2009年9月の地平線報告会レポート


●地平線通信359より
先月の報告会から

ALWAYS 十字路国の夕日

三輪主彦

2009年9月25日 新宿区スポーツセンター

■今月の報告者は、記念すべき報告会第一回目の報告者であり、長年にわたり世話人をされている(でも、ご本人曰く「雑用させられていた」)、すんごい人、三輪主彦さんだ。私にとっての三輪さんは、ある月の報告会にアキレス腱を切っちゃったとひょこひょこ来られたと思ったら、翌月にはマラソン大会に出たなどと笑っている、謎だらけの方。何を聞いてもいつも煙に巻かれてしまう。でも今回、ついにその謎が解き明かされる(かもしれない)! 私の胸は高まるのだった。

◆そんな中、まず会場に、留守番電話を使った1回目の「地平線放送」が流された。それは地平線会議が発足し、第一回目の報告会をするというお知らせで、三輪さんの元教え子、菅井玲子さんが声を担当している。次に、2回目の「地平線放送」。丸山さんがこれの印象が強過ぎてその後の報告内容を全く覚えていないと言う、三輪さんの有名な「一万円演説」だ(「話をするなら一万円」と宮本千晴さんに言われ「そんなに貰えるなんて!」と第一回目の報告者になったのに、貰うのではなく一万円を払わされてこれから喋ります、という内容)。

◆都立高校で地学の先生をしていた三輪さんが、トルコに一年の交換留学したのは、1978年、34歳の時。翌年にその時の滞在が「アナトリア高原から」と題され、第一回で報告された。それから30年――。今年行ったトルコは、奥様と友人夫妻と一緒の「快適旅」。まずはイスタンブル(トルコ文字では「イスタンブール」とは読まないそうです)に降り立った。「トルコが変わったのか、それとも私が変わったのか」。お話は、30年前と今を行ったり来たりしながら、進む。

◆印象に残ったのは、若かりし三輪さんの写真。現地に馴染み日本人に見えない。この時はいつも疲れていた、と三輪さん。なぜなら毎日20キロは歩いていたから。お金がなく交通の便が悪かったのもあるが、行きたい所には大変な思いをして行った方がいいように思っていたのだ。そしていつも恐ろしい目に会っていた。少し町外れに行くとしばしばでかい犬が出てくるが、ある日ついに噛まれた。すると「悪かったなあ」、飼い主が一晩泊めてくれたという。

◆今年、30年ぶりに黒海沿岸地方へ。昔行くのに苦労した崖の上のスメラ修道院に奥さんを連れて行き、感心させようと思ったが、面影はもうない。道は整えられ、建造物は修復されていた。他にも、木造家屋ばかりだったトラブゾンの町は高層ビルが建ち並び、人口は10万人から30万人へと増えていた。田舎町で人口が3倍になる……。それだけの人を雇える産業とはなんなのだろう? 少し見ただけでは判らなかったそうだ。

◆ハイウエイも驚く程に整備され、高速バスがびゅんびゅん走っている。高級で感動的なバスに乗り、途中下車してハイウエイ上にポツンとあるホテルに泊った。途中下車したのは、世界遺産のハットウシャに行く為だ。そこでは、紀元前にヒッタイト王とラムサスII世が戦い、ヒッタイトが勝ち、条約を結んだ文書が発見された。同じ文書がエジプトのカルナック宮殿にもあった為、その戦争が事実であると証明されたのだという。三輪さんは30年前と同じ場所でたくさんの写真を撮っており、比べると、王様のレリーフは現在の方が浮き彫りがはっきりしているし、岩に書かれた文字も昔はほとんど見えなかったのが、今はよく見える。手を加えているのだ。トルコでは、ハットウシャのようにトルコ人の祖先が作ったものではないのに、自国のものとして誇っている遺跡が多くあるそうだ。

◆さて、ハイウエイ上のホテルから、かつて留学していたアンカラの地へ向かおうにも、そばにバス停はない。しようがないから高速バスをヒッチハイクすることにした。奥さんは慣れていて「どれを止めようかなあ」。でも友人には「三輪さんと行動すると、ヒッチハイクまでしなきゃならないのか」と驚かれたという。アンカラの町もきれいになっていた。昔スラム街だった所にも各家にパラボナアンテナがつき、衛星放送まで観られるのだ。

◆30年前に着いてまず泊まったホテルを再訪してみると、残っている。そこで最初に覚えた言葉は「アナフタール(鍵)」だった。鍵がなければ部屋に入れないのだから当然だ。通った大学や住んでいたアパートの跡地にも行った。アパートの下には煙草屋がありよく遊びに寄った、と懐かしそう。当時、町にはまだ馬車も走っていたし、冬は石炭でもうもうとしていた。それだけ聞くとのんきだが、他には―。ポリスの戦車が町中に並び、軍のもあった。戒厳令が敷かれもし、出歩いていると本当に発砲された。1979年元旦の新聞の一面に「左翼と右翼の戦いで、1170人殺されちゃった」というような内容が書いてある、そんな時代だったのだ。

◆でも、宗教については日本と似た雰囲気があったそうだ。98%がイスラムだったが、なまぐさイスラムが多く「融通がきく所がいいなあ」。

◆今回、多少言葉を聞き判ったのは、自分が習った言葉が消えているということ(三輪さんの留学時には、アタチュルクによる言語改革の流れで、左翼系の「純粋トルコ語」が主流だった)。最近は、保守(イスラム寄り)系のトルコ語のほうが強くなっているのだ。町中を見ても、スカーフを被っている女性が増えている。当時、トルコ人は日露戦争でロシアを破った「日本が好き」と言われていた。

