2008年5月の地平線報告会レポート


●地平線通信343より
先月の報告会から

南極デスマッチ

永島祥子

2008年5月30日(火) 新宿スポーツセンター

■地平線通信史上初!? 1年以上にわたり連載されていた「南極レター」。毎月、遠い南極から届く越冬隊の知られざる生活あれこれにわくわく。これを書かれている永島さんってどんな方なのだろう? と、興味津々だった人は多いはず。かく言う私もその一人(というかすっかり永島さんファン)。なので「江本さんにまず自分の話をして欲しいと言われたので、話します」と、少し申し訳なさそうに永島さんが自分の事を話し始めた時は待ってました!、とかけ声をかけたい気持ちでした。

◆野山を駆け回って遊ぶ子供だった。人づきあいが苦手で、自然の中にいるのが好き。人に接することなく出来る仕事をしたいと、入学した京大では地球物理学を専攻したそう。しかし、授業が難しくてさっぱり判らない! 最初に勧誘された競技スキー部に入部すると、初合宿から帰ってきた5月には「もう勉強はいいや、4年間スキーをやろうと決めていました」というからすごい。すっかりスキー三昧の大学生活を送り、4年生になると他の人が就職活動する中、研究室の教授に「冬はスキーをします」と宣言。秋に卒論を終わらせ、シーズン丸々練習に打ち込み、ついには国体に出場!!「しかしとことん自分を追いこんで煮詰まってしまい、楽しくなかったし、よい滑りが出来なかった」。

◆その後、親や指導教官に勧められ大学院に進んだ永島さん。スキーは楽しく滑ることにし、山にも行った。2度目の国体に出場すると、前よりよい滑りが出来、スキーを通し「なんでも楽しくやったほうがいい」と学んだそう。さて「南極越冬隊」との出会いは、たまたま同じ研究室の女の子が南極で使用している、世界的にも数少ない重力計を使った研究をしていたことだった。彼女のところに最初に南極に行くチャンスがあるよ、という話が舞い込み、「一人じゃ不安だから、一緒に越冬しよう」と誘われた。「南極にいつか行ってみたい、がんばって勉強しよう!」と永島さん、勉強に開眼。すると「いつか」はすぐに来て、42次隊(00年出発)に参加することになった(この時の体験については今回は話されなかった)。

◆帰国後(大学院に復学。博士後期過程を終え、博士号を取得した後)、モンベルに就職。研究は嫌いではないものの、研究者という世界で生きていくことに自分が向かないと感じたからだという。30歳、新卒でも中途採用でもない就職活動では「道を外れる大変さ」が身にしみたけれど、「それでも、自分のしたくない仕事はしたくないという思いが強かった」。

◆今回、48次隊(06年11月出発)で2度目の越冬することになったのは、06年7月にかかってきた1本の電話から。「南極に行ってくれないか?」隊員は普通1年前に決まるのに、よっぽどのことだ。欠員が出て経験のある永島さんが必要だ、と頼まれたらしいが、その時永島さんは結婚1年目、モンベルの広報部に異動、石川県と大阪での2か月の研修を終え、もうすぐ家に帰れるというタイミングだった。「正直、その頃は早く家に帰りたくて仕方がなかった」(2次会で永島さん談)けれど、電話があった夜じっくり考え「自分の気持ちとしては行きたい、と決めました」。

◆というわけで、家族と会社のOKももらい、地圏隊員、野外副主任として48次隊35人の一人となった永島さん。ようやく南極での報告話となる。「南極観測は国家事業です」という説明や、隊の組織図、南極の地理の表示の後、写真がたくさん。今年でお役ご免となった「しらせ」(「しらせ」を運航する海上自衛隊の南極観測に対する貢献はもっと評価されてもいいんじゃないか、と永島さんは言う)に昭和基地。他には、たたんでも2.8m、重さ14kgもある「ピラミッドテント」。モンベルが改良したくて、うずうずしちゃいそうな一品だが「嵩張るし、寒いけど、南極らしくて結構気に入っています」。それから、42次隊で冬明けのもっとも寒い季節に内陸へ燃料デポの旅行に行った際、ひと月半、共に行動し、そこで生活させてもらった思い出の車「SM112(えすえむ、ひとひとふた)」や、隊員たちの後方に「SM100」という、一番大きな雪上車を12台もずらり集結させた迫力の写真も。

