■あと一息の沖縄のゴール目指して、いよいよ縄文号も再始動! 「当然、今回は出陣前夜の決意表明でしょ」と思っていたら、1月のテーマは何と『漂海民』。「関野さん、それは道草? それとも浮気?」の気分のままの、会場到着となった。
◆「海に杭を打って船を泊めたら、動き出して、朝、別の場所に来ていた。エイの鼻に刺さっていたのだ」 補助イスまで並んだ報告会は、そんなバジャウ(バジョ)の流離伝承で始まった。研究者によって10万人から100万人まで開きのある彼らは、現在、セレベス海周辺のフィリピン南部からサバ、スラウェシの一帯に住んでいる。歴史的にもマレー半島から右回りや左回りで広がってきたが、「バジャウは一番平和的な人々で、支配されても、人を支配したことがない。
◆この辺りは今も海賊が出没するが、いつも犠牲者だ」そうで、70年代にマルコス政権とモスレム勢力の間で起きた武力衝突の際にも、戦闘を逃れて各地に散った。今では殆どが国籍を取り、陸上や杭上家屋で定住生活を送っている。家船を持っていても漁に使うだけ。「他のエリアも探したが、出産や結婚式を海上で行う漂海民は、私が出会った16家族103人が世界で最後かも知れない」という。一か所にジッとせず、海を移動するので、捜すのも苦労するが、彼らの家船は見れば判る。女性を乗せ、洗濯物が干され、生活感に溢れているからだ。
◆バジャウの漁場は珊瑚礁の中。たくさんいる「エイに似たサメのような魚」(関野さん)は、針に掛かったところを銛で仕留め、大潮の時には350mの刺し網漁も行う。小さな魚は逃がし、売れる魚を選り分けて仲買人に売る。売り物にならないが食べられる魚だけ、漁に出なかった家族も含めて分配する。内臓を取って開き、一晩塩漬けにしたナマコや魚、フカヒレは、船上で日干しにする。
◆結婚式まで家船で開く彼らだが、水と燃料(主に流木)の調達、そして披露宴は島に上陸して行う。井戸のオーナーの了解を得てポリタンに水を詰め、ボッコ(小舟)に積んで家船に運ぶ。洗濯もここで済ませる。島には漂着物が多く、その中から履き物など使えるものも手に入れる。
◆海が相手の人たちは、普通は男女の役割も分かれている。女は家を守り、船に乗らない一方、男は台所に入らない。けれどバジャウではその差が殆どなく、女子供が逞しく舟を漕ぎ、大概の事を男抜きでやってのける。「それは浅い海と深い海の違いだ」と関野さんは云う。危険に満ちた外洋とは違い、珊瑚の海はサオで移動できるほど浅く、荒波による沈没よりも座礁が怖い。女が船を操っても、まず事故の心配はない。
◆そんなバジャウと一緒になった、日本の女性がいる。マブル島のOさんだ。大阪でOLをしていた彼女は、観光で訪れるうちに、「ダイビングのインストラクターをやらないか」と誘われて定住。やがて彼と知り合い、自身も改宗(島のバジャウはイスラム)して結婚した。でも、なぜバジャウの人と? 彼女に興味を持った関野さんは繰り返し訊ねた。が、返ってくるのは「自然の中で暮らすのが好きだから」のベタな答。「日本にだって自然はあるじゃないか」と突っ込んでも、「それもそうね」の一言だった。
◆「私は、『人がなぜ移動するのか』に関心があるんです。それは『なぜ旅をするか』や『なぜ山に登るのか』とは全然違って、『そこに住みに行く』のは、全く違う文化に自分を放り込んで、なおかつ、そこで骨を埋めるということです。そんな大変なことを、特に現代の人がバジャウの人となぜ行うのか…」と関野さん。出した結論は、「やっぱり決定的なのはダンナだろう」だった。
◆実は、関野さんは以前にも同様のケースを目にしている。十数年前、カヤックでベーリング海峡を渡ろうとした時のこと。セントローレンス島の、同じエスキモーでもシベリアに近い「ユーピック」と呼ばれる人々の村で、偶然、日本の女性がセスナ機から降りてくるのに出会った。「鯨を獲っている、面白い島がある」 そうフェアバンクスで聞いて飛んで来た、ごく普通の観光客だったが、後にそこで地元の男性と結婚して住み着いた。なかなか結婚の理由を明かさないOさんに「こんな人もいるんですよ」と関野さんが話すと、「えーっ、そんな変わった人がいるんですか?」という意外な反応が返ってきた。
