■天野和明さんは、報告会の前々日(2月23日、富士山の日)に34歳になったばかりの若手先鋭クライマー。8000m峰を6座登頂、世界的な賞も受賞している。通信371号では、恩田真砂美さんが「海外の若手クライマーにとって、憧れの対象でもあるようだ」と書いている。そんなすごいクライマーだから、報告会は始終ヒマラヤ高峰でのクライミング話に花が咲いて…とはいかないのだ、これが。まず大学山岳部時代の話で大いに盛り上がり、さらに話は日本の亜熱帯無人島調査まで広がるという、何とも内容豊かな2時間半になった。
◆山梨県の小さな村で生まれ育った天野さん。木登りや秘密基地づくりといったスリリングな遊びの延長で、他の子どもがサッカーや野球に興味を持つのと同じように登山に興味を持つ。1996年、明治大学へ進学し山岳部に入部。憧れだった植村直己さんの後輩になり、「いつか真剣にやろうと思っていた」山登りへの一歩を踏み出した。
◆明大山岳部の古風でユニークな伝統が面白かった! 装備は、あえて旧式のものを使う。キスリングザックもウェアもテントも、特注品。家型の三角テントは生地が厚くて頑丈だが、雨を吸うのでものすごく重い。1、2年生が着るウェアは、ビニロンの生地を吉田テント(株)(日本の歴代海外遠征を支えてきた登山装備の老舗メーカー)に頼んで作った。ちなみに3、4年生になればナイロンのウェアを着ることができる。靴も上級生はプラスチックの2重靴だが、下級生は冷たい革靴にオーバーシューズ。さすがに現在の山岳部はこんな装備は使ってはいないそうだが。
◆3年生になるまでは、ザックやウェアに「明大」の文字を入れることはおろか、明大山岳部を名乗ることも許されない。また、下級生は合宿中、4年生のザックに触ってはいけない(あまりに軽くて理不尽さを感じるから)。テントは奥から偉い順にOB、4年生、3年生…と場所を占め、入口に近い1年生はすごく寒い。予備日を含めて30日間という冬山合宿計画もあり、先輩に「成人式も、学期初めのテストもあきらめてくれ」と言われたこともあった(結果的に早く下山でき、両方大丈夫だった)。
◆面白くも厳しい伝統には理由がある。明大山岳部は「人はもともと弱い」という考えのもと、チームワークを重視した活動をしているそう。山は体力や技術がある人にもない人にも同じ条件を強いてくるから、自分が努力して強くならないと山に負けてしまう。だから、特に一番弱い1年生をより強くしてあげようという…「ありがたい考えです」。会場から笑いが。天野さんにとって山登りに費やした大学時代は、今も強烈な印象を残すほど充実した日々だったに違いない。
◆2001年6月、卒業してすぐにOB会でヒマラヤ登山へ。初めての海外登山はパキスタンのガッシャブルムI峰(8068m、世界11位)とII峰(8035m、世界13位)。ここで大きな衝撃を受けた。約100日間、隊員6人分の荷物を運ぶのに、総勢200名ものポーターを雇う。日当は約600円。たかが23歳の若造が、山に遊びに行くために100万円近いお金を出し、この人たちはそんな自分のために荷物を運んでくれている。海外にまで来て山登りをする意味を考えさせられ、極限の贅沢だと思った。
◆ナーバスになったが、登山が始まると集中して2峰とも登頂に成功。と、さらっと言うけれど、すごいことだ。高所に強い体質なのだろう。酸素は使いたくなかったが、未経験者ということもあり、先輩の指示に従ってアタック前夜の睡眠時のみ使用。山で酸素を吸うと、医学的には高度を1500〜2000m下げると言われている。楽になるが、それではあえて高い所に登る意味が見いだせない。「僕は高い山に行くのが好きですが、やっぱり高いから好きなんです」。子どものころ宇宙飛行士に憧れていたこともあり、山では空気の薄さや濃紺の空など、星や宇宙に近い感覚を味わえるのが好きなのだという。
