2008年11月の地平線報告会レポート


●地平線通信349より
先月の報告会から

ニッポンはじっこ紀行

西牟田靖

2008年11月28日 新宿区スポーツセンター

■旅の道のりは“なにか”へと繋がってゆく。『誰も国境を知らない』。これは西牟田さんの近著の題名であると同時に彼の強いメッセージでもある。そもそも、国以前に島であり、国境以前に海である。島とは、そこに暮らす人々にとって、人生を全うする世界そのものであり、海は生活の糧を得る場所でもあるはずだ。国境ってなんだろう…!? 暮らしのなかで実感することは余りにも少ない。「何故、彼は国境を知るようになったのだろう?」と自然と興味がそそられた。

◆「はっきり言って、狭い日本には興味がなかった」と西牟田さん。大学時代よりザックを背負って世界を見てまわる旅に明け暮れながらも、その先々で出会った人達の自国の素晴らしさを語る姿に触れるうちに、「もっと日本のことを知りたい」という想いに駆られるようになってゆく。その想いは30才を目前にして益々強くなり、2000年1月、それまでのライター生活に一区切りをつけ、日本を知るため、自分の今後を見つめ直すために、50ccのスーパーカブで旅に出る。真冬の北海道を文字通り七転八倒しながらたどり着いたのは、子どもの頃から地図を眺めては憧れていた日本のはじっこだった。その岬に立ち、「その先を見てみたい」と感じたその直感に赴くままに、樺太・台湾をはじめ国境を越えつつ向こう側を見る旅へとシフトしてゆき、更には日本の旧植民地を辿る旅へとテーマ性は深みを帯びながら広がってゆく。

◆2002年、地平線会議の惠谷治さんの「君は竹島には行かんのかね?」という投げかけに触発され、日本人1人で参加した竹島周遊クルーズで衝撃的な体験をすることになる。船が島に近づきデッキに出ると、横断幕を掲げたり記念写真を撮っては、愛国心で熱狂する韓国人達で溢れかえっていた。その異様な空気にいたたまれず、気がつくと「島を返せ〜! ここは日本のもんじゃい!!」と叫んでいる自分がいた。これまで領土問題に特別執着していた訳でもないのに、何故あの時あの様な感情になったのか? その感情を確かめるべく調べてみると、他にも北方領土などの「海を隔てて隣国と対峙している島々」があり、この国の膨張と収縮の歴史のなかで翻弄され続けてきたという島の事実を知る。彼の想いは“自分の肌で国境を感じることで、今の日本の姿を見つめ直すことが出来る!”という信念へと変わってゆく。かくして、西牟田さんの国境の島々を巡る旅は幕を開けたのであった…。

◆その島々は実に広範囲に分布していて、排他的経済水域を含めると日本の海の広さは世界第6位なのだそうだ。また驚くべきことに、それらを正式に表記している地図はこの国に存在していないという。他国との間で領有を争っている島(北方領土・竹島・尖閣諸島)、行き止まりにさせられた島(与那国島・対馬)、大海原にぽつねんと浮かぶ島(沖ノ鳥島・南鳥島)、他国の実質的な領土になったことがある島(沖縄諸島・小笠原諸島)。なかには人の住んでいない島、日本からは行くことの出来ない島もあり、とても一筋縄で廻ることは出来なさそうだ。

