること」だという。「何をしたらいいかわからないとか、行っても迷惑になったら……と考える前に、まずは行って、そこで考えることも大事だな、と。100%安全とはいえないし、もちろん配慮は必要だけれど、引いてばかりではなく、できることを自分から探していけばいいと思っています」。
◆何よりも被災地の方々と信頼関係を大切にしながら支援に取り組む。3人の話からは、そんなRQの活動ぶりが伝わってきた。ボランティアには、力仕事やアウトドアに長けた人だけが求められているわけじゃないという話を聞いて、それなら自分も……と思った人は、きっと少なくないはず。被災地支援の最前線で奮闘する3人のたくましさが、背中を後押ししてくれる、そんな貴重な現地報告だった。(塚田恭子)
■いつもの聞く側から話す側となり緊張しましたが、原発による被災地域の生の声として皆さんにその一端をお伝えできればと思い、報告させて頂きました。未だ収束の見通しが立っていない状況ですが、1日でも早い地元復帰を祈るばかりです。
◆【報告会での補足】計画地域に指定される前にバイクを取りに自宅まで約40km程走って戻ったのですが検問でその旨説明したところ、警察の方から「頑張って下さい!」と逆に激励されました。(人も車も通っていない国道をマスク姿で走る光景は異様だったと思います……。)
◆【その後の状況】4/29(金)に神奈川(逗子市)に避難していた両親がいわき市に戻り、一緒に生活を始めました。不足している家財用品を揃え、通常の生活が出来るようになり、ホッと一息ついているところです。ただ、未だに自宅に戻れない悔しさ、もどかしさは完全に拭い去ることは出来ません。一応の目安として工程表が発表になりましたが、遅々として進んでいない状況を見て、住民の殆どは信用していないように思います。
◆東電幹部や国会議員の方々が被災地を訪れるシーンが多々報道されておりますが、被災者の切実な気持ちを十分理解して頂き、原発の早期収束に尽力されることを切に望みます。5/4〜5/5の2日間、バイクで仙台まで北上し被災地域の状況を見てきました。多くのボランティアの方々による活動も目にしましたが、未だに手付かず状態の地域が多く、被害の甚大さを改めて痛感しました。これからは賀曽利さん同様、東北人ライダー/ランナーとして一人でも多くの方々に東北に来て頂けるよう、知人友人に地元をPRしていき、地域活性のお手伝いをしていければと考えております。(渡辺哲 ライダー&ジャーニーランナー)
■前略 春うららかなどんよりとした日が続いております。皆様方には献身的なご活躍たのもしく思うと共に、罹災者として心から感謝申し上げます。地震、液状化現象、津波襲来と17分間程に起きました。
◆地平線会議に招かれて、当初は自分なりにリアルに行政にたちさわりがない様に話するつもりでした。実際に質問形式で質問されると津波が押し寄せるまでの間の自分の行動に対して完璧な行動をしたか自分で自分に問いただす処がありました。頭の中では亡くなられた方の顔々がうかび、その方に声かけ出来なかった事で頭の中では自分を責めていた。そのために江本さんからの質問は聞き入れられなかった。江本さんも気がつかれたかも知れません。体は硬直し皆さんが見ていたとおりです。
◆自分の体の状態がおかしい事に気がついたのは帰ってからです。夜間に下痢気味で起き、心的ストレスが大であることを知りました。4/25(月)に病院に行き説明しましたところ、PTSDかも知れないとの事。安定剤を処方されました。4日間服用し、体の硬直は緩和する。
◆自分の心的ストレスを知り、名取市役所防災課に心的ストレスがあったことを知らせる。多かれ少なかれ心的ストレスを受けているので、避難所の皆さんに安定剤を配って下さる様に連絡しました。
追伸:また、津波が押し寄せた当日、直前に名取川の水が、川の底が見える程水が引いて行き、その状態を見て車で逃げた方も数人いました。たぶん津波が押し寄せる5分位前のことだったでしょう。避難所で聞かされました。地震発生から津波が押し寄せるまで十分な時間がありました。悔やまれる事は津波警報が鳴らされていたら津波で亡くなられた方の半分位は逃げることができたでしょう。(相沢秀雄 71才)
