2010年10月の地平線報告会レポート


●地平線通信372より
先月の報告会から

タンケンの未来

岡村隆

2010年10月22日 新宿区スポーツセンター

■うっそうと繁るジャングルに、突然現れる未知の巨大遺跡??。そんな映画のようなドキドキするシーンを、この夏実際に体験したNPO法人南アジア遺跡探検調査会の「スリランカ密林遺跡探査隊」。報告会会場には隊長の岡村隆さんをはじめ、探検調査に参加した19歳から68歳までのメンバーが駆けつけた。

◆岡村さんのスリランカ仏教遺跡調査は、法政大学の探検部員だった41年前からはじまった。第7次隊まで調査が行なわれていたのに、なぜ今、大学探検部の枠を越えNPO法人として活動をはじめたのか? 岡村さん曰く「一大学の探検部では活動に限界がある。探検調査だけでなく、幅を広げないとこれ以上続いていかない」とのこと。マンパワーや資金の問題のほか、近年は盗掘が相次いでおり、せっかく発見した遺跡が次々と破壊されてしまう悲しい現状がある。これを食い止め、遺跡の保護・保存・修復に向けた手伝いができないか。住民に対しても、何がしかの手伝いができないか…。そんな思いを形にするため、NPO法人『南アジア遺跡探検調査会』は2008年2月に発足した。「今までの活動を無駄にしないため」とも言えるのかもしれない。NPOとしてのスリランカ遺跡調査は、昨年に続き2回目となる。

◆学生が作成したパワーポイントを映しながら、岡村さんが語った探査隊の目的は5つ。[1]密林に残る未知の遺跡の発見と調査。[2]過去に探検・調査した遺跡の現状調査。[3]遺跡保護の大切さを地元民に訴える啓蒙活動。[4]遺跡に関する地元民の意識調査。[5]村の児童に学用品を贈呈。

◆スリランカの気候と歴史も解説された。全土の4分の3がドライゾーンであり、現在人口はウエットゾーンに集中している。だが古代シンハラ文明は、ドライゾーンで栄えていた。仏教を精神的な基盤、貯水灌漑農業による稲作を経済的な基盤としており、各地に仏教寺院が建立され、多くの貯水池と田んぼが広がっていた。しかし13世紀を境にドライゾーンは過疎地、あるいは無人のジャングルと化していく。原因は過開発、疫病の流行、タミル民族との抗争など。シンハラ王朝は南へ落ち延びていき、16世紀以降はポルトガル、オランダ、イギリスの侵略を受けて植民地下に置かれることとなる。

◆今回の調査対象は、ドライゾーンのワスゴムワ国立公園。スリランカ中東部、マハウェリ川中流域の西側に広がるジャングル地帯だ。ここはイギリス植民地時代からの自然保護区で、野生動物・植物の宝庫。特に野象の聖地と言われている。野生動物保護局の厳しい入域制限がかかっているため、政府考古局を通じて野生動物保護局に特別許可をもらい、活動を行なった。

◆隊員は14名。岡村さんのほか、50代の法政大探検部OBが3名と、最年長68歳の早大アジア学会OB西山昭宣さん、小学校教師の松山弥生さん、そして現役大学生8人という顔ぶれだ。大都市コロンボで考古局との打ち合わせや食糧・装備の買い出しを済ませ、ベース基地のヤックレ村へ向かう。この村では、地元民に遺跡保護の大切さを訴える啓蒙活動という大切なミッションがあった。学校を借り、集まった子どもと先生たちに話をする。松山さんが持参した日本の子どもが描いた絵の展示や折り紙教室も好評だった。

◆村で案内人と料理人を雇い、いざ密林へ! 遠い道を迂回して、やっとたどり着いた国立公園だが、なんと入口でヤックレ村民の入域を拒まれてしまう。村民による盗掘や密猟を阻止するため今年からとられた措置だったが、遺跡情報を持つ案内人を連れていけないのは大きな痛手だった。

