2009年8月の地平線報告会レポート


●地平線通信358より
先月の報告会から

アバンナットを駆け抜けろ!

山崎哲秀

2009年8月28日 新宿区スポーツセンター

■まさか山崎さんがこれほどまで話し続けるとは思っていなかった。珍しく不在だった江本さんから、山崎さんが話につまるようなら質問を入れて、彼らしさを引き出せとの指示を受けていたが、突っ込みを入れる隙間すらなかった。モンベルチャレンジアワード授賞式の講演では、緊張しすぎて記憶がない、と言っていたので、報告会当日も大丈夫かな、と気になっていたのだ。

◆山崎哲秀さん(42歳)はもともとは植村直己さんの影響をまともに受けた、“植村チルドレン”の1人だった。植村さんとの出会いは高校1年生のとき。植村さんマッキンリー遭難の報に接し、なぜ世間がこれほどまでに騒ぐのか不思議に思ったところから始まる。ちょうど本屋で植村さんの名著「青春を山に賭けて」を見つけ、これかと読んでみて衝撃を受けた。そしてすぐに自分もやってみたいと思い、翌朝5時に起きてトレーニングを始めた。

◆高校卒業後は何かに挑戦したい、と周囲の反対を押し切り京都から上京。山岳会に入会し、アルバイトしながら山登りの日々。半年後に東京から新潟を経由して京都まで750キロを14日で歩いている。「頭より先に体が動く」と言うとおり、とにかく行動が早い。徒歩旅行の次はいきなり19歳でアマゾン河イカダ下り、しかも単独でだ。自作イカダは雨季のアマゾンで1週間後に転覆。流木につかまっているところを現地民に助けられ奇跡的に生還。懲りずに翌年再挑戦して44日という驚くべき速さで5000キロを下っている。

◆その頃、かつての同級生たちは進学、就職と進んでおり、誰も山崎さんの行動を理解してくれなかった。それでも山崎さん自身は目標に向かっているという自負があり、それはとても気持ちのよいものだったという。「みんなは私を不可解なヤツと呼んだ。そして私の意志は海だった」。講演会のたびに語られ、ホームページの扉にも使われている、サン=ジョン・ペルスの詩。山崎さんはこの詩に癒されてきた。これは独自の道を歩く地平線の人々にも共感できる気がする。

◆そしていよいよ次はグリーンランドだ(この時点で山崎さんはまだ21歳である)。まずはアルバイトで貯めたお金で夏のグリーンランドに下見に入った。目指すは「グリーンランド内陸部単独縦断」。しかしデンマーク政府が単独行の許可を出さない。山崎さんはここで植村さんの足跡を追えなくなる。植村さんは過去の実績を評価された特例だったのだ。

◆負けずに22歳の冬に再びグリーンランドに出向くが、冬の極地は勢いだけでどうこうできる場所ではなかった。マイナス37度の現実に恐れをなした山崎さんは逃げ帰り、先生無しでこの地に挑むのは無謀と反省。翌年、日大隊のサポートとして植村さんと北極点到達を競い合ったグリーンランドのシオラパルク村に住む、大島育雄さんに手紙を書き、弟子入りを認められる。

◆村でエスキモー生活のノウハウを学んだ山崎さんは28歳で北極点単独徒歩到達を目指すが、実際に踏み出してみるとまだまだ力不足で3日で撤退せざるをえなかった。時は1996年。河野兵市さんが北極点に到達する前年で、世の中にはまだ僅かばかりだが、ホンモノの「日本初」という冠が残っていた。それからの10年はあっという間だった。極地研究所名誉教授の渡辺興亜先生はモンベルの受賞式で、この10年は山崎君の修行時代である、と位置づけしていた。卓越した極地での技術を持ちながら、それを生かせる場がまだ見つかっていなかった。

◆エスキモーと生活を共にしていく中で、山崎さんはやがて犬橇が現地での活動に理にかなった乗り物であると気づく。そこでその技術を学び、同時に犬橇による物資の運搬能力を使い、渡辺先生に紹介された雪氷研究者と現場に入るようになる。氷河掘削で氷のコアを持ち帰る極地での調査活動は予想外に面白く、1995年と98年に北極圏にあるスバールバル諸島で氷河学術調査隊に参加。

◆01年と02年にはカナダのローガン山。03年にロシアのベルーハ。04年にアラスカ、マッコール氷河。06年にカムチャッカのイチンスキー山。加えて04年には北極とは反対の極である南極観測隊にも参加している(ちなみに国家事業である南極観測隊は、コックが2人いて、3食の心配がなく、お酒も飲み放題で、自分の人生の中で最上の日々だったそうだ)。

◆山崎さんの熱意と誠実な人柄が、周りの人間を引き寄せて、その渦の中で道が見えてきた。犬橇と極地での研究が結びついたとき、それは山崎さん独自の活動スタイルとなり、長らく自分を縛り付けてきた植村さんの幻影から、ようやく解放された。