■父は、毎朝起きたときから寝るまで、震災の話しかしません。本来あるべき責任かもわかりませんが、自らの責任を感じており、その感情と毎日戦っているようです。現在はまだ、宇都宮の会社の寮(借り上げのアパート)に父と暮らしております。生活再建に向けての話題は行政の方針次第ということしかありません。なので、仮の落ち着いた生活をどこに求めるかというのが直近の話題です。仮設住宅か、公営住宅か、アパートか、宇都宮か、宮城か、など。保障・保険・義援金等、生活再建への費用をどう利用するのか。まだ、すべて決めかねる状態です。
◆また、地平線会議では、被災地のためこれほど様々な活動をされているのかと心強く思うばかりでした。先日、地平線会議前ですが、4/16に地元の閖上小学校の体育館に津波の流出物が並べてあるということで、父と行ってきました。実際には写真・アルバム類が体育館一面に並べてあり、時間的にもすべて隈なく探すことは困難で、ざっくりと一巡してきました。唯一、私の保育園の時の落書帳1冊だけが見つかりました。全く記憶にもないものでしたが、私の名前が書いてありましたので持って帰ってきました。物と思い出にあふれた我が家から、これだけが残ったか、という思いでした。(相沢寛人)
■熱い4時間があっというまに過ぎていったという感じでしたね。一人一人の発言者が言いたいこと、全部は言い切れなかったと思いますが、十人十色の目線で今回の震災を見て考えて行動してきたことを、あの場で共有できたということは本当に貴重なことだったと思います。
◆本当は聞きたいことも沢山あったし、一人一人と意見交換してみたかったけれど、時間はぜーんぜん足りませんね。自分に頂いた貴重な時間も、伝えるって難しいな、と思いながら過ぎ去り、言いたいことの一割も伝わったんだろうか……。
◆今回の震災に直面して、何をやったか、どれだけ凄いことをやったか、なんてことよりも、今自分にとって本当に大切にしているものって何だろう? 自分が本当にやりたいこと、自分だから出来ることって何だろう? って、改めて自分と向き合って考えることが出来たことに価値がある気がする。
◆被災地へお手伝いに行ったり、色々議論したりを経て、やっぱり自分はアラスカ遠征に旅立つことにしました。自分とみんなが笑顔で未来に進めるように、自分なりの一歩を踏み出すつもりで。
◆な〜んて言ってる出発前日に、富士山で滑落事故を友人が起こし、搬送とヘリレスキュー対応してまして、やっとこさ一段落したところで江本さんからの報告者の一言書いてね、の電話をもらったのでした。相変わらず波乱万丈……では、行って来ます!(谷口けい)
■福島第一原発の事故によって、人間だけではなく動物たちも被害を受けています。人間優先、動物は仕方がないという意見も少なからずあるし、行政の対応もとても先進国とは思えないものなので、私をはじめ、動物のことを気にかける人は本当に心を痛めています。人間のほうは緊急性を脱した状況なのに、今、まさに命の危機を迎えている動物を、なぜ助けないのか。こうしている間にも、20圏内の動物はどんどん命を落としています。しかも、餓死という、一番苦しくつらい死に方で。ときには共食いまで。人間を信じて癒しの存在だったペット、家族の生活を支えてきた家畜たち。突然、大きく地面が揺れてびっくりしたと思ったら、人間たちが誰もいなくなってしまった…。
◆22日0時から原発20圏内に入れなくなったため(一部、入っている例もありますが)、多くの団体は20〜30キロ圏内や計画的避難地域に指定されている飯館村や川俣町、葛尾村、浪江町を巡回して放浪犬猫に給餌給水して命をつないだり(今の段階では積極的に保護できないそう)、ペットのいる家に、避難する際にペットを無料で預けられるシステムがあることを周知させる活動をしています。
◆計画的避難が終わったときに、その地域が20圏内と同様に入れなくなったら、また同様の悲劇が起こってしまいます。そうならないために、ペットの置き去りをなくし、一匹でも多くの命を救うために、保護活動をしているみなさんは必死に動いています。福島県の動物たちのために、遠くから来て自分の生活を犠牲にしてまで尽くしてくれる方々に、本当に感謝、感謝です。
◆私は自分が中心になって保護活動するまでの覚悟はなく、みなさんのお手伝いをするくらいしかできませんが、できる範囲で係わりながら最後まで見届けたいと思います。原発収束と同じく、まだまだ息の長い活動になりそうです。余談ですが、先日、東京の友人とスカイプで話していて、びっくりしました。「双葉町」という地名にまったく反応ないのです。「僕、地理に詳しくないし」とのこと。「第一原発があるところだよ」と言ってもあまり興味なさそうでした。東京の人って、そんなものですか?
