■はじめて日本人がチベットに渡ったのは僅か110年前…!? しかもその旅の内容は仏典を求めての旅…!? 子供の頃から『西遊記』が好きだった僕にとっては衝撃的な事実だった。同じ仏教の国なのにチベットと日本は、そんなに新しい関係なのか、と。その最初の旅(河口慧海)から40年の時を経て、8人目にしてチベットの地を踏んだのが野元甚蔵さんだ。今年で93才(祝・地平線報告者最年長記録更新!)。1年ぶりにはるばる鹿児島からご家族と共に来て下さった。温かい拍手と共に報告会の幕は上がった。
◆初めにドキュメンタリー映像が上映された。チベット人が語りかけてくるような、范文雀さんのナレーションに乗せて流れるチベットの風景。遊牧の草原、ヤクや皮舟が印象的な農村、僧院、森の暮らしなどをとらえたモノクロ写真(江本さん撮影)からは、自然と共に生きる、チベットの人々の営みが伝わってくる。
◆聞き手兼進行役の江本さんが前回話されたことのあらすじを語る。鹿児島県山川町の農家に生まれ、農業高校を卒業した野元さんは、縁があって内モンゴルのアパカ地方に特務機関蒙古研究生として赴き、3年間でモンゴル語を習得。一方、日本の参謀本部ではアンチン・フトクトという親日的なチベット仏教の高僧の従者としてモンゴル人になりすました日本青年を送り込もう、という案が出ていた。野元さんに白羽の矢が立った。現代とは違い「情報がないから行く旅」である。当時22才、チベットの知識は何もなかった野元さんだったが「日本とチベットとの交流に貢献出来るのなら」と決意する。時は大戦直前の1939年、ちょうどダライ・ラマ14世の即位のタイミングでもあった。
◆ひとつの指輪を手に、野元さんが話し始めた。「これは14世に頂いた指輪です」。青海省からわずか4才でやって来たダライ・ラマ14世を乗せた4人担ぎの輿の行列に、所用でラサに来ていた野元さんは遭遇している。「その時はお顔を見ることは出来なかった」が、40年後に鹿児島で再会し、初めて握手をして語りあった際、頂いた。白金と珊瑚が施されたその指輪は、時を越えても尚、輝きを失ってはいない。
◆野元さんが1年あまり滞在したシガツェでは、王氏の実家にお世話になりながら、フトクトから託された漢字、モンゴル文字、チベット文字の三体で書かれた般若心経を読経するなどして、熱心にチベット語の習得に励んだ。内モンゴル時代はノムタイ(本を持つ人)というあだ名を持っていた野元さんは、チベットでは王氏にツンドゥィラ(努力する人)のチベット名をつけてもらった。タシルンポ大僧院ではモンゴル人のラマ僧達にも歓迎され、「いつかはラマ僧として寺院に入りさらに詳しく現地の事情を知りたい」との思いも芽生えていた。
◆ダライ・ラマのラサ到着のお祝いに、中国の代表として蒙蔵委員会の呉忠信という要人がラサに来て、僧院にお布施をするなど懐柔する行動が目立っていた。多くの高僧や要人達が敬意を表しに赴くなかで「フトクトだけが会いに来ない事に不機嫌な様子」更には「フトクトは日本と親交を持っているらしい。日本人を連れて来ているのでは」との疑心を抱いているとの噂が。野元さんの身辺は慌ただしくなる。急遽、王氏は釈明の為にラサへ出向くこととなり、野元さんはシガツェの西方約80kmにあるウジェンゾン地方の農村で避難生活を送ることに。
◆農家出身の野元さん、滞在中、チベット農業の実情を深く知ることになった。「ウジェンゾンでの間、一番思い出すのは何ですか?」との質問に、「日常生活のすべての行動が興味津々でした」。大昔の大噴火の影響で、土壌が浅いことに加え乾燥地でもあるその土地では、ヤクが大活躍する。春になると、ヤクが農具をつけて畑を耕し、水を加えては鋤き起こす。溝を作り麦や菜種など数種類の穀物を同時に蒔く。鎌で収穫し、乾燥させたら地面に並べてヤクに踏ませて脱穀を行う。その後熊手で女の人が唄を歌いながら放り上げ、風を使って取り出す(風選という方法)。篩(ふるい)に掛けて麦や菜種をより分ける。麦は大きな釜で火を通し、集落を流れる川を利用して水車のような石臼で粉にする。「これに水を加えて練ったものが主食のツァンパです」。江本さんと共に愉しげに解説してくれた。