◆そんなアクシデントもあったが、3日後には運よく露岩の上に築かれていたアリベーセマ遺跡(仏教寺院遺跡)の発見に至る。アプローチに苦労し、道をふさぐ木や倒木を斧で切り開いて進んだ結果だった。遺跡では気温40度以上という炎天下の中、いばらのトゲと格闘しながら建築物の距離と方向を測量した。すでに盗掘された跡があり、風化と崩壊も激しいが、なんとか配置図を作成できた。150メートル四方に仏舎利塔3つと菩提樹祭壇のようなものを確認。大きな沐浴場ともいえる池の跡もあり、調査を進めれば更なる発見も期待できる。

◆ところで遺跡って、ジャングルをがむしゃらに歩いて見つかるようなものなのか? 実はそうではなく、猟などでジャングルに入る地元民の目撃情報をもとに探していくという。このように場所の目星はつけていくが、初めて調査してレポートを作成したという意味で「発見」という言葉を使っているそう。

◆2週間が過ぎ、一行はフィールドを移動する。一部のメンバーは帰国の途につき、OB2名と学生7名での活動となった。OBの人類学者、執行(しぎょう)一利さんは地域民の遺跡に対する意識調査に向かい、岡村さんは学生たちの「自分たちで新しいフィールドを作りたい!」という意欲に応えて西側から国立公園を調べることに。

◆川を渡渉し、斧や鉈で道を切り開いていくと、突然、大きな階段が目に飛び込んできた。どうやら沐浴場の水面に降りていくガート(川岸に設置された階段)のようだ。13段あり、右から左まで約30メートルの大スケール。これが今回の大発見『スドゥカンダ遺跡』だ。スドゥカンダとは、シンハラ語で「白い山」。ちいさな尾根がいくつも寄り合う複雑な地形をしており、6つの尾根それぞれに擁壁、テラスが作られ、その上に経堂や講堂が作られている。テラスに登ると、建造物のなごりである石柱が散乱していた。寺院本殿の玄関にあるガードストーンや、半月形の踏み石・ムーンストーンも残っていた。

◆どうやらこの遺跡は“水”がテーマのようだ。階段に並行し、石を掘りこんで作った水路が走っている。勾配を緩やかにして小さな滝をいくつも作り、上部テラスから下部テラスまで水を流していたらしい。上部には石を組んで作った貯水池もあった。写真では水路に降り注ぐ木漏れ日が美しく、ここに水の音が合わさったら最高の空間になるのだろうなあ。このような装飾的な水路があることから、王族や地方権力などの関与も類推できる。ちなみに建造物はだいたい6世紀?8世紀くらいのものだという。

◆遺跡の分布範囲は、東西に500メートル、南北に200メートル程と非常に大きい。この国ではポロナルワなどの古都以外では最大級の広がりをもつ僧院遺跡だ。「崩壊しているが、形は非常によく残っている。こんなに巨大で複合的な遺跡に出会ったのは、この国の調査をしてきた41年間で初めてです」。

◆驚くことに、岡村さんは貴重な遺跡の測量を学生だけに任せた。後継者を育てる目的というが、江本さんがただちに「真意は?」と質問を投げる。岡村さんが答えた。「正直、全部立ち会いたいという我欲はありましたよ。すさまじく。でも探検はこれっきりではない。私はまたこの場所に行きますから」。岡村さんは走り回って見取り図を作成し(さらっと言うのがすごい)、調査のポイントを告げると、学生を現場に残してコロンボに引き揚げた。「学生たちに、自分たちもできると実感してほしかったから」。そして7名の学生たちは5日間、自分たちの力で測量を行なった。

◆ここからは各隊員の話。学生リーダーを務めた東洋大学探検部主将の佐賀見拓也くんは、昨年に引き続いての参加だ。昨年は仏像発見など成果はあったものの、自分自身は何をしたかったのかがはっきりせず、消化不良だったという。今年は計画立案などのノウハウもしっかり覚え、調査の後半では西部に行きたいという自分の意見も主張できた。