◆翌年OB会でネパールのローツェ(8516m、世界4位)に行く際は、無酸素で登りたいと申し出た。同じ8000m峰でも、8500mを超えるとわけが違う。酸素の薄さはあまり変わらないが、危険地帯に長時間滞在することが大きな負荷になるのだ。ゆえに高所登山で重要なのはスピード。早く登って早く降りるだけの高所順応できる力と体力が欠かせない。初めての高度で不安もあったが、目や手がしびれながらも登頂した。
◆2003年はアンナプルナ(8091m、世界10位)へ。OB会で8000m峰14座を全て登ろうというプロジェクトがあり、1970年に植村さんが日本人で初めてエベレストを登ってから、残すはこの山のみになっていた。遭難率が非常に高い危険な山だ。その南壁を見た天野さんは「恋するくらい美しい!」と思ったそう。途中、荒天でBC(ベースキャンプ)に避難している間にテントが3mも埋もれたが、2日間かけて掘り出した。「粘り勝ちです。」明大山岳部OB会は足かけ33年、1人の死亡者もなく8000m峰全14座登頂を成し遂げた。
◆次に天野さんが選択した道は、先鋭的と言われるアルパインスタイルだった。それは、酸素を使用したり危険個所にフィックス(固定)ロープを張ったり、荷揚げをポーターに手伝ってもらったりといった今までの大がかりな登り方とは正反対の、できるだけモノを排除した軽量でスリムな登山スタイル。そうすることでリスクは高まるが、スピーディーさで安全性が高まる面も。その妥協点は自分たちで探りながら登る。「大学山岳部の延長だけでなく、向こうには向こうの登り方があるのではと思った。経験を積んで自分に足りないものを増やし、理想の自分に近づいていきたかった」。
◆ここで編集されたムービーが。タイトルは「GIRI GIRI BOYS ヒマラヤ アルパインスタイル 苦しみの芸術」。ビートのきいた音楽にのせて、国内外でのアルパインクライミング風景が流れる。猛烈なスノーシャワー(チリ雪崩)や夜中の登攀、谷から湧いた雲に飲み込まれていく山々。テントやトイレまで垂直の壁の中。まさにギリギリ、息を呑む光景だ。「常に不安な気持ちが心の大部分を占める。これ以上行ったら下れるか、頂上まで行っても帰ってこれるのか、天気は持つか…。その不安要素を受け入れるのがアルパインスタイルとも言える」。そうか、何かを捨てる(あるいは断つ)ことで目の前のものを受け入れ、前に進むという考え方は、登山の話に限らず何だか人生っぽいなあ。
◆トレーニングを重ね、2006年には先輩の加藤慶信さんと2人でチベットのチョー・オユー(8201m、世界6位)、シシャパンマ(8027m、世界14位)に登頂。二人は山梨県出身で山頂では“風林火山”の旗を掲げるのが恒例だ。その後、一村文隆さん、佐藤裕介さんの計画に乗る形で「ギリギリボーイズ」というユニットを組み、2008年、未踏のインド・カランカ北壁(6931m)へ。壁の傾斜がきつくテントを張るスペースがないため、毎日氷を削って3人寄り添って寝る「お座りビバーク」。途中5日間嵐に捕まり停滞したが、偶然にも洞窟状の場所(「ホテル カランカ」と名付けた)を見つけたことでやり過ごせ、登頂に至った。
◆2009年には、同じメンバーでパキスタンのスパンティーク北西壁(7028m)へ。雪崩にあいながらも再トライし、結果的に無事登頂。ただ、いつも反省するのは、登山は結果論では語れないということ。行けたのはたまたまであって、それをずっと期待していると痛いしっぺ返しをくらう。登山の難しいところは、間違ったことをしても何とか行けてしまうことがほとんどなので、勘違いする人が出てくること。山の怖さを知らないのは危ないことだ。ちなみに天野さんがこの山に挑戦している最中、信頼する先輩、加藤さんがチベットのクーラカンリ峰で雪崩にあい亡くなった。山では一歩違えば、死は本当にすぐ隣で待っているのだ。
◆2008年のインド・カランカ北壁初登攀が評価され、ギリギリボーイズは登山界のアカデミー賞と言われる「ピオレドール(黄金のピッケル)賞」を受賞。登山は競技ではないため、ナンバーワンを決めるのではなく、広く世の中に紹介するという意味での賞だ。受賞しても生活で大きく変わったことはなく、それでいいと思っている。登山は誰も見ていない所で自己満足するだけなのに、賞の影響が大きいと嘘の記録を出す人がでてきたり、山に行く本来の目的がずれてしまいそうだから。