◆村での日々が6か月程過ぎたある日、野元さんの所在を、タシルンポのラマ僧が聞き知ってしまったことから「どうも本当のモンゴル人ではないのでは?」との疑いがかけられてしまう。フトクトをはじめ、優しくしてくれた村人や王家の人達に迷惑をかける訳にはいかない。帰国を決意する。
◆「一番怖かった」のは帰途の船でのこと。「日本人らしき者がカルカッタに潜入」との警報が流れ、英国警察が日本船を徹底マーク。船長の上陸許可証がなければ船員ですら上陸も乗船も許されない状況となった。日本郵船の日本人が知恵を貸してくれた。顔の割れていない新人の船員に船長から白紙の許可証を持って来て貰い、なんとか乗船。機関室の横、人間ひとり通れる位の外壁との隙間に身を潜めて警官をやり過ごした。外から電灯の光が見えて「もういいぞー、出てこーい」と呼ばれて這い出したが、その後も機関室から出る事ができない。用便に困ると機関員の「やってしまいなさい」の一言。燃料の石炭の上で済ませると、それをスコップですくい上げ火に放り込んでくれた。「これは緊張の後の笑い話になったが、助けて貰った彼らとの日本人同士の同胞愛をしみじみ感じました。」と話す。
◆チベットを無事脱出した野元さん、密かに取っていたメモは、ヒマラヤの国境検査を懸念して焼却してしまったので、1年半の記憶だけを頼りに報告書を作成することに。ハルビンで半年を費やして報告書を提出した年には太平洋戦争が始まった。野元さん不在の僅か2年間で、世界は大きく揺れ動き、日本も重大な局面を迎えていた。
◆これらの体験を、野元さんが近年まで公表することはなかった。自身を助けてくれた恩人に迷惑がかかるのを恐れてのことだった。野元さんの誠実さだろう。鹿児島で再会したダライ・ラマ14世の「もう40年経ちましたよ。そろそろ良いのでは」との言葉に決心がつき、『チベット潜行1939』が刊行されたのは21世紀の節目の年であった。
◆今回の報告会には「チベットの野元」だけではない、野元さんの人生の別な面を伝えたい、という意図が進行役の江本さんにはあったようだ。後半はみんなでアルバムをめくりながら野元さんの生きてこられた時代をたどる展開となった。明治の日本人の雰囲気をたたえる野元さんのご両親のポートレートにはじまり、1931年、徳光小学校の卒業写真、1933年、鹿屋農学校時代の集合写真などセピア色の貴重な写真が次々にスクリーンに映し出されると、野元さんは歩み寄って見入った。
◆アルバムの説明役は、江本さんも予想外の飛び入り参加、次男の龍二さん。このアルバムを作成した功労者で、この日、鹿児島から飛んできて下さった。弁髪姿(北京にて)、ブリヤートモンゴル人の服装姿(内モンゴル)、普通の髪型(満州)と青春の野元さんが次々に登場した後、奥様の幸子さんがクローズアップされる。「私が一目惚れしたんです(一同笑)」江本さんがすかさず「すぐに迫った?」「時間がかかった(一同笑)」「チベットのことは?」「言えなかった」。
◆今回見つかった履歴書にはチベットのことは一言も記載されていない。30年勤めた山川町の農協時代も、同僚は誰も知らなかったという。写真はやがて白黒からカラーに。ご家族は現在17人。幸子さんと出逢ってから可愛いひ孫さんまで、家族の思い出写真に「ほぉ〜。」と懐かしんでおられる。まるで野元さんの周りに笑顔がどんどん集まって増えてゆくかのようだ。野元さんにとって、ご家族は人生の一番大切な宝物なのかもしれない。