◆法政大学探検部OB・副隊長の甕(もたい)三郎さんは、ODAの現場で働いた経験を踏まえ、NPOとしての活動で意識した点を語った。それは仕事のつもりで行なったということ。「仕事」という言葉を使われた理由はいくつかあるだろうが、成果を必ず形として出すという意味も大きいだろう。何が何でもやる!という甕さんの熱意を感じた。

◆青年海外協力隊OGの小学校教員、松山さんは、シンハラ語の通訳を担当。探検部ではなかったし遺跡も詳しくはないそうだが、スリランカが大好きだという。岡村さんによると「啓蒙活動での活躍を期待していたが、意外にも過激にジャングルに突っ込んでいったよね。学生にもゲキを飛ばして」。会場から笑いが起こる。さらに岡村さんが言う。「探検なんて、学生でなくともできるんだよ」。

◆東海大学で考古学を専攻する菅沼圭一朗くんは「現地で実物を見て、モノを作った人間が見えてきた。考古学はモノだけでなく、背後の人間を見ることが大事だと思った」。こういう思いに体験を通してたどり着けたことは、彼の将来に大きくプラスになったことだろう。

◆「今どきの若いモンを見直した」と語ったのは、最高齢メンバー、68歳の西山さん。「岡村もよく自分を抑えて、時には怒り役になって、隊をコントロールしていたなあ」。しかし、実は西山さんが現地でいちばん周りを叱り飛ばしていたというウワサも!?

◆「行く前は、水が腐ることも知らなかった」と言う滝川大貴くんは、最年少の19歳。法政大学探検部1回生だ。大学に入学して間もなく、探検もNPO活動も初めての彼に下った指令は「モンベルに企業協賛をお願いし、タープをもらってこい」。ここで学んださまざまなことを、今後活かしていきたいという。

◆2人目の女性隊員、立正大学探検部3回生の家崎晶さん。スドゥカンダ遺跡に出くわしたときは驚きと感動で声がでなかったという。細部の計測を担当し、その精密な記録は大いに隊の役に立った。

◆人類学者の執行さんは、遺跡保護に向け、村民の遺跡に対する意識調査を3つの村で行なった(結果はNPOの報告会で)。昨年5月にスリランカで22年続いていた内戦が終結したため、次は南東部も調査したいと今後を語った。

◆本来、探検の仕方は教えたり教えられたりするものではないだろうけれど、だからこそ岡村さんは学生に任せるところはどんと任せ、学生も自から学ぼうとする関係ができたのかもしれない。きっと学生たちにとっては、岡村さんをはじめとするベテラン勢の情熱に触れたことこそ、何よりも大きな糧となっていることだろう。(新垣亜美


スリランカ隊「報告会」のお知らせ

 NPO法人「南アジア遺跡探検調査会」では、今夏のスリランカ密林遺跡調査と付帯事業の報告会を開きます。地平線報告会では報告しきれなかった村人との交流や、37年前に発見し、調査した遺跡の現在の姿、ビデオ映像による「探検」と「密林遺跡」の詳細記録などを含め、活動の全貌を報告します。質疑応答や二次会での懇談なども予定しています。場所は話題の「東京スカイツリー」のすぐ近く、浅草や隅田川にも近いので、見物や墨提散歩を兼ねてでも、ぜひおいでください。入場無料です。

■日時 11月27日(土) 午後2時半から5時
■場所 すみだ女性センター 東京都墨田区押上2丁目12番7-111  電話 03-5608-1771
   (地下鉄半蔵門線・都営浅草線・京成押上線の「押上駅」下車)
■問い合わせ 岡村 090-2919-6359 まで


14名の「ひとこと」
報告会には14名全員が参加した。そのひとりひとりにスリランカ探検への思いを書いてもらった。順不同で掲載する。
《NPO設立と今後の「仕事」》

