■誕生日を聞くのを忘れてしまったけれど、角幡さんと私は1976年生まれ。私は、同い年の人が何をしているか、というのが妙に気になるタチで、角幡さんが書いた前号の通信の扉ページも一気に読んだ。「退職直後の不安や恐怖」という一節に、大会社、30を超えての決断、男性であること、の重みを感じた。私は大学を出て、ほどほどの企業に2年勤めたが、あちこちに行きたくて辞めた。当時は、全てから解放されたような喜びしかなかった。
◆角幡さんは、朝日新聞記者だった。「アホ枠で取ったんだ」と採用担当者に言われてしまったそうだが。2002年12月から翌2月にかけて、1回目のツアンポー峡谷行を終えた4月に、入社した(直前の3月に地平線で報告会やったんですね)。5年ほど地方支局を回り、そろそろ本社という声がかかった時、「今、本社に上がったら辞められなくなる!」と考えて辞めた。「本社に上がる」という言い方を、角幡さんは気にするそぶりを見せながらも使ったのが、印象的だった。本社は「上がる」という動詞にふさわしい職場なのか。なお、ご本人が前号に書かれたとおり、辞めた理由は2つ。ツアンポー峡谷にもう一度行きたい。そして、自分の旅を書いていきたい。
◆ツアンポー峡谷へは2009年夏に下見に行き、2009年12月から今年の1月にかけてが、本番となった。今回の報告会の主眼である。内容の前に、角幡さんを惹きつけて止まないツアンポー峡谷とは何? チベット東部のコンポ地方、ヒマラヤ山脈から流れるヤル・ツアンポー川の大峡谷。シャングリラ(桃源郷)はここだと言われ、ベユル(隠れ里)伝説という伝承も残っているそうだ。
◆ベユル伝説とは、チベットに密教をもたらした聖者パドマサンババが、その土地の守り神に任じた神々を住まわせた場所があるというもの。角幡さんによると、ツアンポー周辺の村には、こうした伝承を信じて移住してきた人たちもいる。
◆1924年に植物学者のキングドン・ウォードらが、5マイルの空白地帯を残してツアンポー峡谷を踏破。その後、中国共産党によって外国人立入り禁止地域となったが、1990年代に立入りが許可される。1998年イアン・ベーカー(米)らは未知の滝(「幻の滝」)に到達。このニュースは、滝を見つけようと準備を進めていた大学4年の角幡さんに大きな衝撃を与える。
◆角幡さんは、辿りつくのが難しい地理的な空白地こそが、理想的な探検対象だと考えている。早大探検部に所属していた時に「ツアンポーの空白の5マイル」を知り、詳細を調べた。いよいよ探検を実現するべく、早大探検部でツアンポーへ下見に行ったばかりだったのだ。がっかりはしたが、めげない。2002年12月、角幡さんは単独で、ベーカーらが立ち入らなかった地域を見ようと出発する。ちなみに中国政府はベーカーらの探検の後、再度外国人の立入りを禁じたため、無許可での探検となった。
◆峡谷の北部にあるガンラン村からヤル・ツアンポー川沿いに空白の5マイルを歩き、大屈曲部で西に向かい、ギャラ村を目指す予定。しかし、道はなく、滑りやすい危険な斜面を進んでいく状態に。結局、ガンラン村に2、3か月居候し、泊まった家の主人をポーターに雇い、3回に分けて峡谷を探検した。この時、空白の5マイル地帯で、奥行き50mほどの洞窟を発見する。35mほども懸垂下降して洞窟の入り口に立ち、ベユル伝説の記述との符合に驚く。それまで、あまり伝説を信じていなかったが、認識を改める契機になった。
◆そして2009年夏。前回は行けなかった、大屈曲地帯の全域踏査のため下見へ。2008年3月のチベット大暴動の影響を考慮し、どこまで行けるかを偵察した。お世話になったガンラン村まで徒歩2日、という距離の村まで、雇った車で行く。顔見知りとの嬉しい再会もあったが、近くの検問で外国人の立入りを止められた。このルートからガンラン村に入ることが難しいと分かる。