◆最後に郷里の山川町の風景が。野元さんは開聞岳を眺めて育ち、その山はいまも変わらぬ姿で野元さんの家を見下ろしている。自分の“想い”に忠実に、差し出される一筋の道のりを、一歩一歩大切に歩んでこられた野元さん。本のなかの世界のようなお話が、目の前でご本人の口から語られる迫力。野元さんが、遥かな時代の遠い世界から永い時間をかけて、この地平線会議にその“想い”を伝えに来てくれたことが、どれほど嬉しく、どれほど素晴らしいことか。報告会の最後には感謝と敬意を表して、加藤千晶さんからは花束が、江本さんからは宮澤美渚子さん(230回報告者)から託された白い“カター”(チベットでお祝いの時に首に掛けるシルクの布)が贈られ、盛大な拍手のなかで“ながいながいお話”に幕が降ろされた。
◆「いま何が一番楽しいですか。」2次会で尋ねると、野元さんは「あなた達のような若い人達とお話しをすることです」と微笑んだ。アドバイスは?「“真実一路”。真面目に、騙したり誤魔化したりせずに、自分に恥じない人生を送ることです。」野元さんだからこそ言える言葉なのかも知れない。野元さんの旅から70年経ったいまでも、チベットも日本も時代の流れの渦中にある。二度と同じ時間は流れない。無常なこの世のなかで“いま”という時間を大切に生きてゆきたいと思った。(車谷建太)
■お世話になりました。終わってみて、皆さんがあれほど喜んで下さるとは思ってもみませんでした。今回はどんな話をしたらいいものか、正直迷い、悩みました。もしかしたら家から同行してくれる菊子に恥をかかせることになるんじゃないか、と。あらためて自分の本を読み返して一応準備してみたのですが、どんな話をすれば皆さんに喜んでもらえるか、この年齢ですからなかなか自信が持てないわけです。結果的には司会の方と江本さんのご配慮でなんとか話し終えられて、ほんとうにほっ、としました。
◆龍二が駆けつけたのはまったく予想外でした。家族のものを含めて今回披露された写真のどれもが、私には貴重です。そして、つくづく妻の幸子にもっと生きていてほしかった、と思いました。今回もうひとつ印象深かったのは、私にチベット行をすすめた泉鉄翁大佐のご子息、泉紀彦さんが尼崎から来てくれたことです。泉大佐にはほんとうにお世話になりました。そのご子息が私の話を聞きに遠路来てくださったのです。嬉しいことでした。
◆2次会での若い人たちとの語らいも楽しかったです。私に料理をいろいろお皿に盛ってくれるのですが、若い人との話が終わらず、餃子をいくつか食べただけでした。江本さんちに帰ったらお腹が減っていましたが、滅多にない若い人との語らいは何よりでした。(野元甚蔵)(で、サンドイッチを召しあがった)
■こんにちは!先日は突然の訪問にもかかわらず歓迎頂き有難うございました。今回、地平線報告会での父の報告にあたって江本さんから私に頂いた宿題は、「チベットから帰ってからのこと、鹿児島に引き上げた以降のこと、写真を通じて昭和の時代を紹介したいのでなんとか資料を探してもらえないか」ということでした。お引き受けしたものの、写真や資料が整理できていなかったので、結構手間と時間のかかる作業になってしまいました。
◆週末に父のもとに帰った際に、妹や父が探しあてたものをスキャニングし、持ち帰っては毎晩、芋焼酎を片手に、少しずつ何時のものか、何であるかを特定しデータを整理する作業をすすめ、翌週末、父に確かめることを繰り返しました。この作業は、父がたどってきた足跡を写真や資料で探し出し、何であるかを特定し、記録していく作業でしたし、父を支え、ともに生きぬいてきた母のことをも記録する作業でした。この作業のお陰で、私自身と家族を振り返る時間ができたことに感謝しています。
◆引き上げ後の両親は、農業に従事しました。身重で苦労の末、引き上げた母は肉体労働など経験したこともありませんでした。慣れない農業に携わりながら、きつかっただろうな……。その中で常にいろんなことに好奇心を持って前向きに生きてきたことにも思いをはせました。また、引き上げ直後は父の兄の家族などと一緒で10人を超える大家族での暮らしだったと聞いており、物質的にも、経済的にも、精神的にも苦労が絶えなかったのではないかと。