◆「自分では『変わった人』と思ってないんです。ユーピックのあの人も、多分、思ってない。自然の流れで、そこに行ったらそこの男の人を好きになり、子供を作って居ついたんでしょう」 マレーシアの永住権がないOさん夫婦には、子供を公立学校に通わせられず、気の弱そうなダンナは心臓も弱い。おまけに彼の商売がパッとしないので、机に貝殻を並べて売るOさんの稼ぎが一家の支え、なのだ。
◆舞台替わって、スライドはフロレス諸島のレンバタ島へ。銛を構えて飛び込む、ラマレラの勇壮な鯨獲りで知られるここも、動物保護団体から「ホエールウォッチングのエコツーリズムで生きるように」と迫られているという。ツーリストを乗せて得られる10ドルは、漁の日収の300〜800円に較べると大きい。しかし、島は鯨の大きな回遊コースの一角に当たっているに過ぎず、捕鯨も年に30頭獲れれば良い方で、常に鯨が見られる訳ではない。
◆その島で、最近、大きな変化が起きた。3年前までは、毎朝20数隻が出漁し、鯨が見つからなければマンタを獲って戻っていた。それが昨年7月の訪問時には、出かけるのが夕方となり、翌朝に帰ってくる。実は政府から網を貰い、それを張るとイルカやマンボウ、マンタが確実に入るのだ。だから、鯨は陸から見えた時だけ獲りにゆく。海の上での一泊(一往復分の油代節約のため)の疲れ、あるいは獲った魚介の処理もあって、毎日は出られない。皮肉なことに、動物保護団体の圧力ではなく、網の威力が鯨獲りを衰退させたのだ。
◆ラマレラには一昨年に電気が、昨年はケータイが入り、どんどん変化が進んでいる。以前はパンダナスという植物を編んだ帆で走っていた船も、すっかりエンジン船に取って替わられた。「帆で旅すると判るが、どっちから風が吹いても、エンジン付だと予定通りに行って帰れる。風任せでは獲物がいる方へも行けない。油が値上がりしても無理して買い、もう帆船には戻れないだろう」と関野さん。そして、「マッコウ鯨は絶滅の心配はないが、伝統的な捕鯨は消えてゆく」と将来を予測する。
◆16家族の一人ビガガさんも、今はケータイを持っている(すかさず、「ここから掛けようか?」の江本さんに、「もう寝てますよ」と関野さん)。ケータイはバジャウの生活を大きく変えた。家船がバラバラに散っても互いの位置の確認ができるし、病人が出たら、すぐシャーマンを呼べる。音楽好きで声の良いバジャウは、ボッコを漕ぐ時も即興の歌詞で歌うという。音楽が聴けるケータイは、そんな彼らの楽しみにもなった。そして、その普及の経緯も、彼らの境遇を物語っていた。
◆昨年、16家族は、時々行く島で警察に呼び集められ、逮捕されてしまったのだ。このバルバック島は、島民の半数がインドネシア国籍を取ったバジャウながら、過去に3度も海賊に襲われた経験から、他所者に対して警戒心が強い。同行した関野さんまで写真と調書を取られ、一晩拘留された。無国籍のバジャウたちは、さらに車で5時間の内陸へ連行され、建物に閉じ込められたと云う。この一件は、さすがに人権団体などでも問題となり、1か月後に全員が解放された。そのリーダー格の2人に、万一に備えて、彼らを庇ってきた村長がケータイをプレゼントした。
◆現地でケータイは約3000円。生きた魚が200円、シャコ貝なら1kgが1000円で売れるから、割と簡単に手が届く。それで皆がワッと買った。ただし、3000円では防水機能もなく、海に落とせばダメになる。もちろん、家船に電気は通っておらず、ラジオもない暮らしから一足飛びのIT化。充電は、必要本数の単一電池を直列に繋いだ、ローテク技術だった。
◆「我々の方が漂海民だ。エンジンはないし、コンパスやGPSを使うのと同じだから、海図も持たない。ただ、100万分の1などの地図は使う。一世代で1つの島を渡ればよい彼らとは違い、我々には目的地があるから」 それまでは淡々と、しかし、温かな思いの籠った口調でバジャウを語ってきた関野さんが、最後に縄文号の近況に触れた時、少し語気を強めて云い切った。「板子一枚、下は地獄」という。のどかな珊瑚の海に浮かぶバジャウの家船も、その下では社会変化や政治力学の潮流が複雑に渦巻いている。いや、彼らだけではない。我々だって同舟だ。海図すら無意味になりつつある時代に必要なのは、バジャウが見せるプリミティブな信念、そしてOさんたちのような、未知の世界へ怯むことなく飛び込んでゆく度胸かも知れない。(久島弘)
