賀曽利隆さんが、300日3000湯の温泉地を巡る旅から帰ってきた。1日10湯のハイペースで全国各地の温泉をこなすというのは、まったく想像を絶する。こんな無茶な旅は、バイクでしかできないだろう。列車やバスの時間に縛られ、その待ち時間を楽しむバックパッカー上がりの私からすると、自由自在にバイクを操り、好きなときに好きなところへ行けるバイク乗りは理解を超える存在だ。その頂点に位置する賀曽利さんの無謀な挑戦の結果に興味を持って報告会で耳を傾けた。
◆東京・日本橋を出発した2006年11月1日は、不安で一杯だったという。2か月かけたシルクロード横断ツアーの直後で、西安を出てからくしゃみが止まらない。もともと花粉症持ちで敏感体質の賀曽利さん。それが治りきらずにスタートすることになった。体調の不安を克服することが、今回の旅のテーマのひとつでもあったようだ。1998年の年末には心臓発作に襲われ、3か月の療養を余儀なくされた。医師には原因がわからず仕舞いだったが、賀曽利さんはそれが青森へのツーリング中、八甲田で1日に10の温泉に入ったせいではないかと思っている。ハシゴ湯がいかに自分の心臓に負担をかけるか、その限界がわかった上で、今回の「1日10湯」はどうしてもやりたかったことでもあった。
◆サハラ砂漠縦断から、世界一周、六大陸周遊へ。賀曽利さんは20代の大半を世界中を走ることに費やした。それが30間近になって、厚い壁が立ち塞がった。「命をかけて世界中を旅してきた自分が何だったんだろうと、急にむなしい気分になった。そのとき、はたと目が行ったのが日本だった」。最初にアフリカから帰ったとき、観文研(日本観光文化研究所)を訪れ、「どこからでもかかってきなさい」の三輪主彦さんや仲間たちと原稿や写真の腕を競ったのが原点になった。
◆「20歳のときは、日本という国をすごくバカにしていた。なぜアフリカへ行くのか聞かれるたびに、こんな狭いところいられるかって答えて、鼻息を荒くしてアフリカに飛び出していった。30代で初めて日本一周をして、『日本は広い』って思った。北海道から鹿児島(この時は沖縄には行かなかった)、亜寒帯から亜熱帯まで、構造線に沿って果てしなく続く山並み。それまでの自分がいかに日本を知らなかったか‥‥」。その日本を観る目も観文研で培われたようだ。「世界一周やサハラ縦断はわかりやすいが、『日本一周』となると、さて、どこから手をつけたらいいのか。すぐできることを考えたら、『温泉』と『峠』になった。峠は山と違い、人が越える道がないと峠にならない。日本には至るところに峠がある。同様に日本ほど温泉の多いところはない。だからこれからは『全峠制覇』『全湯制覇』だ、と」。それが1975年のこと。
◆ちなみに峠のほうは現在約1600峠だが、これは賀曽利さんの影響を受けて峠巡りを始めた主婦ライダーの“もんがぁ〜里美”こと古山里美さんがいつのまにか追い越してしまい、1700峠近くを極めている。もっとも全国の峠も3000近くあるというから、「全峠制覇」の先はまだ長い。
◆「全湯制覇」を目指す温泉の数え方は、湯船の数ではなく、温泉地の数が基本だ。草津温泉にはいくつも共同浴場があるが、それをいくらハシゴしても「1湯」。また、何度通っても「1湯」としか数えない。300日の出発前までに1721湯。ここ数年は年100〜200回入っても、新たに20〜30しか追加されず、「全湯」にはほど遠い状況。1975年に思い立ったときには楽勝だと思っていたのが、一生かかっても無理に思えてきた。
◆それが、ブログにも「K氏」として登場する昭文社の編集者、桑原和浩さんのアイデアで一転する。「賀曽利さん、この際、まとめて温泉に入りませんか」。この「悪魔のささやき」から「100日1000湯」の企画が上がり、賀曽利さんも急遽3か月強のスケジュールをすべてキャンセルして備えたが、あえなく没に。
◆昭文社は温泉がらみの商品をかなりの数出していて、売れ筋のひとつになっている。名所旧跡と違い、温泉は実際に入らないと良し悪しがわからない。それで「100日1000湯」を考えたが、パンチが弱かった。それまでの賀曽利さんが入湯したのが1700湯ぐらい。日本には3000湯ぐらいあるんだよね、と話しているうちに、じゃあやろう、ということになった。賀曽利さんの宣言をケータイのカメラで録画して、取締役を説得した。「3000というのは全部の温泉の数。地図の昭文社、温泉の昭文社として、やるべきじゃないですか」。それで進めよう、ということになった。(昭文社制作本部・桑原和浩さん)
◆スタートから3000湯まで1年がかりのプロジェクトだが、365日ではなく、「300日」としたのには訳がある。スポンサーが負担するのは、3000湯にかかる費用実費のみ。一家の主、その間にも少しでも稼がないとならない。そこで、全行程を8つのパートに分け、合間に10日ずつ神奈川の自宅に戻って、その間に溜まった原稿を片付けることにした。但し、それがこなせたのは気力の充実していた最初の2、3回だけで、あとはとてもそれどころではなかったようだが‥‥。