◆そこで2009年冬。ヤル・ツアンポー川沿いを西から歩くことにした。トゥムバツェ村からギャラ村を通り、ナムチャバルワ峰、ギャラベリ峰を横目に、ガンラン村を目指すルート。今回も単独、無許可である。トゥムバツェ村でポーターを雇うつもりだったが、交渉はうまくいかない。写真で見る限り、相当の田舎だが、携帯電話は普及している。無許可の外国人を案内したら、いつ誰に通報されるか分からない。村人はそれを恐れているのだ。
◆結局、迷いにくいところまで連れて行ってもらい、単独で2日歩いて、戸数2軒のチベ村に。ここで、ギャラ村までのポーターを雇えた。ギャラ村の近くにあったという、豚の天日干しの写真が強烈だ。内臓を抜かれた一頭丸々の豚が、木の枝に何頭も引っ掛けられている。渋柿色の体が、太陽の下でピンと突っ張っている。
◆ベユル伝説の聖者パドマサンババの手形やら足形やらが残っているギャラ村(戸数8軒)でポーターを雇えたが、1日歩いてから無許可であることがポーターにわかって、村に帰ってしまった。無許可であることへのこうした反応は、予想外だったとのこと。もともと、ギャラ村から、空白の5マイルの入り口までは、ポーターを雇うつもりだったのだが。
◆この時点での手持ちの食料は次のとおり。アルファ米とラーメンで19日分、チャパティ2枚、生米3合も合わせると22、3日分。さらに1日100g程度の行動食(カロリーメイト、ナッツ類)があった。1日1000kcal程度の計算になる。この他、イラクサを採って、スープや丼にして食べた。
◆ギャラ村から先は何もない。だから村人もほとんど行かない。藪が多く、道の踏み跡がすぐ分からなくなる。前に歩いた誰かが、鉈で草木をないだ跡が分かるところまで戻って、歩き直したりしたが、1日分で踏み跡を見失った。ギャラ村から次の目的地ペマコチュン(50年位前までは居住地だったが、今は掘っ立て小屋が1軒あるだけ)までは、通常4日だが、角幡さんは6日かかった。
◆モンスーン明けだが、しとしと雨が降る。スクリーンに映る写真は、どれも曇りがちに見える。人の気配のない冬の谷沿い、道なき道を一人で進む。どこで滑落してもおかしくない。ミスの許されない、厳しい状況が続く。河原に下りられるなら、懸垂下降して河原を歩く。
◆100円ショップで買ったレジャーシートをタープ代わりに、ツェルトを張る。荷物を軽くするため、ガスも持参せず、毎回焚き火。すぐ拾えるシャクナゲは燃えにくく、火が大きくなるまで2、3時間かかった。2002年の探検の経験を生かし、ヒル退治のスプレーを持参。今回はマダニに5箇所くらい刺された程度で済んだ…とのことだが、刺された痕の写真は今もなお「刺されたて」に見えるほど痛々しい。ちなみに、夏は雨が多く、川の水が増えるし、害虫も多い。だから天気が良い(はずの)冬に行くのだそうだ。
◆ギャラ村を出て12日目。雨がひどくなった。川沿いに進む予定だが、ルートの険しさを考慮し、峠を越えて迂回しようと判断。ここで、雨が雪に変わった。雪で埋まる前にと、峠へ急ぐ。4日ほど降り続ける。途中で見つけた洞窟で3日間、寒さに耐える。食料の残量が厳しくなってきた。
◆予定していたルートを諦め、ツアンポーからの脱出を目指す。生きて戻ることを優先する。角幡さんは、雪山用ではなく、通常の登山靴を履いていた。凍傷で足が痛むまま、避難していた洞窟から800mほど上がって、峠を越えた。峠も越えられたし、食料も食い延ばせば1週間ほどは大丈夫。助かったという気持ちになる。
◆とは言っても、目的地ガンラン村までは食料が足りない。少し先にあるはずのルク村で、調達しようと考えて進む。ギャラ村を出て22日目、辿りついたルク村は廃村になっていた。3日ほど前から体は衰弱しており、食後1時間くらいしか体力がもたない状態だった。
◆ルク村(廃村)の対岸に、ガンテン村がある。しかし道がない。食料も体力も残っていない。一泊した翌日、地図にある橋もないことが分かり、愕然とする。少し泣きそうになり、死を意識する。探しても、探しても、向こうに渡る手段が見つからない。川幅は50-60mだが流れは緩やかだ。泳ごうと決意する。
