2009年6月の地平線報告会レポート


●地平線通信356より
先月の報告会から

チベットアルプスへのラブレター

中村保

2009年6月26日 新宿区スポーツセンター

■地図の空白などないと思われている今日このごろ。世界は隅々まで探索され、もはや知られざる地域などない、と人々は奢っている。だけどそんなのは怠け者の発言だ!と一喝する先達がいる。真なる探求者というのは、課題を見つけるのが得意らしい。地球には未踏の領域が残っていることを気づかせてくれるのは、いつだって探求者であり開拓者であり、そして挑戦者なのだ。人がまだ行ったことがない所へ、やったことがないことへ……。現代の探検家に必要とされるのは、そんな課題に気づく能力であり、それを実行する行動力なのだな、と改めて中村保さんの報告を聞いたあとに思ったりなんかした安東が、今回の話をレポートさせてもらいます。

◆第202回の報告以来2回目のご登場になる中村さんは、未だ写真に撮られたことすらない多くの未踏の山々の残る東チベットを30回にわたり探検し、その報告を日本だけでなく、欧米の山岳ジャーナル誌などに発信してきた。昨年はイギリス王立地理学協会からメダルを受賞!アフリカの父リビングストン、さまよえる湖のヘディン、南極点へ挑んだスコットやアムンゼン、エベレスト初登頂のヒラリーなど、世界の名だたる探検家が過去の受賞者に連なる。日本人の受賞者は初だし、これ以上の栄誉はないだろう。加えて、アルパインクラブ(英国)、アメリカ山岳会、ヒマラヤンクラブ、日本山岳会の名誉会員でもある。

◆ここから中村さんの話を記録しよう。もうじき後期高齢者なので、かみさんに潮時だから「やめなさい!」といわれてもやめられない!10月からまた探検に出かけるという。人が行ったことがないところをほっつき歩く魅力に夢中になっている。そんな中村さんが自己を紹介するとき、「自分はキセル登山家だ」という。一橋大学山岳部での学生時代は、北アルプス穂高岳滝谷の新ルート初登攀などでバリバリに活躍するクライマーだった。だけれど企業に勤めると、重工業の海外プロジェクトの企業戦士となり、登山には行けなくなった。そして退職して「東チベット」の魅力に夢中になり、再び探検の日々が始まる。未だに世界に知られざる幻の白い峰々への情熱が、学生時代の情熱を呼び覚ました。そんなわけで、学生時代と退職後にはあちこち山に出かけているのに、その間の期間が抜けているので「キセル登山家」というわけだ。

◆来場者には資料として東チベットの地図が配られた。そこには6000m以上の未踏峰が200以上記されている。欧米でもあちこち講演してきたが、海外の講演でこの地図を配ると、みんな驚くという。この未踏峰リストは欧米のクライマーの間で「こんなに未踏峰がある!」というバイブル的な存在になっているらしい。

◆学生のころは勉強もせずに探検の本ばかり読んでいた。大学山岳部では、山に登るってことは三つのことだと教えられた。それは行くこと、読むこと、書くこと。つまりそれは、事前調査、行動、報告の三つからなりたっているってことなのだろう。それを忠実に守ってきた。行動したらそれをレポートで発信し表現して、初めて探検と呼ばれる。行っただけだと、そこには原住民もいることだし、探検にはならない。

◆企業戦士として世界中に海外駐在していた中村さんは1989年に香港に赴任。そのときに観光気分で中国雲南省の麗江を訪れ幾度か足を運ぶうちに、これらの地域には現代においても写真すら撮られておらず、情報のない未踏の山々が残り、体系的にまとめた人がいないことに気づいた。東チベットにはまだ発見の要素が残されている。最後のフロンティアとも言えよう。そんな未踏の山々は美しい。スライドで山々の紹介が始まる。

◆東チベットの横断山脈周辺にはアジアの五つの大河、揚子江、メコン、サルウイン、イラワジ、ブラマプトラ支流ロヒト川が、150kmの狭い範囲を南北に流れている。その川と川の間には険しい山脈が連なる。プレートテクトニクス理論によると、5000万年前にインド亜大陸がユーラシア大陸にぶつかりヒマラヤの形成が始まり、その時に大陸に生じたシワが、この類まれなる地形となり、未踏の地域を残したわけだ。この地域に関する文献を参照しようとすると、100年近く前の古いものばかりにつきあたる。共産中国の支配下では長い間立ち入り禁止となり、深いベールに隠されてきたからだ。

◆欧米の植物採集家(プラントハンター)キングドンウォードや探検家ベイリーが通ったルートを、そのころの記録をもとに現代に探検する。それは昔の交易路「茶馬古道」で馬やヤクでキャラバンを組んで進む。そこを通る外国人は80-100年ぶりだったりする。目の前に現れる数々の山々。東チベットの山の特徴は、急峻に尖っていてヒマラヤ襞と大岩壁がそそり立つところにある。チベット最大面積の氷河「ラグ氷河」の奥地には30の峰峯があるが、海抜6882mの最高峰を含めてすべて手つかずの未踏峰だ。