■1973年、法政大学探検部が初めての遺跡探検隊をスリランカに派遣しました。今から37年前のことです。それ以後2003年までに7回遠征隊を送り出しましたが、6次隊から7次隊までの間に10年間の空白があったように、隊を組織するにも人的・資金的な限界が生じ、大学探検部単体での遺跡探検継続は難しくなっていました。また、その他にも大きな問題がありました。遺跡の「破壊」と「盗掘」です。何とか組織をつくり、やっと出発する遠征隊が遺跡を「発見」したとしても、それが「破壊」と「盗掘」される構図。根本的な長期的対策を講じなければいけなかったのです。

◆スリランカ側のカウンターパート「考古局」には初回からお世話になりっぱなし、そろそろお返しをする頃でもあろうと思う中で、誰でも参加できる母体として、別の組織の設立が必要だったのです。広く社会の中から探検に従事する人を集め、また活動に賛同される方々からの寄付や公的助成金などで資金的問題を乗り越え、活動を継続する組織、すなわちNPOです。今夏の活動を手がかりに、今後、考古局との連携や、遺跡の発見と保護の活動を深化させることを「仕事」としていかなくてはならないと益々感じております。(副隊長・法大探検部OB 甕 三郎


《新しい探検の可能性》

■現地での調査で一番強く感じたことは、「探検」だけでは自分たちの自己満足に終わってしまうということです。私は昨年と今年、連続してスリランカの遺跡調査に行きました。しかし去年「発見」した遺跡を今年も調査したところ、元々あった盗掘がさらに進んでいました。「大学の探検部」では、準備、現地活動、報告で探検が終わってしまいます。日本にいる我々が、それ以上、何をどこまでできるかわかりません。しかし、今回はNPOの隊として活動したことで、現地では探検活動だけでなく遺跡の盗掘の現状を連続して調べたり、学校に出向いて遺跡保護の大切さを説いたり、別働の隊員が住民の遺跡に対する意識調査をするといった広がりがありました。

◆今後、大学探検部とNPOという新しいつながりが形作られていった場合、探検部の側にも、昔ながらの探検的活動だけではなく、継続しての調査や、それを遺跡や自然の保護、啓蒙活動などに広げていく「新しい探検」が形成されていくのではないかと思います。自分たちがやりたいだけの探検から、将来、多くの人々の役に立つような探検へ。今回は、これまでとは別の新しい探検活動という可能性に、一歩近づけた瞬間ではなかったかと、私は強く感じました。(副隊長・東洋大学探検部主将、3年 佐賀見拓也


《野象の近くで》

■調査地は、アフリカで云えばセレンゲティー国立公園内のようなものだ。テレビで観ればわかるが、サファリのジープに乗ればライオンやヒョウの近くまで行くことが出来る。スリランカでも同じで、サファリジープで行けば象やバッファローの群れを近くで見ることが出来る。ところが遺跡調査で同じ動物保護区内を歩いていても、鹿に出くわすくらいで、なかなか動物の写真を撮るほどには遭遇しない。なぜならば、隊員たちは団体で行動し、ザックに鈴などを付けて危険動物と遭遇しないようにしているからだ。動物は人間より遥かにはやく危険を察知して逃げてしまう。

◆私は前回のスリランカ遠征(1993年)に、遺跡調査のほか動物写真の撮影を個人的な目的として参加したが、このことに気づかず失敗してしまった。今回は一日だけ隊活動から離れ、サファリツアーに出かけてまずまずの動物写真を撮ることが出来た。それにしても、予想以上に象の密度の濃いことと、警戒してピタリと動きを止めた象には十メートルの近さでも気づかないことに恐怖を感じた。こんな実体験のない隊員たちは、そんな象たちの近くで呑気に巻尺を伸ばしていたのだ。(法大探検部OB 武内 勲