◆と、ここで奇跡的にワイヤーブリッジを発見、ご本人曰く「腰が抜けそうに嬉しかった」。地元の人はワイヤーに滑車をかけて渡るが、角幡さんは土のうの袋でロープが切れないように保護しながら、ハーネスを組み合わせ、1時間かけて、ちょびちょび渡る。ワイヤーブリッジ(川が荒れても流されないため多く設置されている)には慣れているそうで、途中で下の川を写した写真がある。スリリングだ。川面から30m上でロープにぶら下がっているのに、何故、下を向いて写真を撮ろうと思えるのかは、分からない。
◆川を渡りきり、ガンラン村へ。緊張から解き放たれたせいか、普段あまり吸わないタバコが欲しくなる。雑貨屋に買いに行くと、最初に会った人が警察だった。「漢族か?」と中国語で聞かれ、チベット語で答えてしまったのが運の尽き。警察に捕まりはしたが、よくぞこんな所まで来てくれたと歓待を受け、不快な思いはしなかった。しかし目的地であるガンラン村へは行けなくなってしまった。
◆何日も警察と一緒に移動し、大きな町まで出て、罰金500元を払って釈放される。撮りためていた写真のうち、人物が写っているものは角幡さん自ら消去している。だから、報告会でも人が出てくる写真は数枚しか見られなかった。それが余計に、単独行であることを印象付けた。
◆人里まで10日ほども離れた地域を一人で歩き、間違いのないようコントロールして、生き残れた経験は大きかった。過去の探検家が入らなかった箇所まで足を踏み入れた満足感もある。その一方で、ツアンポー峡谷のあるコンポ地方は、観光開発が進んでいる。2002年の探検時とは変わっていた。人々はあか抜け、建物もきれいになっていた。チベットと四川を結ぶ川蔵公路(せんぞうこうろ)はもう、凸凹道ではない。角幡さんは、もうすぐニューギニアに行くそうだ。なんて意欲旺盛なんだ!どうぞご無事で。
◆ところで私は、ブラジルで日本語教師の面白さを知り、痛切に「プロになりたい」と思った。皆さん、何歳になっても大学院って入れるんですよ。昼は日本語を教え、夜は大学院へ行くという怒涛のような2年間が、今月終わる。「日本語教育修士」の学位は頂くが、良い教師であり研究者であるために、大事なのはこれからだ。探検家でありジャーナリストの角幡唯介さん、トレイル・ランナーの鈴木博子ちゃん、三味線弾きの車谷建太君。1976年組は、他にもいませんか? 違うフィールドにいる同い年の皆さん、お互いの健闘を祈ります!(後田聡子)
■報告会の前日、僕はあたふたと写真を用意し、カンニングペーパーを7〜8枚そろえ、どの写真でなにを話すかある程度イメージし、かなりばっちりと事前の準備をしたつもりだった。考えてみると2時間半もしゃべるなんて、こりゃ無理だと思ったのだ。大学の講義だって(もう10年も前になるが)1時間半しかなかったのに、聞くのはあんなに苦痛だった! でもやはり慣れないことをするものではないらしい。自分の冒険を分かりやすくしようと思って用意した探検史の説明が長すぎて、肝心の今回の旅の説明が不十分になってしまった。
◆それにしても報告会の最後の方で感じた、旅の途中で思ったことをうまく言葉にできないあのもどかしさは一体なんなんだ? 僕にとって今回の旅は、本当に生きて帰れるかどうかという強烈な体験だったので、その時の状況や気持ちなどすらすらと口をついて出てくるものだと思い込んでいた。
◆でも実際は意外と突っかかってしまい、うまく話せない。振り返ってみても、考えていたことの一割くらいしか話せなかったと思う。書くことに比べて話して説明することに慣れていないからだろうか(なにせ帰国してからはほとんどひきこもりで人間としゃべった記憶があまりない)? それとももしかして、まだまだ体験として甘いということなのか? だとしたら恐ろしい……。うまく語れるようになるには、もう少し生死の瀬戸際をのぞかなければならないということじゃないか。でもツアンポーはもう行かないよ。