◆大家族の担い手となった父は、農協の勤めをしながら、畑作もし、乳牛も飼っていました。早朝の搾乳作業のあと10キロ以上も離れた集乳所に自転車で重たい牛乳を運ぶ毎日だったそうです。家族を守ることと、母乳の出のよくなかったため兄が飲むための乳を確保するために始めたという酪農でした。
◆兄は、乳首をつけたサイダー瓶を見ると欲しがって泣いたそうです。そんなことを思いながらの作業でした。そういえば、父は朝早くから夜遅くまで働きづめで、一緒に晩ご飯を食べたことはなかったし、遊んでもらった記憶もありません……。
◆報告会で皆さんにぜひお伝えしたい写真や資料がありましたのでいくつか紹介します。[その1]長兄の啓一が、中学を卒業してすぐに大阪に旅立つ朝、母方の祖父と一緒に写った写真〜私は、その写真を見つめながらしばらく考え込みました。父や母、そして兄がどんな思いだったのだろうと。きっと、あとに残る兄弟と家族が生きるために、親が苦渋の選択をせざるを得なかったのだろうと。[その2]1980年に鹿児島を訪れたダライ・ラマと父の再会を報じた地元の南日本新聞の記事があったはずだと探しましたが見つかりません。県立図書館に行ってマイクロフィルムの新聞の検索でも見つからず、家を必死に探してやっと見つけることが出来ました。[その3]最大の発見は、昨日清書したかような真っ白な和紙に、濃い墨でしたためられた父の履歴書です。これは何かな?と妹が見つけ出した時は驚きでした。大陸から引き上げ、しばらく農業に従事していた頃、地元の農協に就職する際に準備した履歴書の下書きです。それを見た父は、一瞬、信じられないことを話し始めました。「嘘をついていたんだよ。チベットに行っていたことは書いていないし、勤め先のことも」。そして「お世話になったチベットの皆さんに迷惑をかけるようなことだけはしたくなかった」と。初めて聞いた事実に、鳥肌が立つほどの震えを覚えました。「正直、誠実に生きろ」と子供たちに教え続けてきた彼が、あえて隠し続けて来なければならなかった過去を思う時、日本の歴史が強いたこの時代に生きた多くの人たちの肩に重くのしかかっているものがあることを改めて思い知らされる瞬間でもありました。
◆このようにいくつもの新たな発見や再認識があった江本さんの宿題でした。父への今回の地平線会議報告会へのご招待については、江本さんが「居てくれるだけでもいいんです」とおっしゃられても、特に今回93歳になって目も、耳も、足も、記憶もと父の不安は隠せませんでした。しかし、行くからにはいい加減なことはしたくない、誠実に正確に事実をお伝えしたいと言い続けていました。当日は、報告会、二次会と皆さんと夜遅くまで精一杯、父にお付き合いいただき、お声掛け頂きましたが、いつの時でも変わらない態度や前向きな姿勢には、身内ながら感心します。
◆皆さんの熱心さに元気をいただき100歳は生きると宣言していたようです。さすがに、歳相応に疲れがたまったようですが、鹿児島に帰って元気を回復していますのでご安心ください! 今回、ご参加いただきましたみなさまに改めてお礼申し上げます。父にこのような機会を与えていただき有難うございました。報告会や二次会でお会いした皆さんが、すごく輝いていて、改めて地平線の仲間たちってすごい人たちの集まりだなって……感じるひとときでもありました。(野元龍二 甚蔵次男)
■追伸:ところで、パソコンに向かってこんなことをしていられない事態が迫ってきました。宮崎県えびの市の口蹄疫が収束に向かったと安心した途端に、今度は鹿児島県との県境の都城で発生が確認され、鹿児島県も準非常事態制限で道路の封鎖や検疫体制強化が図られ、私の勤めている事業所でも一定の対応をせざるを得ない状況になっています。産直牛肉の生産者から届いた計り知れない不安、悲痛な叫びが込められたメッセージには胸が締めけられそうです。
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