◆ここで報告は意外な方向に進む。「せっかくだから紹介したい」という話の舞台は、小笠原諸島の南硫黄島。ヒマラヤの氷の世界から一転、日本の亜熱帯にある孤島へ!? 天野さんの世界の自由さに、聴衆はびっくり。2007年、天野さんは小笠原諸島の世界遺産登録を目指して東京都が行なった南硫黄島調査をサポートをした。人が住んだ記録のない南硫黄島は、動植物が独自の進化を遂げている可能性があるため、全域立ち入り制限がされている。そんな研究者でもめったに入れない島に、25年ぶりに上陸許可が出たのだ。
◆島が急峻なため、天野さんは調査隊が岩場を上り下りする際のロープを張ったり、荷物を運んだりといった仕事を任された。総勢18名、1週間の調査は新鮮な体験の連続だった。島の生態系を壊す外来生物を持ち込まないよう、荷物はアリの子1匹入りこまないよう厳重な管理がされていたり。上陸前の3日間はトマトなどの種ものは食べるなと言われたり。これは種が便にまざって排出され、島でトマトが生えたら大変だ、ということで。もちろん出したものは持ち帰りだが。島までは東京から船で25時間、そこから漁船で17時間。最終的にはゴムボートで島の近くまで行き、泳いで上陸、崖と海の間のわずかなスペースにテントを張る。動植物も初めて見るものだらけ、道なき道を開拓していくのはまさに探検気分。翌年には北硫黄島調査にも参加した。
◆「人生、好きなことをしたほうがいいです」と語る天野さん。今後も登山だけでなく、また新たなフィールドでも活躍されそうな予感がする。自由に人生を展開させていく姿は、とても輝いてみえた。(新垣亜美)
■地平線会議には前々から興味を持っていたし、江本さんに何度かお誘いされていた。でもその都度予定が合わなくお邪魔できないでいた。それにマニアックな変わったことをしている人たちの集まりといったイメージがあり、実にまともなこの僕が(笑)、話すことなどないのではないかと思っていたのだ。
◆今回話をさせて頂くにあたって、一度その会議の「報告会というものの雰囲気を見ておきたいと思って、2月の関野吉晴さんのお話を聞きに行きたかった(関野さんの話だけでも非常に興味があった)が、これも仕事の段取りが悪く行けずじまい。
◆さて当日。どれくらいたくさんの人が来てくれるのかと思っていたら、会場がほぼ埋まっていたので驚いた。たまに頂く講演などの機会では、あれもこれもと欲張っていつも時間が足りなくなってしまうのだが、今回もまた然り……。
◆冒頭の明大山岳部時代の話は、まあちょっと前時代的な話だし、分かる人もいないしと思っていたら、なんということだ、ちょっと?年配のキスリングやビニロンヤッケなどを使っていた人たちがいたためにサラッと流そうと思っていた明大山岳部話を、かなり突っ込んでしてしまった。あ〜、時間配分が……。
◆その後は卒業後のドリームプロジェクト、ヒマラヤ登山8000m峰の話。そして転機になったアンナプルナ南壁、そしてアルパインスタイルへの流れなどなど。登山の本質的なことやリスク、アルパインスタイルの意味やこだわりなど、なかなか理解してもらいにくいことであったが、皆さんがかなり真剣に聞いてくれたこともあり、かなりの部分が伝わったと思う。
◆そして「南硫黄島」「北硫黄島」の話。正直ヒマラヤの話なんかは、色々なところで聞けると思うが、特に南硫黄島の話は他では絶対に聞けないはず。ということで「東洋のガラパゴス」南硫黄島の話はぜひしたかった。オガサワラオオコウモリ以外の哺乳類がいない夢の島、島が誕生して以来人間の影響を受けていない貴重な島。鳥と植物の島。道なき道を開拓する喜び。見るものすべてが南国冒険気分で実に楽しかった。