◆北海道の岬から望めた北方領土には、見えない壁が立ちはだかっていた。日本の旅行会社は一切関与しない姿勢をとっている為、ロシアの旅行会社との交渉の末、2003年の秋、2泊3日の多額なツアーを組み立てて樺太経由で上陸することに(2006年にも渡航)。国境警備隊基地、レーニン像やロシアの戦勝記念碑、日本領時代の家、拿捕された日本の漁船…。映し出された風景には過去と現在、国と国とが交錯するような空気が漂っている。ひっそりと佇むアイヌの墓を眺めていると、「日本固有の領土」と主張するこの国に対しても違和感を覚える。一方民家では“笑っていいとも”がテレビに映り、一部のエリアではドコモの携帯電話も通じる。それ程に近い島なのである。かの有名な“宗男ハウス”は普段がらんとしている。すでに島民の大半は二世、三世の人達。「3年前と比べて確実に立派な建物が増えていた」。返還運動の衰退に加え好景気も手伝って、最近ではロシア側の統治が進んできているようだ。ホタテを振る舞う「密漁者」の男性は優しそうな人だった。国後島と根室は漁業の経済的な事情から持ちつ持たれつの関係が結ばれていて、北海道の水産関係者のなかには現状維持を望む人もいるという。

◆2005年、韓国では一般向けの 「竹島上陸ツアー」が始まった。島根県が「竹島の日」を制定(背景には漁師による漁業権の切実な訴えがある)したことに対して、その僅か2か月後に韓国側が更なる実効支配を強めようと盛り上がってのことだった。もともとこの島には数万頭のアシカが生息しており、日清・日露戦争の時代には軍需の増加に伴い、隠岐の漁師と韓国の海女さんが、夏の間だけ共同の小屋を建ておなじ海でアシカ漁を営んでいたのだそうだ。敗戦後にアメリカ保守派の、日本を属国化する思惑から国際的な争いの場になっていってしまった。

◆ツアーの内容は東島のコンクリートで固められた僅かなスペースに20分程滞在するというもの。西牟田さん、今回は韓国人になりすまして乗船するも、警備隊員による日本人への警戒が強く肝を冷やす場面も。通訳がいたのにまともに話を聞くことも出来なかったという。そんな緊張感のなかで撮った写真には警備隊の基地の宿舎や有人灯台が。岩礁にはアシカの姿は一頭も見当たらなかった。このように外側(実効支配をしている国)から入ることは一見デメリットに見えなくもないのだが、「いろいろな立場から見つめてこそ、見えてくるものがある」と西牟田さんは語る。

◆沖ノ鳥島は東京から約1700km、ハワイと同じ緯度にある日本最南端の島。西牟田さんは、この最も難所と思われる島に行くチャンスを引き寄せた。2005年に運良く石原都知事の視察ツアーに記者として同行させて貰えることに。その情報を掴むタイミングがあと3日遅かったら、国境の島々の旅の実現は叶わなかったと思う程に、重要な渡航であった。船に揺られること50時間、エメラルドの大海原に立つ白波の内側にいきなり蜃気楼のように現れたその島はたった4畳半程の岩だった。その周りはテトラポットに固められ、台風対策のネットが設置されている。1988年に島が沈まない為の護岸工事を東京都が約300億円を費やして行い、今もなおこの国の200海里の権益を守ろうとしている現場なのであった。そこまでして守るべきなのだろうか?  西牟田さんは考える。

◆与那国島の北に浮かぶ尖閣諸島は明治時代より開拓され、鰹節やアホウドリで産業が支えられ戦前は百数十人が住んでいたが、戦争が始まり衰退していった。やがて島の所有権は開拓者の子孫からある資産家の手に渡り、現在は個人所有の上陸の許されない無人島となっている。漁船で近づくことすらままならぬ現状から、なんと西牟田さんはセスナ機をチャーターし、島の上空を旋回しながら見るプランを決行。険しい山、荒い海、狭い陸地。鰹節工場の石垣や以前の船着き場に生活の名残を見たものの“人がいなくなるべくしてなった島”という印象を抱く。日本と中国との間という微妙な位置になければ、この島も見向きもされないのではと思うと皮肉を感じる。