《ビールなしでも過ごせた夏》

■この20年来、夏の生活には、エアコンと冷たいビールが不可欠。ジャングル内では、その両方ともがダメと言われて、参加表明をしばらく躊躇。その後のミーティングでは、痒いのや痛い虫がいて、毒ヘビがいて、怖そうな野生動物も少なくないと。いきなり出てこられて、“よっ、ゾーさん!どうも憎いよ!”奴らには、ヨイショが効かないし。出発前の東京の暑さ。熱中症で年寄りがバタバタ。でも、“スリランカの暑さは、そんなものじゃナイ!”とか。かなり、後悔していました。

◆体が想い出したのか、天井で回るファンで充分だったし、マハウェリ河を渡る風の心地よさ。蚊は、何故か僕には寄ってこなかった(誰か体に酒を塗って、側で寝てくれたかナ?)し、ダニやサソリ、毒ヘビにも出会わず(単なる幸運デス)に。熱中症も、水ガブガブと梅干しの種しゃぶりとで。ジャングル内を歩くときには、出来るだけ列の真ん中近くに。前や後ろがやられている間に……と。テントサイトでの大排泄時は一人だから。近すぎても。といって、離れすぎると。中腰の姿勢と微妙な距離調整も覚えました。

◆結論。冷たいビールを我慢できた自分を“ホメテアゲタイ”。余談としては、早朝のウォーキング(僕の場合は、徘徊)で、手袋をしていても指先が痺れるほどに冷たくなって、回復に時間がかかるようになりました。この、数年来のことです。昨冬は簡易カイロも使ってみたのですが、効き目がイマイチ。有効な防寒方法はないものでしょうか?(暗駝亭こと西山昭宣


《私を魅了したスリランカ遺跡探査》

■「なんて美しいんだろう」、「ジャングルの中に本当に遺跡が放置されているんだ」、「この人たち、すごい!」。これが、今年も私を遺跡探査に引き戻したものです。私は、1997年、青年海外協力隊員として初めてスリランカを訪れました。それ以来、何度かスリランカに足を運んでいますが、どうせスリランカに行くならちょっと参加してみようかなと、軽い気持ちで参加したのが始まりでした。ジャングルで野生の象の親子を見たとき、美しいと感じました。そんなジャングルに大規模な遺跡が残っており、かつてここに人々が生活していたのだと考えると、“世界ふしぎ発見!”の何倍も、壮大な世界へ引き込まれました。

◆また、ジャングルを熟知し、地図もコンパスもなく道案内してくれる村人、物がなくても困らない村人の知恵に驚嘆させられました。裸足でいばらのジャングルを歩く姿は日本人にはないかっこよさがあります。そんな人々とまた一緒に生活し、いろいろな話を聞いてみたいと思うのは、学生時代少しばかり文化人類学をかじったせいなのかもしれませんが、遺跡発見はしかり、村人との出会いが私にとっては探査活動の魅力となったのです。2年間、こんなわくわくした気持ちを感じながら遺跡探査に参加させてもらいました。(小学校教諭 松山弥生


《スリランカ人の似顔絵》

■「次は俺の顔を描け」「いや、俺が先だ」??。数人に囲まれて、そんな風に迫られるのは初めての経験だった。出国前や現地での様々な準備にほとんど協力できなかったぼくは、もっとも役に立たなかった隊員と言ってまず間違いないが、それでも今回、ひとつ大きな収穫があった。スリランカの人々の絵を描いたという経験である。ぼくは漫画家を志していることもあり、暇なときに村人や役人の似顔絵を描いていた。スリランカ人は彫りが深く、また性格が顔によく出ている(優しい人間は優しそうな顔をしているし、助平な奴は助平な顔をしている)ため、日本人より描きやすい。そんな発見もあったが、それより面白かったのは、相手の反応だった。

◆ある者は無言のまま鋭い眼光でこちらを睨みつけてくるし(強そうに描いてほしかったのだろう)、ある者は似顔絵を描くまでどこまでも後をついて来るし、ある者は「俺を描け」と言っておきながら好き勝手動き回るし……。日本に帰ったらその絵をコピーして送れと言う人がいれば、その場でスケッチブックをひったくって近くのコピー屋まで走って行く人もいた。何にせよ、誰もが非常に喜んでくれたというのが驚きであり、非常に嬉しかった。(早稲田大学4年 佐々大河