◆現在、山崎さんはさまざまな研究者と組んで「アバンナット北極圏環境調査プロジェクト」を実施している。これは2006年から15年にわたる壮大な計画で、北極圏を犬橇を使い人の目線から環境調査しようというものだ。10年というスパンは環境問題の調査は単年度では成果が上がらない、という経験則をふまえている。

◆地球温暖化という時代の流れが皮肉にも、山崎さんに活躍の場を提供した。例年10月下旬には北極入りし、夏の間につながれて筋肉の落ちた犬達を再び鍛えなおし、太陽が上がる3月に向けてトレーニング。並行してすべてが手作りのこだわりのソリや道具の整備に入る。自分で作ればどこが壊れやすいかも分かる、と当たり前のように山崎さんは言う。その通りだ。だが実際に、そこまでできる人は稀だ。

◆しかしいくら準備に力を入れても自然の猛威の前にはなすすべがない。地球温暖化の影響か、グリーンランドのシオラパルクとカナダ側のエルズミア島の間に横たわるスミス海峡は2003年以降凍ったことがなく、現地の人間も犬橇で渡った者はいない。「アバンナット計画」は、この海峡を渡るところがスタートなのに、最初から先に進めないのだ。海氷の状態は悪く、06年には山崎さん自身も犬たちを犬橇とともに流氷に流されて失ってしまった。そこで08年5月にはカナダ側のレゾリュートに拠点を移し、同年11月からカナダ側で活動を開始している。

◆山崎さんが北極に通いだして20年。その間にシオラパルク村の生活はどんどん近代化し快適になった。91年にランプの生活だった村に93年には発電機が設置され、電気が灯り、数年前にはケータイ、そして今は子供達が室内でTVゲームをするほどになっている。生活の質の向上に伴いゴミも増えるのだが、焼却炉を作る資金がなく、ゴミは野積みにされる。

◆アルコールやドラッグも入り込み、新たな問題もおこってきた。それでも異文化との共存ができずエスキモー文化を破壊したカナダに比べると、デンマーク政府の下にあったシオラパルクにはまだ伝統が生きている。

◆そこで学んだこと、教えてもらったことを山崎さんは日本の若者に伝えたいと考えている。今後の活動としては国家のプロジェクトとしてしか参画できなかった北極に、民間の人間を呼び込み環境問題について一緒に考えてもらう。そのために民間の観測隊を組織することが夢だ。

◆僕が最初に山崎さんと出会ったのは、まだ活動のスタイルが確立する前だった。その頃の山崎さんはまっすぐすぎる情熱が刃物のようで、ひとつ間違えばその刃で自分自身を切り裂いてしまいそうだった。今回レポートを書くのにいろいろインタビューしていくと、本人にも思い当たる節があるようで「記録を残すことにとらわれていたからかも」と言っている。

◆「自分は冒険家ではないです」。誰かに話すとき、かならずその前置きをして話す山崎さん、でもその魂は死んではいない。その証拠に「アバンナット(イヌイット語で「ブリザード」の意)計画」には、ちゃーんとグリーンランド縦断も北極点到達も入っている。これって本当に調査のため? それと報告会の場では言わずにおいたけど、山崎さんを全力で応援している南極観測隊で知り合った奥さん(山崎さんの1次前、第45次観測隊員でフィールドアシスタントをしていた)のことも講演会では言おうよ。(山崎哲秀応援団の坪井伸吾


報告者のひとこと

ようやくここにきて「自分の北極」を語れるようになりました

■8月28日の報告会ではありがとうございました。なんとか無事に話を終えることができました。事前打ち合わせでは、江本さんからは何度も電話を頂き、丸山さん、長野さん、坪井さんからも「地平線会議に参加するのは、目の肥えた人たちばかりだから、分かりやすく喋るような野暮な説明はいらないから、本音でどんどん話していいから」とのアドバイスを頂きましたが、どこまでそれに近づけていたか……。

◆話がヘタでもとりあえず流れだけはわかるようにと、400枚を超える写真を並べて、半分誤魔化して?しまった感じです(笑)。地平線会議には初めての参加でしたので、まずは自分がどういう気持ちで、20年以上も北極で活動を継続してきたのか(北極での自分の方向性を見つけるに至ったか)を、分かってもらおうと思いました。

◆これまで北極で活動してきた中で、表に出るのは避けてきました。通い続けるだけでたいしたことをしているわけでなく、また人前に出るのが苦手なことも一つの理由ですが、北極での方向性をはっきり言えなかったこともあります。

◆でも10年、20年と続けるうちに自分の北極活動の方向性や志向が明確になり、ようやくここにきて「自分の北極」を語れるようになりました。また11月から出かける予定です。(山崎哲秀


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