◆深いゴルジュ(大渓谷)では、そそり立つ断崖絶壁に馬の通れる道がくり抜かれている。落ちれば谷底にまっさかさまだ。そんなルートを馬のキャラバンが進む。そして6000mの未踏峰がまた現われた。執念で撮影した山が次々に現れる。ドゥンリガルポ。この山の写真をとるだけのために3週間もかけたのだ。紹介される山のどれもが美しい。そんな数々の山の中で、中村さんの一番のお気に入りがネナン峰6870m。麓は氷河に覆われ、このあいだもアメリカ隊のチャレンジを退けた。

◆そんな未踏の山々の麓の村では、子供がたくさんいて、とってもフレンドリー。外国人が初めてきた!と村人に歓迎される。狼も撃退する獰猛なチベット犬。鳥葬の場面では肉団子(注:くだいた人骨をツァンパでくるんで食べやすくする)を分けてもらうために、おとなしく待っているハゲワシたち。冬虫夏草を取っている現地の人たち……。エピソードも豊富だ。そんな静かな村々の景色の上にも、未踏の山々がそびえている。“晴れ男”の中村さんが撮ったどの写真も蒼空をバックに雪の山々がくっきりと浮かび上がっている。欧米の登山隊に「おまえのカメラを貸してくれ!そしたらブルースカイの山の写真が撮れる!」と言われるくらい。

◆塩井の村では、川底から塩水が出ており天日で塩をつくっている。そこには温泉もあり、若いお嬢さんもたくさん入りにくるらしく、その撮影にも成功する。見つかってカメラを没収されるのもいやだし、ちょっと離れて500ミリの望遠レンズで大変苦労してとった写真なのだ。それって??と思うのだけど、中村さんの興味はただ山の記録だけではなく、麓の人々の生活文化まで留まるところを知らない。

◆ラサから東に向かっていた山々と人々のスライドショーも、チベット文化圏の一番東の端っこに迫ってきた。美人がたくさんいるので美人谷と呼ばれる町では、美人の写真が必要だ。泊まった宿のお姉さんに民族衣装を着てもらい、やらせだけど美人の写真なんかが披露される。とりあえずこれでスライドショーはおしまい。もはやあまりにもたくさんの未踏の美しき山々が紹介され、このレポートにいちいち書ききれない!

◆中村さんは65歳で仕事を退いてから日本山岳会に復帰するが、自分でテーマを見つけてプロジェクトを遂行することが好きな性質で組織を束ねるのは大の苦手。10年前にアメリカンアルパインジャーナルの編集長が日本にやってきて、日本の登山界は世界に孤立し情報の発信がない!と聞き、じゃあ俺がやってみるか、と日本山岳会の英文ジャーナル誌「Japanese Alpine News」を創刊し編集長となり、登山や探検・冒険・学術調査など日本人の記録を世界中に発信し続けてきた。(安東のシベリア横断も2004年と2006年号に載ってるよ!)地平線の報告レポートだって、英語で発信できると世界がきっと広がる。でもそれは大変なことなのだな。中村さんはそれをなしてきた。価値ある仕事である。

◆このジャーナルがドイツで本を出版している人の目に留まった。日本じゃ写真集は売れない。でもドイツではいい本は売れるという。1年半かかって写真集は完成した。50ユーロという安い価格が可能なのは、出版社のケルン大学医学部出身のサイコセラピストであるペドロ氏自らこの本つくりに夢中で、レイアウトも地図作成も色調整も自分で行なったから。中村さんは王立地理学協会でのメダル授賞式に完成したばかりのこの本を持っていき、プレゼントした。次にはいよいよ英語版の制作が待っている。

◆中村さんのライフワークは国境を越えていろいろなところでつながってゆく。探求の人は決してあきらめたりしない。フロンティアスピリッツとでも言うのだろうか。パイオニアワークと呼ぶのだろうか。地球にはまだ計り知れない謎があり、そこをロマンの領域と呼ぶ。探検はまだ終わっておらず、ぼくらはまだ道の途上にいる。未知なる山々は存在し、課題はあちこちに転がっている。新しい発見は、すぐそこで、君に発見されるのを待っているのかもしれないのだ。聞きに来た人々に、きっとそんな思いを持たせてくれた報告会だったのではないでしょうか。(辺境案内人・安東浩正 7月7日四川省成都より)


報告者のひとこと

第一線での仕事を継続することが活力の源です

 13年ぶりの地平線会議でした。

 若者が多く活気にあふれた楽しいひと時でした。

 高齢化の時代、これほど若者がたくさん集うのは地平線会議とケンブリッジ大学山岳会だけです。

 日本山岳会の平均年齢は67歳、若手の入会者がないので、毎年1歳ずつ増えます。3年後は70歳、10年後には崩壊の危機に瀕するでしょう。人口予測ほど確かな統計はありません。

 今年は後期高齢者になりますが、自分のことを棚上げして言います。

 私の場合は、海外への発信と「ヒマラヤの東」踏査が車の両輪であり、見事に噛みあい多くの栄誉につながりました。

 それを可能にしたのは常に「現場」に身を置いてオンリー・ワンを目指してきたことです。

 第一線での仕事を継続することが活力の源です。

 今年の秋も東チベットの未踏域を探査し、「チベットのアルプス」英語版の編集に専念します。手垢のついた言葉ですが「生涯現役」でありたいと思います。

 江本さん、有難うございます。地平線会議の発展に乾杯!(中村保


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