◆福島県民としては、毎時発表される環境放射能の値に一喜一憂したり、原発の様子は常に気になるし、計画的避難地域のことも話題になっているし、災害は現在進行形だというのに。復興に向かっている岩手、宮城に比べ、先の見えない福島。ここに移り住んで6年。今までは縁もゆかりもないし、県外から来たよそ者意識でいましたが、この震災をきっかけに、福島県民として福島の将来を考えるようになりました。みなさん、福島を、どうぞよろしくお願いします。(滝野澤優子)
■災害(戦災)ボランティアと初めて呼称されたのが1980年のカンボジア内戦だった。それから30年、わたしの顔のひとつが災害ボランティアであることは誰も否定しない。災害ボランティアは緊急的な体制で行動するために、日常では別の仕事、別の顔で生きている。かつてはホールアース自然学校だった。今は地域を支援する全国ネットワークの日本エコツーリズムセンターだ。
◆でも、災害時に突如、「災害ボランティア」の顔が現れるわけではない。じつは日常の仕事も災害時も行動パターンに違いはあれ、同じベクトルとコンセプトで動いてきた。「即断即決・臨機応変・現場力・議論より行動」など災害時に求められる即応的な行動パターンは日常時には大人しくしているが、スピード感の違いを除けば、日常の仕事でも生活場面でも一貫して即断即決であり、臨機応変だった。それを可能にしてきたのが年季の入ったポジティブシンキングだろう。躊躇よりもまずトライしてみて、不味かったら改善する。これの繰り返しだ。わたしの生き方はつねにトライアルの連続だった。けっして結果など見えてはいないが、行動する必要を感じてすぐに動く。動いて初めて先が見えてくる。
◆災害ボランティアはけっして特別のスキルではない。特殊な用語も装置も要らない。むしろきわめて根源的、人間的な能力だと思う。それは人と人の出会い方であり、信頼を築き合う誠実な心で向き会うことに尽きている。権謀術数でもなければ、戦略でもない。RQ(「RQ市民災害救援センター」)の現場では無数のそんな気付きがボランティアたちからポンポンと生まれている。地平線の仲間も多く来ている。東北の三陸沿岸ではこれから長い時間をともに歩む仲間が必要だ。本来の自分に出会うためにも、RQの現地ボランティアにぜひ来て欲しい。(広瀬敏通)
■ゴールデンウィークが過ぎ、静かな時間が流れています。私たち“RQ市民災害救援センター(以下RQ)”は、三陸海岸の南、陸前高田から女川、牡鹿半島に至る約100kmの海岸線の被災地を支援してきました。このエリアをカバーする扇の要が登米市東和町にあるRQ東北現地本部です。3月20日に仙台から拠点を移して、わずか20名足らずでスタートしました。
◆先週のゴールデンウィークには、この最前線基地では登米現地本部に150名の他に陸前高田、唐桑、小泉、歌津、河北の各RQボランティアセンター6ヶ所合わせて280名に及ぶボランティアが集結しました。北海道から九州まで国内からはもちろん、ニュージーランド、オーストラリア、中国内モンゴル、インドなど海外からもボランティアが駆けつけてくれました。
◆ 被災地を離れた地域では、個人参加のボランティアは控えるようにという情報が多いと聞いていますが、実際は被災地ではボランティアが絶対的に足りないのです。被災した自治体やボランティアセンターを設置している社会福祉協議会自体が被災をしているので機能を果たせない状況があります。全国からたくさんのボランティアが来ると、適材適所に振り分けられない、配置できないのでしょう。それで、多くの自治体、社会福祉協議会はボランティアを断っているケースが多いのではないでしょうか。