報告会で話し忘れたことをいくつか書きます。報告会では、バジャウがとても平和的な民族であることを話しました。いつも支配され、人を支配したことはない。いつも海賊の餌食にされて、襲うことはない。そんな弱い人たちが何故今まで厳しい環境の中で生き延びたのかを説明しませんでした。
彼らは船を持っているので、いつでも、どこへでも行けます。海の上では誰よりも自由に移動できます。そのフットワークの良さが彼らを生き延びさせたのでしょう。
独立する前、バジャウの活動するフィリピン、マレーシア、インドネシアでは国民国家はなく、たくさんの王国が散らばっていました。バジャウはその王様に「何でもしますから、私たちを庇護してください」と頼み、王が「……に行ってナマコ、サメ、エイを取ってこい」と命じれば、どこへでも出かけていったのです。
しかし、王が圧制を加え、無理な要求をする時、彼らの本領が発揮されます。他の民族だったら抵抗して、場合によっては滅ぼされます。ところが、バジャウは得意のフットワークを使って、すたこらさっさと逃げ出すのです。そして新しい王様を見つけてその庇護の下に入るのです。弱くても、そんなしたたかさで海賊や、海賊、山賊の親玉の作った王国に潰されずに、生き残ったのだと思います。
かつて、インドシナとインドネシア、マレーシアはくっついていて、大陸を形成していて、スンダランドと呼ばれていました。アジア人の原郷とも呼ばれ、とても住みやすいので、多くの人が集まってきました。すると人口が増えます。その土地では養いきれないほどに増えすぎると、誰かが出ていかなければなりません。また氷河期が終わり、海表面が上がると、スンダランドが水没していき、インドシナと島々に分離されました。その時、誰が出ていくのでしょうか。おそらく弱い人たちです。
バジャウのように、弱くてもしたたかに生きのびた人たちもいましたが、多くの弱い人たちは、滅ぼされるか、他の地に逃げ出したと思います。
私は一昨年より、インドネシアからマレーシア、フィリピン、台湾経由で日本に向かって航海しています。先史時代にスンダランドから日本列島にやってきた人類と同じように、手作りで、自然素材だけでカヌーを作り、風とオール、パドルだけを頼りに、南風の吹くシーズンだけを利用して、ゆったりと進んでいます。その途中で、偶然家船生活をするバジャウと出会ったのです。
私は何世代もかけて島伝いに海を通って日本列島にやってきた人たちも、きっとバジャウのように弱かったが、バジャウのようにしたたかに生きられず、追い出されたグループだと思っています。
今回の報告会終了後、「人は何故移住していったのか。教えてください」と尋ねられました。私は立ち話で、そんなに簡単には話せないよ」と答えましたが、ここで簡単に説明させてください。
私は10数年前までは、人類拡散の動機は「あの山の向こう、あるいはあの海の向こうには何があるのだろうか」という好奇心及び「あの山の向こう、あるいは海の向こうはもっと住みやすいところではないか」という向上心ではないかと思っていました。ところが南米の最南端のナバリーノ島に行った時に、それだけでは説明できない事実に出会ったのです。
アフリカで生まれた現生人類がアフリカを出て世界中に拡散していきましたが、その中で一番遠くまで行ったのがナバリーノ島に住む先住民ヤマナの先祖たちです。もし人類の移動、拡散の原動力が好奇心や向上心だったとしたら、ヤマナは最も新種の気鋭に富んだ、好奇心と向上心の権化のような人々のはずです。
しかし実際は南米大陸から突き出された弱い人たちでした。南米大陸ではグアナコやアメリカダチョウのような狩猟の対象になる動物がいます。そこでも人口が増えると、その人口圧でマゼラン海峡の南にあるフエゴ島に突き出されるものがいました。そしてフエゴ島にも狩猟の対象になる南米大陸と同じように動物がいたのです。
フエゴ島で人口が増えると突き出された者たちはビーグル水道を渡ってナバリーノ島に着きました。その島には狩猟の対象になる大型動物はいないので、ほぼ無尽蔵にあるムール貝に似たムラサキイガイ、ホタテガイ、ツブガイなどの貝類、タラバに似たチリイバラガニ、海性哺乳類のオッタリアなどを獲って暮らしました。