◆極地での野外活動についての話になって、少し口調が変わった。細かなケースはここではふれないが、いろいろな厄介があるらしい。普段はまったく安全に見えても、ひとたび悪天につかまれば、何があるか判らない南極だ。気ままな行動は許されることではない。まして永島さんの役割のひとつは「安全管理」。時には厳しい決断をせざるを得なかった、と噛みしめるように話す。

◆その後は「沈まぬ太陽」の(地平線すれすれを太陽がぐるっと一周している!)写真が登場。夏の白夜は夜がなく「残業し放題」とのこと。夏期間中は、やるべき作業がくさるほどある。そう、「南極レター」にも書かれていたけれど、永島さんは「残業の女王」だったのだ! コンクリ打ちに励む永島さんの写真、なんだか生き生きして見える。

◆夏も終わりに近づく2月1日は、越冬交代式。47次隊と向かい合い、48次隊が全権を委譲される瞬間の写真もあった。15日には最終便がしらせに戻り、48次隊だけの生活に。3月になると、海が凍り始める。「私はやっぱり白い世界が好き」

◆その頃、休日に「遠足」が企画された。計画書を見ると、目的地は往復4時間程度はかかりそうな場所。天候が荒れれば1日帰れないこともあるかもしれない。なのにある専門家が2人とも参加するという。その間に基地でなにかあったら、どうするのか。「1人は基地に残ってほしい。みんなで話し合わないうちに、前例を作らないで」と主張したが、計画は通ってしまった。当日は天候が悪く結局途中で引き返すこととなったが、「もしそれ以上進むと決まったら、自分は1人を連れて戻るつもりだった」という。

◆「おかしい」と思ったときにその場でひとつひとつ解決していくこと。うやむやにしない。これをきちんと繰り返して越冬を進めていくことが本当に大切なんです、と永島さんは言う。マニュアルが効く場所じゃなく、皆で考えていくんだ。永島さんが言い出さなかったら、どうなっていたのだろう。ぐっと聞き入ってしまう。

◆しばしの休憩を経てさあ、後半。まずは、基地内で作っているかいわれの写真と隊員が日替わりでマスターになるというバーの写真。このバー、お酒が飲み放題なのだ!(と言っても、みんなのお金で買い込んで来ているからだけど)。そして、6月のミッドウィンターのお祭り。太陽の昇らない極夜を乗り切ろうと開かれる、年に一度の大イベントだ。巨大露天風呂に風船ジェスチャーゲーム、仮装ディナーと楽しそうな写真が次々に。それはまるで「大人の文化祭」。「南極では、どこまで真剣に遊ぶのか、というくらい真剣に遊んだ」と永島さん。

◆最も気温が下がる8月になると、南方(90キロ先のスカーレン)へのルート工作が始まった。一度の観測旅行は8人ほどで行われるが、35人1度は連れて行けるよう調整しながら、永島さんはリーダーとなり、7つの計画を立てたそう。10月には50cmの氷の上を「道板」を使って雪上車を通すことも(2台は通れ、3台目は別ルートを探したそうです)。この月は天気が悪く、スライドに映された気象のグラフを見ても、ほとんどが風速10メートル以上。待機か行動か、決めるのが、一番難しい状態だ。初日の宿泊予定地から予定通りには行かず、2つ目の宿泊地で3日間のブリ停滞。やっとの思いでスカーレンまで辿り着くも、翌朝5時にはスカーレンを出発し、時速10キロの雪上車で9時間、ブリザードの合間をぎりぎりぬってなんとか基地へ帰ってきた。後からしか判らないことだけれど、この時の判断はよかったと思う、と永島さん。