《やっぱり遺跡がすき》

■最初にスズカンダの遺跡を見た時。あの衝撃は絶対に忘れられないと思う。ジャングルの中、突如として現れる13段の大石段。凄い! 鳥肌が立つくらい、わくわくした。この先にはこれ以上の遺跡が待っているのかと思ったら、45度の暑さだろうが、刺付のやぶだって、そんなもの飛び越えて行ける気がした。やっぱり遺跡がすき、と実感。スリランカに来るまでの活動はどれも誰かをなぞっただけ。けれど今回、自分の足跡が残せた。私が果たした役割が大きかったかは分からないが、この探査が私に果たしたものは大きかった。何かを成し遂げるということ。自分が何かの役に立てるということ。どうしても自分に自信が持てない私が、少しだけ自分を誇りに思えたこと。他人にとっては些細な事だが、私にとっては踏み出せる勇気をくれた気がした。

◆そして支えてくれた人たちと仲間。立ち塞がるトラブルを1つずつ回避していく中で、どれほど沢山の人の力を借り、人の温かさに心しみたことか。また1か月弱、私が探査をやり遂げられたのは、一緒にいた仲間のお陰にほかならない。毎日毎日ちょっかいを出しては笑い合って、存在が支えになっていた。この活動に参加できたこと、そして出会った全ての人に感謝を。(立正大学探検部3年 家崎 晶


《遺跡探検から学んだこと》

■南アジア遺跡探検調査会の隊に参加して学んだことは、自ら行動することの大切さです。今回の探検は私にとって初の海外で、隊員の方ともあまり面識のないまま活動が始まりました。私は英語やシンハラ語はほとんど話せず、現地での交渉はもっぱら他の隊員に任せていました。遺跡探検も当然、経験したこともなく、先輩に言われるがまま行動していました。そんな受身な活動が半月続き、さすがに考えるようになりました。せっかく隊員になったのに、自分は隊に貢献しているのか、もっと自分からやりがいを求めることで、自然と隊に貢献できるのではないか……と。

◆それからの活動は、自ら仕事をもらいにいく行動をとり、なるべく受身をなくす努力をしました。そうすることで作業のやりがいが生まれ、より探検が楽しくなりました。また自ら行動する中で気づいたことは、普段のコミュニケーションによって信頼関係を築くことの重要性です。仕事の役割にも向き不向きがあり、得意な分野で隊に貢献することがより楽しいことがわかりました。今回の探検で学んだ多くは、社会に出ても大いに役立つと思います。(麻布大学探検部3年 杉田翔一


《なぜ盗掘が起きるのか》

■遺跡が盗掘されている。話には聞いていたが、実際に見てみると印象が変わる。ジャングルのまっただ中で地面に大きな穴が空いている。穴の中は空虚で何もなかった。なんて罰当たりな、と感じた。それと同時に、仕方がないことだとも思った。世の中、お金のためなら何でもする人は、いくらでもいる。現地の水準からすると、一発当たれば大儲けだろう。ジャングルは切り開かれ、そこに人が住むようになった。そのすぐ近くに遺跡があり、そこに莫大な価値のある何かが眠っているとしたらどうだろう。掘ってみたいと思うものだ。我々だって、そこに何かがあるから探検する。一方的に非難ばかりしてはいられない。そう考えると、体の奥から虚しいものが込み上げてきた。どうしてこんな事が起きるのか。

◆たぶん速度が違うのだろう。遺跡のまわりに流れる時間と現代の人間に流れる時間の速度のズレが、問題を起こしている原因なのだろう。現代は変化が速い。人里に出てみても、貨幣経済の象徴であるカデ(小さな雑貨店)が至る所にある。これからも速度は増すばかりなのだろうか。今回、発見した遺跡もこれからどうなるのか、期待すると同時に不安も覚える。(東洋大学探検部2年 茶川直樹