◆北硫黄島は南と比べたら、やはり戦前までとはいえ人の匂いがしたけど、それでも素晴らしかった。登山者としても南硫黄島は第3登、北硫黄島は戦後初登頂と、ともに山頂に立つことができて非常に楽しかった。
◆ 新垣亜美さんがまとめてくださったレポートも的確に僕が話したことをとらえていて、すごい! たいてい山、特にアルパインスタイルとか超マニアックなジャンルに関する山登りについて話をしても、専門誌のライターが書いてくれた表現でも「ちょっとそこは違うんすよね〜」なんてことはよくあるのだが、新垣さんは実に頭のいい女性なのだと思う。
◆山に登る、そのことに関して生活し、人生が形成されているが、心から傾倒できるものに出会えたことは実に幸せなことだと思っている。不安もリスクもあるけれども、それ以上に楽しみもある。「人生ってなんて素敵なのでしょうねぇ!」(天野和明)
■天野和明さんの話を聞いて、極地法の登山からアルパインスタイルへ、組織で登るスタイルからギリギリボーイズでの先鋭的な登山へ、といった山に対する考え方の変化がよく分かりました。一人も死者を出さなかった組織的な極地法登山、よりシンプルな登山を目指すアルパインスタイル、どちらが優れている訳ではないことも納得させられました。ご本人の生の声を聞くことは価値があるなと思いました。
◆なかでも天野さんが黄金のピッケル賞に選ばれ、それを受賞されたお話で「山登りは評価できるのか?」という問いにはとても考えさせられました。天野さんがあこがれたという植村直己さんの時代、「8000メートルに初登頂」や、「北極点に徒歩で到達」など、記録が分かりやすく、聞くだけですごいことだと納得させられ、あこがれを抱くことができました。ところが最後の8000メートル峰が登頂されて47年もたち、世界から未踏の地は当然どんどんなくなっています。しだいに登山や冒険が、結果だけでなく、その中身が問われるようになりました。
◆今回の講演で天野さんが2003年ごろからアルパインスタイルに関心をもち、「誰も見ていなくても、登りたい登山をするようになった」と話していらっしゃったのが印象に残りました。14サミット全登頂を目指す、竹内洋岳さんに以前お聞きしたとき「これから登山はより個人的なものになるでしょう」と話していました。記録のための登山より、もっと困難な山や壁への挑戦、困難なスタイルへの発展など「無名の記録」の方が意義が大きいことは確かです。ただ、あまりに登山や冒険が分かりにくくなると、ぼくをはじめ登山家の話を聞く一般の人にとって、専門的で難しい世界だなと感じることがあります。なんだか山や冒険の魅力を伝えてくれる人が少しずつ遠くにいってしまうようにも感じます。
◆植村さんの魅力は、数々の記録もさることながら、登山家や冒険家ではない多くの人の心をつかんで、多くの人をそれぞれの山や冒険にいざなったことだと思います。記録が大切だ、といいたい訳ではありません。むしろ最近の「記録」には理解に苦しむものもあります。
◆エベレストの最年少登頂記録は13歳。脅威的な記録なのでしょうが、あまりに過熱すると、安全を無視した無謀な挑戦と捉えられなくもありません。また、去年は14座登頂の韓国人女性クライマーの記録の信憑性が疑われました。なんだかすっきりしない印象が残っています。天野さんは「登山は競技ではないことはあきらか」「二つの登山を比べてどちらが優れているとは決め付けられない」とおっしゃっていました。
◆ただ一方で、明らかに優れた登山がある、すばらしい冒険があるのもまた、確かだと思います。これからの時代、それを伝えるのは、登山や冒険に対する賞なのでしょう。日本ではたとえば植村直己冒険賞がそれだと思いますし、天野さんたちの受賞で、黄金のピッケル賞が日本に紹介されたと思います。これからの冒険家は、個々の記録だけでなく、今後こうした賞によって評価され、次の冒険家のあこがれになっていくのかな、と思いました。(今井尚 『旅と冒険』発行人)
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