◆いずれにしても報告会では伝えきれなかった部分があったと思うので、関心のある方は雑誌『岳人』4月号(間もなく発売!)に目を通してください。(角幡唯介)
■進む道路整備の一方、増える検問、携帯の普及による密告…。チベット自治区の旅にはまだ制限が多いというより、むしろ厳しくなっていると角幡さんの報告を聞いて感じた。
◆この3月は1959年のラサ蜂起から51周年。2008年3月にはチベット全土に拡がった騒乱が起き、中国政府の発表では死者21人、チベット亡命政府の発表では200人以上が当局の弾圧で殺されたという。旧正月直後にダライ・ラマ14世がオバマ米大統領と会談したこともあり、当局は民族意識の高まりを警戒している。まだ拘束されている家族や僧侶の解放を求めて、座り込みやデモが行われたという情報も携帯電話から海外に伝えられる。ラサ市内は私服の警官で厳戒態勢だと、Twitterのつぶやきが漏れてくる。3月中は外国人に対する入域許可が出ないという。
◆救いは中国の若者たちによる自転車旅行がブームになっているという話。チベットを「中国化」してゆく政府の功罪を、若い世代の人たちに考えさせるきっかけになればと思う。もちろん私たちも、知恵を使って果敢に「挑んで行きたい。」(落合大祐)
■みなさんはじめまして。2/26の報告会に、初めてお邪魔させていただきました。お茶の水女子大学の竹内詩織といいます。大学は違いますが、早稲田大学探検部に所属し、その後約一年間のイスラエル留学を経て、ただいま就職活動中です。
◆地平線会議を訪れるきっかけは、今回の報告者である探検部OBの角幡さんのブログでの告知です。チベットという土地は、私の初海外の地であり、完全に惨敗した苦い経験のある、色々な意味で思い出深い場所です。そこでの探検! そして報告会! というと、もう行くしかない! となった次第です。とはいうものの、「私なんかが行ってもいいのかな」という気持ちが強く、数えるほどしか会ったことのない探検部の先輩に相談した末の、緊張とドキドキの報告会参加でした。
◆ヤルツァンポー川踏査報告中は、初めはにやにや笑いがおさまらず、最後の方は口をぽかんと開けたり目を丸くしたり、私の顔を記録したらきっと面白いものができるだろう……というくらい、刺激の強い時間でした。まず、どうしてそこでまだ進むんだ?! 普通の人の感覚からしたら“おかしい”行動に、なぜだか嬉しくなって、次にここまで生死の境をリアルに感じたことのある人は、一体どれくらいいるんだろうかと考えたり、ロープブリッジを見つけたときに「助かった」と思える角幡さんって、どんな人なんだろうと思ったり。角幡さんはロープブリッジ発見の際、「腰が抜けるほど嬉しかった」と淡々と語っていたけれど、私には想像を絶していて、一生感じる「嬉しい」の何倍になるかもわかりませんでした。
◆正直なところ、わざわざ自分の命を危険にさらしてまでする行動は、未だに理解できない部分があります。探検部に所属していながら、基礎的な山岳活動しか行わず、文化探求に惹かれて、探検部の活動を休止、イスラエル留学をしてしまった私は、地平線のみなさんがするような死の確率の方が高い探検をすることは、おそらくないだろうと思います。
◆ただ、それに果てしなく魅力を感じ、憧れるのは、すごく素直な自分の気持ちでもあります。“自分が見たことのないものを見たい! それが他の人も見たことのないものだったらなおさら”。これは、私が留学を決めた理由の一つです。だから、もしかしたらのもしかしたら。何年後かには、少し、地平線のみなさんの世界に足を踏み入れていたりもするのかなとも思っています。次の夏はガザから毎日カチューシャが届くイスラエル南部スデロットにでも行こうかしら。
◆最後になりますが、初めて来た私にも友好的に話しかけ、歴史ある地平線通信に寄稿する機会を与えてくださった江本さん、ありがとうございます!(竹内詩織)
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