◆民間レベルで様々なNGOやNPOが被災地へ入っています。現地の状況をしっかりと把握し、支援体制を確立しながら、多くのボランティアをコーディネートできる組織ではボランティアが不足している状況です。私がかかわっている“RQ”は、現地にいち早く入り情報を得ています。支援体制を状況に合わせて改善し続けてきました。毎日が改善、変化の連続です。
◆震災から2か月が過ぎようとしています。瓦礫の撤去も少しずつ進み震災直後と比較すると大分片付いてきています。GWの大勢のボランティアによる清掃作業はRQの組織力を見ました。伊里前小学校の校庭では一列になって這ってガラスの欠片をすべて拾い、通学路や神社などの浮遊ゴミをすべて拾い、地域の方々からもきれいになったと喜ばれています。
◆被災地では避難所生活が続き、仮設住宅の建設が各地で始まりました。いまだに避難所で生活せざるを得ない方々が20万人を超え仮設住宅も10万棟必要だと聞きます。生活環境の激変で将来へ不安を抱え生活の再建、復興へと歩みだしています。救援物資の支援から人と人の交流やリラックスするための支援へ移行してきました。マッサージやヨガ、音楽、落語などを企画したり、日常的には被災者と一緒にお茶を飲み(この地方では“お茶っこ”という習慣がある)話を聞く活動も広がりました。組織力のほかにボランティア一人一人の人間力が被災者の間に小さな幸せを生んでいます。
◆非日常の避難生活が日常化しつつあります。震災前の暮らしを取り戻すためにはまだまだ長い時間と多くの労力が必要です。日に日に報道も少なくなり、被災地とそ他の地域との温度差が大きくなってきていると思います。
◆GWが過ぎ大勢のボランティアが帰り、今日のこの静かな時間に不安を感じているのは私だけではないと思います。被災地はまだまだ多くの支援、人と人の交流が必要なのです。(佐々木豊志 くりこま高原自然学校)
■いま、三陸地方はとても美しい季節を迎えています。3月末に茶色一色だった田畑はぐるっと緑の草に囲まれて、木々は新緑の葉をつけて生き生きとしています。花も咲き乱れ、水仙、たんぽぽ、チューリップ、ムスカリ、菜の花、しだれ桃、山梨…と、黄色、白、ピンク、青の色とりどりの景色が目を楽しませてくれます。日差しも日に日に強くなり、海の色がまぶしいくらいに青いです。もらい湯に行った近所のお宅では、とれたての山菜料理をたっぷりごちそうになりました。
◆今日は5月10日ですが、4月の地平線報告会からもう20日ほどが過ぎたのかと驚きです。報告会の翌々日に登米に戻り、4月29日には法事で埼玉に帰り、その後もまたすぐに登米に戻って今に至ります。何をやっていたか思い返すと、GW前はGWに向けたボランティア受け入れ体制を総務チームで超特急で作っていたなあ。GWは29日から5月3日くらいまでが人数のピークで、オリエンテーションや各拠点への配置人数・移動手段、食・住・駐車場の問題、など良く乗り越えたとびっくり。
◆でも、ボランティアが増えて管理が大変になる一方で、新たな頼もしい仲間やアイディアが増えるので、いざとなると意外とうまくいくんです。内心、明日はどうなるかとヒヤヒヤものですが。その後は総務と兼務で隣の避難所担当にもなり、自分に何ができるか考えた結果、「お茶っこ」(お茶飲み)の場作りを頑張りました。
◆はじめは来る方もまばらでしたが、今はだんだん定着化してきて、今では30名ほどのおばあちゃん・おじいちゃんが、お茶を飲みお漬物をつまみながら話に花を咲かせています。こういった情報共有、お互いの気持ちを知る場は、避難生活にすごく大事だと思います。GW中に学生が中心になって作ってくれた「足湯村」も同時に引継ぎ、人手が足りない中、何とか運営しています。だんだんと距離が近づき、さっきは避難所の方々と飲んできました。