《ジャングルは心地よかった》

■私のなかで探検といえば、ジャングルであった。幼いころからジャングルの密林をかきわけ、まだ見ぬ何かを発見したいとの思いは非常に強かった。ある日、探検部の先輩からスリランカ密林遺跡探査の話を聞き、胸が躍った。いまだ誰にも発見されずジャングルに眠っている遺跡を探査しに行くと聞いて、そのことを考えただけで、今までにないほど興奮した。そのとき私はこの計画への参加を固く決めた。正直、参加を決めた時点では、遺跡そのものへの興味は薄かった。しかし実際参加することとなって、さまざまな準備を進めていくうちに、遺跡への興味もだんだんと大きくなっていった。そして8月4日、私はスリランカへ向け出発した。

◆到着後、現地で買出しや交渉等をすませ、いよいよまだ見ぬ遺跡の眠るワスゴムワ国立公園へと出発した。ジャングルへ入り、遺跡を探査しているときの心情は、まだ見ぬものへの期待感や、現実にジャングルを歩いていることへの興奮、すぐそこに危険な生物がいるかもしれないという緊張感とがまざりあった、これまでに経験したことのないものであったが、どこか心地よかった。今回の遺跡探査を通して、様々なことを発見し、経験することができた。またひとつ人として成長できたのではないかと思う。(東洋大学探検部2年 山口 純


《「過去」との対面》

■今日の社会が存在するのは、昨日の社会が存在したからである。それが忘れ去られようとも、存在の痕跡は未来に繋がれる。人間も同様、相乗的かつ累積的な死によって世代が繋がっていく。スリランカの密林で、自然による侵蝕を受けながら、途方もない年月を耐えた遺跡。そこにあった石段、水路、建造物跡。それらは幾世紀前そこに在った社会が大自然に刻みこんだ人間の「生きた証」である。かつて生き、消えた彼らは、永い年月を経て再び私たちの前で人間としてよみがえる。遺跡、遺物を眼前に置くことは、それと関係を持っていた人間と対話することである。歴史に描かれることのなかった彼らは、我々と対話することによって、今日の社会へよみがえる。そうして我々は未来への土台を得る。

◆過去の積み重ねが現在の自己の肯定を許すように、先祖の累積的な死が現在の我々の生を許すように、今日の社会もまたそのように成り立っている。過去からの土台が無ければ、正常な現在を歩けるはずもなく、未来に手を伸ばすことも困難になるであろう。「過去」と対面し、対話すること。この仕事は、現在の社会を生きる誰かが為さねばならぬことである。加えて歴史上、誰もそれをしなかった時代はない。なぜならそれが歴史だからである。(東海大学探検会2年  菅沼圭一朗


《熱中症で倒れた日》

■前半の活動の準備地であるヤックレ村に入って間もなく、私は熱中症でダウンして、情けない話だが、一日休養をとらせていただくこととなった。暑さでボウっとする頭で、ゴザを敷いただけの寝床に伏していた。陽が当らない部屋の隅で、頭の数センチ先を列をなして動いている黒蟻を眺めていると、キッチンの方から話し声が聞こえた。その時私以外に日本人はいなかったので、声の主は現地で雇用した料理人たちだ。なにしろ都会のコロンボとは違い、ヤックレ村の住人は荒っぽい風貌の男が多い。そのことと何を話しているのかわからないことが私の不安を増す。

◆暫くうつらうつらとしていると、声の主が私を起こした。手にはコップを持っている。彼はゆっくりとしたシンハラ語で私に話しかけてきた。この水を飲め、と言っていることは判る。初老の彼の目が、親が子を見る時のそれであったことが印象的だった。

◆中身は煮沸された水で作られたポカリスエットだ。ジェスチャーで何とかお礼の意を伝え、口に含む。物につられたようで良いイメージはしないが、これ以来、私の彼らへの不信感が消え去ったことは事実である。熱いポカリを口の中で転がしながら、私は明日からの探検に思いを馳せた。(法政大学探検部1年 滝川大貴