◆12月中旬になると、49次隊が到着。難しい旅行も終わり、少し気が楽になった。しかしこんな濃密な時間が南極では毎年繰り返されているのか。なんだか、くらくらしちゃう。1年を通し、160日間も野外におり、野外が越冬の中心と言ってもいいくらいだった永島さん。勿論、本来の仕事以外にも熱心で、ずーっと海に仕掛けをし続け、狙うは「ライギョダマシ」。12月4日、念願の日本新記録(138cm、35キロ)を釣り上げた。最後に、その、大きすぎて慌てたあまり左右逆にとってしまったという魚拓を開帳して、報告終了。永島さん一人では掲げられず、江本さんがいそいそと前に出る。「大きい!」と驚く江本さん(と会場一同)に、永島さんは「なんか臭い」と、ぽつり。南極から持ち帰って、初めて開いたんだそう。

◆会場には南極関係の仲間も駆けつけており、旦那さんの姿も! 今は日本の生活に戻るので精いっぱいという永島さんだけど、次はなにをされるのか。また南極に行かれることもあるのかな。自然にも、人にも、自分にも、しっかりと向き合い、一つ一つ全力で対していく永島さんにほれぼれ。引き込まれ、あっという間に時間が過ぎてしまった、報告会でした。(加藤千晶 「野宿野郎」編集人)

[報告者のひとこと]

■「地平線報告会」が無事に終わってホッとしています。実は外部の講演会(報告会)で南極の話をしたのは初めてでした。42次隊で行った後は、大学のゼミで報告をした以外は特に講演依頼もなく、私の方も何もなくてラッキーというくらいで済ませてしまいました。

◆42次隊では訳分からず南極に行って、いろいろな経験をして、見て、学んで、考えて、さてこれからどういう進路をとろうかということも含めていろいろと悩みました。42次隊での活動を通して、初めて南極観測に対する自分なりの印象を抱いたわけですが、その中で今でもはっきりと覚えていることが、南極観測で日本が何をやっているのかということを、身近な人に、そして国民に、もっときちんと伝えなければならないという思いでした。

◆48次隊で行くことが決まったとき、3つのことを決めました。ひとつは、依頼された観測をきちんとこなすこと。もうひとつは、隊の安全管理(暗に頼まれた事柄でしたが南極に行く決意を固めた最大の要因でした)。そして最後のひとつが、南極観測の広報でした。報告会でもお話ししたように、昔から人付き合いが得意だったわけではありません。人前に出たら出たでそれなりに何とかなってしまうのでほとんど信じてもらえませんが、人前に出ることも、話すことも、メディアに出ることも、決して好んでやりたいことではありません。

◆でも、25歳だった私が27歳で帰ってきた42次、31歳だった私が33歳になって帰ってきた48次、その結果として、女性初の2回越冬経験者。たった足掛け8年のことですが、それなりの年月を経て、その間に知人の数も幅も増え、自分自身の意識も少しは成長しました。

◆好きとか嫌いとか、得意とか不得意とか、そういうことを越えてやった方がいいこと、自分にしかできないことがあって、そういうことはやらなきゃならない、もう逃げてばかりはいられない、と感じています。望んでなったわけではない初の2回越冬女性ですけれど、現時点では日本の中で1分の1なんですね。そのことはやっぱり自覚しなきゃダメだと思っています。

◆初めて公の場で話した地平線報告会。思ったとおり、伝えきれないこともあったし、伝えたいニュアンスで伝えられないこともありました。いろんな意味で不十分でした。でも、やらせてもらえてよかったし、やってよかったです。これからどうしていくか、正直言って、再び悩んでいます。でも、ひとつだけ決まっています。私にできることとやった方がいいことはやっていこうと思っています。これから少しずつですが、報告会や講演会で南極の話をする機会があります。まずはそれをがんばりたいと思います。(永島祥子


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