◆フランス革命以降、植民地は世界中に拡散し、戦後の線引きによって、“日本のはじっこ”にさせられてしまった日本周縁の島々を巡り、幾度も行き来を重ねては、時代が残した足跡に直に触れ、様々な矛盾のなかで今を生きる島にまつわる人々の想いに耳を澄ませてきた西牟田さん。その道のりは、七転八倒ではなく七転八起。生半可では貫くことの出来ない“政治的秘境”をゆく旅でもあった。領土問題解決への兆しは、未だ暗雲のなかにある。竹島で沸き起こった感情も嘘ではなかったが、「完全にどちらかのものと決めてゆく必要があるのだろうか?」。現地にいると、日本政府は自然に問題が風化するのを待っているかのように感じることも。本も出してみて、日本人の国境意識の薄さをひしひしと実感しているという(尚、この本を出すにあたって、彼は読みやすさを追求する為に13回も書き直したというからすごい。予備知識の乏しい僕でさえ面白い程にのめり込める力作である)。報告後、向後さんから彼の旅を「探検とは知的情熱の肉体的表現」(動物生態学者で『世界最悪の旅−−スコット南極探検隊』の著者チェリー・ガラードの言葉)と讃える温かいエールが贈られ、報告会の幕は降りた。

◆僕は彼の話に聞き入るうちに、沖縄で聴いた唄声が聴こえてくるような想いがしていた。目を凝らせば、向き合っている“いま”から辿れる“なにか”があるはずだ。「本当のことをしっかりと見てゆこう」とする彼の旅の核心に胸を打たれた。今回、西牟田さんが“自分達に繋がる大切な視点”を示してくれたことが何よりの贈り物であった。その先は何処へと繋がってゆくのだろう。彼の歩んでゆく軌跡から、さらなる光が降り注ぐことを心より期待している。(車谷建太


地平線報告会を終えて

「報告会と報告会のあいだ」

■自分の国の領土なのになかなか行けない日本の国境を片っ端から行って回った様子をレポートしたのが今回の報告会です。手段を尽くして行って回る過程を話すことで、日本の国境というなかなか見えない存在を浮き彫りにしようと思い、話させていただきました。自分なりに頑張って構成を考えたり、写真をそろえたりと準備をしっかりとやった上で報告会に臨んだのですが、参加していただいた皆様、楽しんでいただけたでしょうか。

◆前回、報告させてもらったのが2003年7月のことですから、今回の報告会までの間に5年あまりの歳月が流れたことになります。今回の報告会は自分自身がどのように変わったのかを知るいいきっかけになりました。興味があれば際限がなく追求してしまう思考・行動のパターンや胴長短足で目の細いちんちくりんな外見といった僕の基本的な部分はあの頃のままでしたが、自分の心のあり方がすっかり変わっていることに気がつきました。

◆前回、報告会をさせてもらったころの僕は井戸の底から地上を見上げているようなところがあり、エネルギーでいっぱいになっているのに表現する言葉を持っておらず、いつも焦ってばかりいました。しかし今回は心に余裕があり、前回の自分とは違う自分になったんだという手応えを話しながら得ていました。前回のように、あがってしまって自分を失い沈黙するといったことや考えを言葉で表せないもどかしさに嫌悪感を覚えることは実際ありませんでした。

◆報告会と報告会のあいだに経験したことを振り返ってみると、身の回りに大きな変化があったことに気がつきます。片っ端に旅をしていきテーマを浮き彫りにするという手法をある程度確立することができましたし、各メディアから取材されることで自己を紹介することに慣れました。取材を積み重ね、つらい執筆生活を何度か乗り越えたことでつかみ取った心の余裕といえるものかもしれません。

◆反省点は二つ残りました。それはスタートが遅れたことと、話の内容のペース配分がまったくうまくいかなかったことです。おかげで最後は尻切れトンボになってしまいました。僕がなぜ旅に出たのかというより、現場で何を見て、どういったことを体験したのかについての話をもっと話すべきでした。

◆次回、話す機会を与えていただけるときまでには話し方をもっと磨いておきたいと思います。(西牟田靖


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