《遺跡への住民の意識を探る》

■昨年はNPOとして初めて遠征隊を派遣したため、様々な困難と苦労がありました。今年は2回目(ワスゴムワ遺跡探査隊の最終年度)であり、昨年に引き続き多くの成果を挙げることができました。さて、今回は14名の隊員の中で、ただ一人ジャングルには入らず、村の中で住民の遺跡に対する意識調査をしてきました。私たちはこれまで何回もスリランカの密林遺跡探査活動を行ってきましたが、残念ながら、いたるところで遺跡の盗掘や破壊を目にせざるを得ませんでした。こうした遺跡破壊を何とかして止めたい、という思いは絶えず持っていましたが、外国人である我々が具体的に何をどうすればよいのか、今まで分かりませんでした。

◆こうしたなか、私個人としての思い(長文の説明が必要)、そして長年お世話になってきたスリランカへのお礼の意味をこめて、NPOとしてこの問題にこれから本格的に取り組んでいきたいと考えています。その第一歩として、今回は、村に住む住人が遺跡のことをどのように考えているのか、3カ村でインタヴューと調査票を用いた調査を実施しました。一人で調査を行ったため、十分な資料が得られたとは思いませんが、この調査結果を元に、これからの活動に役に立てていきたいと思います。(昨年隊隊長・法大探検部OB 執行一利


《「多彩な隊員」こそが最大の成果》

■地平線報告会で話をさせてもらうたびに思うことだが、「探検の報告」であっても、その場では、本来の眼目であるはずの「成果」や、そこに至る経緯(行動)の報告だけでなく、さまざまに「人間的な要素」の報告が求められて、なかなか話の流れを作ることが難しい。というより、聴衆には登山・探検界の長老から他分野の旅のベテラン、さまざまな人生の達人、あるいは今後を夢見る若い人までが混じっているから、「どんな人間がそんなことをやっているのか」が自ずと注目点となり、たてまえはともかく、本音の動機や実感までを吐露しなければ許されない雰囲気を感じるのである。

◆だから今回は事前の打ち合わせの上、まず隊の公式(?)な成果報告を半分の時間のパワーポイント発表にまとめ、残り半分の時間で14人の隊員たちを1人ずつ登壇させて、隊組織や活動や個人的動機や印象に関する「ひとこと本音トーク」を展開する予定にしていた。それが結果的には小生の計算違いから、最後に時間切れで登場させられない隊員が出たことは、その当人たちにも聴き手の皆さんにも申し訳なかった次第だった。

◆それでも、初の「NPO探検隊」として、私が活動の成果以上に重視した「活動母体の広がり」という点では、多彩な参加者(隊員)の顔ぶれをご覧いただいたことで、少しはおわかりいただけたのではないかと思うし、若い学生隊員たちが、来年もまた「主体的に」今回の遺跡探検の続きをやりたいと語ったことで、「このプロジェクトを、これまでとは別の場の若い人が乗っ取ってくれ」と言い続けてきた私の願望の行方も、曙光だけでも見せられたのではないだろうか。

◆私たちNPOの、しかも年輩者の責務は、彼らの行動にどれだけ多くの付加価値(学術的な評価や発掘・復元への橋渡しなど)をつけられるか、遺跡保護の啓蒙活動など関連活動の枠を広げていけるか、またそのための予算をどう工面できるか、そうしたことに集約されると思うから、私としてはその思いをこそ伝えたかったのだ。

◆ともあれ、今回のNPO探検隊の最大の成果は、大規模遺跡の発見とともに、あの若い人たちを含む幅広い「参加者」を得たことにあった。41年前に私がスリランカで将来の遺跡探検を発想したときと同じように、今度は新しいことのすべてがそこから始まっている。その「顔ぶれの多彩さ」という「スタート地点」を、地平線会議の皆さんに見ていただけたのは幸せなことだったし、そこから新しい仲間が増えるなら、さらに嬉しいことである。皆さん、本当にありがとうございました。(岡村 隆


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