◆とはいえこんなことも。1979年3月の早朝、アパートに知人が駆け込んできた。「お前の国が戦争を始めた! 早く帰って軍隊に行け!」。念のため日本大使館に行くと、始まったのは中国とベトナムの中越戦争。日本は中国の一部だと思われたらしい。現在、ロシアと接近しているトルコにとって、日露戦争は過去のものだろう。黒海沿岸の目覚ましい繁栄にはロシアの影響がありそうだし、ロシアとの接近はイスラム化の流れにも関係しているのではないか、そう三輪さんは考えている。

◆「快適旅」といえば、ビールだ! 飲みたくて、売っているお店を探す。「お前はなんだ?」「ブッティストだ」「よし、トルコは民主主義の国だから売ってやる」。でも昔は裏路地で普通に売っていたし、飲んでいた。ラマザン(訛ったのが「ラマダン」)が始まっても「病気の人、妊婦、旅人は食べてよいとコーランにもある。僕はラマザンに入って病気になった。病気にはビールが効く」、なんておおらかだった。

◆が、現在はもっと厳しいようだ。皆見えるところでは戒律を守っており、かなり強制が入っていると感じる。イスラム化を押し進めると、トルコ政府が望むEUには入りにくくなるはずなのに……。久しぶりに見たトルコは、大きく動いていた。

◆冒険家は大変だから「旅行家」がいいと思う三輪さんの目指すものは、「円熟旅行家」だ。「旅人とわが名呼ばれん初しぐれ」などと、今頃は芭蕉の境地に至っている予定が、まだなんにもなれていないという。例えば、向後元彦さんのマングローブの活動のように、旅で色々な人にお世話になったものを返したいという気持ちが、三輪さんにはあった。でも、向後さんも「まず自分が楽しいから」一生懸命やったそうだ。中近東でのアラビアのロレンス然り、向こうの人に大きくインパクトを与えることが果たしていいものか。結局、考え至ったのは、「お返ししよう(とだけ)しても、ロクなことはないのかもしれない」。「だって、賀曽利隆はずーっと動き回っているだけで、お返しなんてこれっぽっちも考えていないじゃないか」。

◆最近、三輪さんは祖先の山(と勝手に思っている)「三輪山」に登った。そこに熱心に祈りながら裸足で登っている人達がおり、聞いてみると、「お山を汚してはいけないから」。試しに裸足になり登ると、青竹踏みよりも気持ちがいい! こういうのって、誰の役にも立たないけど迷惑にもならないから、いいのかもしれない。もちろん下りは痛いので靴を履いた三輪さんは、「祈りってなんじゃろなー」と考えるのだった。「あの人達も、なまくらイスラムみたいに、他ではお酒飲んで遊んでるんだろうなー」とも。「きっとあんまりなんにもしちゃいけないんだろうな」。

◆その思いから、学校の教科書の副読本に「なんにもしないで山に寝ころんでみよう」というのを書いてみたら、大変不評だったという。でも、それを熱心に実践するのも「しない」を「する」ことになり、よくないような。塩梅がムツカシイのだ……。飄々としながら悩める三輪さんが、唐突に「これでおしまい」と見せたのは「彼岸花」の写真だった(また、煙に巻かれちゃった!?)。それに触発される形で、円熟期に入った地平線人(?)はどうしたらいいのかと、江本さんや向後さんが話され、会場は盛り上がる。

◆最後に、金井重さんがきめた。「旅をする人は永遠に旅をしなければならないのよ。何かをしようとか、影響を与えようとか、そういう事を考えちゃダメ。見た人が勝手に影響を受けるのね」「林住期は誰だってできる。遊行期の旅をどうするのか。私は今それに動き出しているの。誰の為でもない、自分自身の為に、自分の旅をやっていくのよ」

◆これから三輪さんは、どのように「円熟」されて行くのだろう。例えば、重さんのお年になった三輪さんは、なにをされているのだろう。次々現れる三輪さんの魅力的な謎を、腰を据えて解き明かしたい! と、思った次第です。(トルコの歴史に付いて行けず、書けず、ごめんなさい。三輪「先生」はちゃんと説明してくれたのにー。加藤千晶


報告者のひとこと

旅のプロは返上し、年寄りのプロに転進するゾォー

■決められた時間内にパフォーマンスをし、あとは観客、聴衆に判断してもらうのがプロの演技、競技だ。地平線の報告会も同じように旅のプロの自己表現の場だと思い続けてきたので、時間内に自分の旅を総括しようと十分準備をした。色の変わった30年前のスライドをスキャンするだけで相当時間を費やし、スライドは10回以上並べ替え、話の内容も順序だてておいた。しかし実際には私の座右の銘「努力はほとんど実らない!」のごとく、情けない話に終わった。

◆30年前の報告会は、「1万円を出して話させてもらった!」という話だけが残っているが、報告内容に感心した人もおり、手作りの旅のメモからトルコのガイドブック、トルコ語本が出版された。当時自分には伝えたいことが一杯あり、充実したパフォーマンスだった。今回事前準備に3倍時間をかけたにもかかわらず、何を伝えたかったか不明だった。

◆年寄りの話は、こたつにあたりながら「あの時はねえ!」がいいので、大勢の人様の前でしゃべるのはやめたほうがいい。プロはその時、その場が大事で、後からこんな言い訳はしない。旅のプロは返上し、年寄りのプロに転進するゾォー。(三輪主彦


to Home to Hokokukai
Jump to Home
Top of this Section