同じ例は他の地域にもたくさんあります。ラオスの山中に住むモンは元々は米の原産地と言われる長江の下流域に住んでいましたが、戦乱に明け暮れる春秋戦国時代に追い出され、あるいは逃げ出して、ラオス山中に隠れ住みました。同じ時代やはり戦乱を嫌って、日本列島に向かった者たちがいました。それが渡来人たちです。現生人類が5-6万年前にアフリカを出たのも、人口圧によって押し出されたため、という研究者もいます。
押し出された弱い者たちのなかで、新しい土地に適応できずに滅んでしまったグループも多かったことでしょう。しかしフロンテイアの土地で、パイオニアとして自分たちの創意工夫で、新しい文化を形成し、適応した人たちもいたのです。
興味深いのは追い出された者たちが、常に弱いままではないということ。追い出された者たちが経済面でも軍事面でも、追い出された者たちを圧倒することも多い。中国で北に追いやられたモンゴル人や女真人が漢人を追い出して、元や清を建国しました。日本列島にやってきた人々も様々なルートから来ましたが、もうこれ以上東には行き場のないどん詰まりです。ここに旧石器時代から人類が住み始め、縄文文化を作り、渡来人がやって来て弥生文化を作りました。縄文人と弥生人は混血し、やがて日本人が形成される。その後現在に至るまで、外から日本への移住は続いています。様々なルートで突き出されてやって来た日本人ですが、一時は経済力と軍事力を蓄えて、アシアを制覇する勢いを持ちました。
スンダランドを追われて、海上を北上した人たちも日本列島に向かったわけではなく、何世代もかけて、島から島へと移動しているうちに沖縄に到着したのでしょう。
ほとんどのバジャウは家を持つようになりました。私の付き合っている人たちは家を持たず、船で暮らす最後の人たちです。王国のなくなった現在は仲良くなった家船生活者の保護者は仲買人です。市場より安めだが、確実に獲物を買い上げてくれる。船の燃料や米などがなくなった時は金を貸してくれます。彼らは今回私がいたときに獲れた魚をすべて仲買人に売りました。しかし借金分を差し引くと利益はゼロ。悪徳仲買人に出会うととんでもない目に会うが、私の友人たちは今の暮らしに満足しています。欲望が小さいのです。
報告会の後、映画「プージェー」の監督、山田和也から、彼らの差別について聞かれました。私はアマゾン奥地やエチオピア南部で、差別のない社会を見てきましたが、文明社会ではどこでも差別が蔓延していました。文明の条件として、余剰による分業化が必要です。蓄えができると持つものと持たざる者が出てくる。持つものは既得権を守ろうとし、持たざる者を差別し、懐柔不可能な者に対しては、殺戮、収監、隔離、収容という手段をとります。
インドのカースト制社会でアウトカースト(不可触賤民)は現世をあきらめています。現世は束の間だが来世は永遠に続く。いま彼らの間で転向して仏教徒になる者が増えています。仏教には差別がないと思われているからです。
しかし、チベット仏教圏でも差別は公然とあります。私が4か月滞在した村では、動物を殺すこと、鍛治はガラと言われる被差別民にやってもらっていました。お互いに通婚もしないし、食事もともにせず、器も共有しない。殺生は禁じられているが肉は食べたい。その結果被差別民を産まざるを得なかった。殺生はいけないと言いながら、食べるのはかまわないし、解体も許されています。ベジタリアンといえども他の命を食べていることには変わりはありません。
実はアマゾンでも差別のないのはごく一部の、未だにものを貯えない人たちだけです。ものを貯えられると必ず抱え込む人間が出てくる。そして持たない者を差別する。インカの末裔であるアンデスの先住民はアマゾンの先住民をチュンチョと呼んで、自分より劣っているとみています。アンデス内では混血が、それも如何に濃く白人の血を受け継いでいるかで、序列ができます。アマゾンでは、民族間で差別し合う。同じ民族でも、教会や学校のある村の人間は文明の恩恵を受けない人たちをさげすむ。私が30年以上付き合っている家族は私が知っている人たちの中では最低に見られていますが、彼らはまた、それより奥地で焼き畑も作らず、狩った動物の肉を生のまま食べる人間を自分たちより劣っていると思っています。