◆田んぼに向いた外の喫煙所が飲み会場になっています。カエルの声を聞き、涼しい夜風に吹かれながら、副区長さん手作りのウドの塩漬けをつまんで。冗談を言い合う中で、避難生活のこと、津波のことはもちろん、その方や地域の話もたくさん聞けてすごく濃い時間です。
◆昨日はある男性から、震災直後の3月11日〜13日に住人の方の安否を確認してまわったノートを見せてもらいながら話を聞きました。ノートには、その地区の方の名前や安否、避難先がなぐり書きで書かれていました。女性2名と一緒にあちこちを回ったそうです。大きなアリーナを見に行くときは、朝5時に出発して早朝に着くようにし、避難者が寝ていて動きだす前にそこにいる住人を確認したそう。山道もがれきだらけの道も、合わない靴だったから足の爪が真っ黒になり、女性がかわいそうだったとその方が言っていました。
◆「これが原点だ」と言いながら見せてくれたそのノートには、今も住人の方のために頑張っているその方のやさしさや強さがぎゅっと詰まっていました。「この人はまだ見つかっていない。この方は何日か後に遺体で見つかった…」ノートにある名前を指さしながら1人1人についての話を聞いて、途方もなく大きな震災だったけれど、やっぱり顔を向き合わせて支えていくことが絶対に大事なんだと改めて思いました。
◆お茶っこが軌道にのってきた昨日からは、今度はボランティアの人数が減り、いよいよ引継ぎが厳しくなってきた温泉送迎チームに参加。まだライフラインが復旧していない地域を回り、そこに住む方々を温泉へとお連れします。がれきの間のダートを走りながら、ここでも「あそこに家があった。お店をしていて…」とか、おばあちゃんの口から次々と出てくるお話に耳を傾けます。漁師町で、真っ赤に日焼けしたお父さん方もとても元気です。ほか、温泉送迎に使うバスで土日に避難所の子どもたちを遊園地に連れていく計画も、地元の方を中心に動いています。
◆RQはボランティア個々の個性や特技をなるべく活かそうとするから、チーム分けも運営も大変。でもすごく楽しい。ボランティアみんなが助け合っていて、本当に人のきずなを感じられます。ボランティア中毒(ボラ中)になり、また帰ってくる方もいます。ボランティア、ぜひ来てください。(新垣亜美)
■4月29日の慰霊祭。女川町では自衛隊の音楽隊が控えめに葬送曲を演奏していました。音楽は、人をどんなに慰めてくれることでしょう。読経が始まろうというその前に、心に染みいる音色が慰霊の丘に響き渡りました。目の前にはむきだしの墓標。お花が供えられているものもあれば、同じ名字が並ぶあまりにさっぱりした墓標も。時間が近づくと町のあちこちから遺族が集い「やあ、生きていたの」「よかったねえ」。ちょうど咲きかけた桜に「お花が送ってくれる、ありがたいことだ……」と涙ぐむ声も聞かれるなか、慰霊祭はしめやかにとりおこなわれました。
◆町のリーダーたちは、この四十九日で無理にでも区切りをつけて復興に動き出そう、と話していました。しかし翌日になっても遺体の捜索活動を止めることなどできません。捜索が続けられている間は、瓦礫を一挙に片づけることはできません。人にはどうしても、別れの時間が必要なんです。不明者1万人の重さが、浜を身動きとれなくしているのです。それが、近年の自然災害と大きく違うのだと、今回あらためて痛感しました。いったい、いつになったら動き出せるのか。
◆それでも、女川には未来を語るリーダーがいます。生き残った人たちで「漁業で生きてきた町だ。漁業が再興し、町が元気になるようがんばろう。これまで以上にいい町にしよう。県にも働きかけるぞ」という元気良い集まりが4月半ばに発足しました。10年かけて町を再興するための具体的なプランを立て、この5月から動き出しています。私は、この町が三陸復興のモデルケースになると信じて、これまで以上に通いつづけたいと思っています。5月21日、22日には、女川のかあさんと一緒に鯨汁の炊き出しを行うことも決めました。鯨は、女川や牡鹿半島の人にとってのソウルフード。一緒に作業することで、胸にしまいこんでいる思いを少しでも軽くする機会になればと願っています。
◆その一方で辛いのは常磐地域。いわき市は原発の20キロ圏外にも関わらず、早い時期から退避が求められ、避難、避難の連続で浜はバラバラの状態に。県漁連の資料でも、漁業者の生存1451、死亡41、不明62のほかに「未確認153」。これは? と聞くと、担当者や関係者が避難を繰り返しているため、しっかりと確認がとれないからとのこと。現状把握ができないなか、新たな状況が次々に生まれることに、いったいどう対処したらよいのか。対策を考えるベースとなる数字がない中で目の前の事態に対応するしかない、ということの連続。こんなことが起こるなんて、誰が想像し得たでしょうか。自治体や漁業団体にとっては、尋常ならざる力を出せ、といわれつづけているような日々です。
◆4月半ばから水産庁が浜に対して御用聞きに出向き、常磐は「船もある、人もいる。早くどこかで操業させてほしい」と訴えています。常磐の浜はまさに壊滅ですが、三陸のように数キロにわたっての壊滅ではありません。「海辺だけが壊滅」です。沖へ逃げて無事の船もあります。福島県登録1172隻のうち、使用可能な船が368隻。すぐに操業できる漁師も大勢います。なのに、放射能汚染のために漁ができない、という苦悩。常磐と三陸を一緒に論じることはできません。まったく違う状況であり、立ち位置そのものが違うのです。
◆いま、私たちの会には、建築家やメーカー、市民団体、学生さん、アーティスト、シルバー世代のおじさまなど、さまざまな人から三陸とコンタクトをとりたいとご相談が寄せられています。みな、なにかをしたいと熱く思っているのは間違いありません。しかし、受け入れ側に準備も余裕もない、という状況。いまできることは、ゆっくりと関わりつづけること、と話しています。日々かわっていく浜を見続け、声を聞き続け、声がかかればすぐに動ける態勢でいよう。これがいまの私自身です。(佐藤安紀子)
■4月22日の報告会の最後にお話しさせていただいた西牟田です。当日は尻切れとんぼになってしまったので、見てきたことの経緯をここに紹介させていただきます。
◆前号の地平線通信に寄稿した3月末の時点では「日常生活を淡々と送ることこそが大事だ」と思い、その通り実践していました。とはいえ精神はニュースによって絶えずさざ波が立っていました。特に不安を抱いたのが原発事故関連のニュースです。うちに1才にもならない赤ん坊がいることもあって原発事故関連のニュースには強い関心を抱いていました。放射線量の数値は大人ではなく赤ちゃんへの影響を基準にして考える癖がついてしまい、今までの僕からは考えられないようなナイーブさで放射能というものを捉えるようになっていました。
◆3月末、ウクライナ製のガイガーカウンターを手に入れてからは、動き方、考え方が変わりました。身の回りの放射線量を計測していると、放射能に対して抱いていた不安をもう少し客観的に見つめることができるようになり、「これから放射能とは長いつきあいになる。だったら積極的に放射能を知るべきじゃないか」と開き直れるようになりました。