それでは、東南アジアの海で暮らす民族の中では最低に見られている漂海民バジャウはどうなのだろうか。実は彼らの中にもはっきりとした序列ができ上がっています。漂海民と言っても100万人いるといわれている彼らの中で、1年365日家船生活をしているのはごくわずかです。ほとんどは船のほかに家を持っている。しかし陸に家を持っているバジャウは海に杭を打って家を建てるバジャウを蔑みます。さらに杭を打って家を建てるバジャウは家船生活者を見下す。私がミトコンドリアDNAを調べたところ何ら違いはないのですがお互いに通婚しない。同じバジャウでも大きな溝があるのです。家船生活をしている私の友人たちは自分たちが海で暮らす人間の中では最低に見られていることを自覚しています。それでもしたたかにヘラヘラしながら生き抜いています。
生きていくうえで、プライドは大切ですが、過剰なプライドは尊大に見えるし、嫌味にも見えます。また国家間、民族間だと紛争、戦争の原因にもなる。フォトジャーナリスト長倉洋海との対談集(東海教育研究所)で私は「ヘラヘラ主義のすすめ」を語りました。ヘラヘラと生きていく限り、攻撃的にならないからです。既得権をもった強者や恵まれた環境に生まれた者はプライドだけで生きていけますが、ヘラヘラとしなければ生き抜いていけない人たちもいる。
大国に挟まれた小さな国が生き延びるには高度の外交力が必要です。中国とインドの間にシッキムという小さな王国がありました。35年前、インドに合併されてしまいました。隣の王様を頂くブータンはシッキムの例を他山の石として、同じ目に会わないように対策を立てています。中国がチベットを呑み込んでしまった時も、同じチベット民族でチベット仏教を国教としているブータンはインドと緊密な外交関係を結び、中国への併合を免れています。ヘラヘラ主義とは弱い者が生き延びるための、したたかさの一つの表現です。家船生活のバジャウを見ながら、そういう思いを深くしました。
それにしても、自分より下の人間を探しだそうとするのは人間の業なのだろうか。(2月8日 台北にて。関野吉晴「明日は台湾最南端、今航海最大の難関バシー海峡を眺めに行ってきます。フィリピン側は昨年7月に眺めてきました」)
■1月28日、職場を抜け出して、新幹線に飛び乗った。地平線会議に出会って10年が経つが、大集会などのイベントをのぞけば、まだ数回目の報告会参加。東京駅から榎町(注:以前の報告会場)へ向かいそうになったところで救いのメールが入り、引き返す。あぶなかった。ありがとう。無事開始時刻から小1時間経った報告会にたどり着く。満員。椅子を出してもらって、映し出されていた海に浮かぶ帆船に飛び移った(気になった)。
◆関野さんは随分離れたところから話しているのに、まるで近くで話しかけられているように、言葉が親しく穏やかに届く。表情や仕草や言い換えやど忘れやエピソードや返答や間合いやニュアンスやなんやかんやもひっくるめた「話」と、耳を傾けるひとりひとりの微細な反応の波が、まじりあいながら会場内を静かに寄せては返す。
◆地平線会議創成期の、海外旅行がまだ珍しかった頃とは違い、欲しい現地の情報は比較的容易に入手できるようになった。ある面においては、役割を果たし終えたと言えるかもしれない。それでも、旅人の生の話に触れる価値を感じ、今日も大勢の人が集まっている。そして思うのだ。その「価値」が、再び高まってきているのではないかと。
◆インターネットで情報を集め、メールでやり取りすることがごく当たり前なこの頃。わたしも互いの邪魔をしないそれらを便利に使っている。けれども、それらの行為は、まじりあわない。ただ、行き来する。表情や仕草やど忘れをひっくるめない。日々はいつしか一方通行であふれている。
◆貴重な旅の報告会では、旅や行動がいざなう非日常のみならず、遠くなりつつある「まじりあうやりとり」=いまや「日常的非日常」をも味わえる。それはもしかしたら、人というものに想いを馳せるきっかけになるかもしれない。時代の風がふたたび地平線会議の帆に絡み、新たな航路が見い出されてゆくようなイメージを持った、今回の報告会だった。
◆北京の餃子、おいしかったなあ(勝手に生ビール頼んでごめんなさい)。久しぶりの人にも会えたなあ。またふらりといつもの報告会にお邪魔したいなあ。(大阪・中島菊代)
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