◆そうした気持ちが高じ、4月6〜8日に福島を取材することにしました。ほとんどが30キロ圏の外にあるにもかかわらず高濃度の放射線量が計測される飯舘村、30キロ圏内にあるにも関わらず放射線量が低い南相馬市原町地区。20キロ地点にある復旧作業最前線基地Jヴィレッジ、その敷地すぐ外にあるリトル山谷と言いたくなる労務者の仮設住宅街など。
◆飯舘村では何人かのお年寄りに会いました。マスクもせず自転車をこいでいたKという男性は「オレはもういいんだ。歳だから放射能はあまり関係ねえ。家が一番。これからも村に住む。どこにもいかねえ。出稼ぎで北海道、東京、名古屋って行ったし、もういいんだ」と言いました。遺言と受け取れなくもない、Kさんの悲壮な開き直りに胸が破裂しそうになりました。5月末までに村から立ち退くように説得されるはずですが、それでもなお故郷に居続けるのかもしれません。
◆30キロ圏内に位置する南相馬市原町は放射線量が低く、ライフラインはすべて問題なし。なのに屋内退避区域に設定されていることで、生活面で不便を強いられていました。家の中にもんもんと待機し続けるのは大変です。飲み屋に行くと、気晴らしをする為にやってきた客で賑わっていました。彼らに話を聞くと、何らかの形で原発と関わっている人たちばかり。昨年、定年を迎えた関連会社の専務、原子炉建屋を管理する関連会社社員、原発関係者を相手に飲食店を営んでいたコックなど。原発とともに生きてきた人たちだけに、事故によって自分の家や仕事を失ってもなお、彼らは原発にNoと簡単には言えないようでした。
◆一度戻ってきてから、4月21日に再び出かけました。その日の朝、新聞で「明日の0時から避難区域が警戒区域に指定される」という記事を読み、すぐに身支度をして新幹線に乗って郡山まで行き、そこからはレンタカーで20キロ圏内に入ってきました。
◆国道を走っていると、さすが最終日だけあって、家財を運んでいる車が目立ちました。国道はときおり地割れしていて、はまって立ち往生している車もみかけました。避難区域の道路は直されずにそのままになっているのです。走行中、ずっと放射線量を測っていましたが、ときおりどっと数値が20-30倍に上がる地点がありました。原発とその地点を結んだ延長線上に高濃度の放射性物質が流れているのでしょう。
◆警戒区域設定の前日だということで僕のような報道関係や住民のほかに、20キロ圏内に入り込んでいる人たちがいました。ペットレスキューの人たちです。原発から4キロの双葉駅にはペットレスキューの車が集結していて、頭が下がりました。その中には滝野澤優子さんがいました。町はところどころ建物が崩れています。それが地震の為なのか、それとも住民が避難した後に略奪されたのかは判別しかねました。
◆その後、原発の正門まで車で行ってみました。入口には防護服にガスマスクをつけた職員が4人いて、背後には満開の桜が見えました。職員は30代大卒といった感じで、警備会社から派遣されたアルバイト警備員という感じではありませんでした。「放射線量を測りたいので車を降りたい」「お帰り下さい」「ここって一日何交代なんですか」「お帰り下さい」。話しかけると禅問答のようなやりとりになりました。警備員は恐怖に耐えるためあえて感情を押し殺しているのかもしれません。
◆印象に残ったのは双葉駅の駅前通の端にある「原子力 明るい未来のエネルギー」と書かれた看板です。この標語は今回の事故で、過去の遺物になってしまいました。原子力エネルギーがもたらした被害を思えば、明るい未来が開けるだなんて、おめでたいことを考えることはもはや不可能になったように思います。(西牟田靖)
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