◆ともあれ、11月21日には関東編20日間に続いて、甲信編の旅に突入していった。本来冬の雪道ツーリングは大好きなのに、今回の温泉めぐりの旅はつらかった。冬の夕暮れは早いが、それでも夜9時、10時まで寒風をついて走る。「温泉で体が最高潮に火照っているのが、氷点下の外に飛び出していった瞬間、体がバリバリ音を立てて収縮していく。血管がキューンと縮まっていく。それでまた温泉に入って2、3分すると体の芯まで暖まる。芯までホッカホカになった状態で外に出ると、バイクに乗った瞬間にまたキューン。それを1日十何回も繰り返す……」。
◆春は春で花粉が天敵。くしゃみ10連発、鼻水タラタラ。走っているうちはそれが止まらないが、それが温泉に入ったとたんに和らぎ、楽になる。何という温泉の効能。梅雨が明けると今度は猛暑だ。本州東部編の後半、8月上旬に山形県に入ったときには村山盆地で38度。そんな中で賀曽利さんは湯温が高い温泉ばかりを回っていた。「湯疲れして、とにかくつらかった。腰が立たない。バイクにしがみつくような感じで走り出すわけです。頭もフラフラ。よく事故が起きなかったと思う。本当に真似しないでください。危ないです」。
◆今回の日本一周は、4台の携帯を駆使してリアルタイムでインターネット上のブログにその行動が伝えられている。それを元に賀曽利さんを追いかける「カソリキャッチャー」が、彼の旅を盛り上げている。
◆大島に行く船で賀曽利さんを見つけたが、レンタバイクを借りているあいだに見失ってしまい、伝言も伝わらず、島内にいた6時間、一度も賀曽利さんに会うことができなかった。ことごとく勘が外れてしまい、最後に会ったのが岡田港。賀曽利さんは既に帰路の船上に。この「薄情者!」と叫んだ。こんなことをやっているのは人間のようで人間じゃないと思った。やはり「温泉行者」だと思う。(uzakiyoさん)
◆1湯ほぼ30分。湯船につかっているあいだにも、完全防水のCASIOケータイを駆使し、写真とコメントで「速報」を発信していく。同浴の客と「湯中談義」が盛り上がれば、時間を気にせずに付き合う。会話に知らない温泉の名前が出てくるとしめたものだ。1日10湯のペースで温泉をハシゴしていくが、パンクなどトラブルに遭ったり、目的の温泉が閉館していたりすると、5湯、6湯ということもある。数を稼げる日はできるだけ多くの温泉地を回る。今回の旅以前にも東北で1日18湯、九州で17湯とハシゴ湯をしたことがあったが、賀曽利さんにとっては「20湯」が大きな壁だった。それが5月22日、鹿児島県霧島から天降川沿いの温泉群で1日20湯を達成。「本当に嬉しかった。わけもなく『オレはやったゾー!』と有頂天でした」。その勢いで東北へ。今回の最多記録は知る人ぞ知る温泉密集地帯の津軽平野で27湯だった。
◆「湯上がり速報」のほか、毎晩1日分約30枚の写真を選び、原稿用紙10枚の原稿を書いて送る。大変なのはケータイの電波が弱いときだ。いつもなら10分程度で済むのが、7時間かかったこともあった。しわよせは睡眠時間に及ぶのだが、そこは「眠りの天才」カソリ。夜、布団に入れるのは3、4時間しかないが、どこでも眠れる。名付けて、10分寝、5分寝、1分寝。最短は信号待ちの「3秒寝」‥‥。枕は雨具でもコーラの瓶でも何でも良い。眠くなったピークをとらえて眠り、決めた時間ぴったりに起きる。「これ以上の快楽はない。目覚めた瞬間、すべてが光輝いて見える。隣にどんな嫌な奴がいようと、許してしまう」。カソリ温泉教の神髄はここにある。全国各地、行く先々で訪ねた家に「民泊」した観文研所長の宮本常一さんに対し、賀曽利さんの「3秒寝」のルーツには20代からの1000夜を超える野宿体験がある。どんなところでも寝られる。そして、危険の予兆をとらえてその瞬間に目覚める。凡人が失ってしまった野生の能力を、賀曽利さんは取り戻したように見える。そうして、今年10月31日、とうとうゴールの日本橋に戻ってきた。入った温泉の数、3063湯。もちろん前人未到の「記録」である。
◆賀曽利さんは、今回の約1年間の途中で還暦を迎えた。赤いちゃんちゃんこ、ならぬTシャツを着ているのはそのためだが、その誕生日まで、60歳になるのがものすごく嫌だったという。「冗談じゃないと思った」。北海道に渡った9月1日、函館でカソリキャッチャー2人から、60本のローソクがついたバースデーケーキ、そしてこのTシャツをもらった。「この2点セットで急に『還暦』が輝いて見えた。よーし、やってやろうじゃないかと思った」。還暦というのは、暦が戻る、ということ。賀曽利さんにとっては旅人生の始まりだった20歳に戻るような感じがしたという。「いま思うと視野が狭くて、肩に力が入っていた。世間知らずで、すぐ疲れちゃってた。いま競争したら、いまのカソリのほうがはるかに行ける。無駄な力を使わなくても済むようになったからね。もう20歳のカソリはぶっとばした。それが偽らざる気持ち。あと10年はぶっとばし続けられるゾー」。冒険王カソリ、恐るべし。
◆報告会の直後、12月2日から今度は賀曽利さん、南米に旅立った。リマから南下して、ウシュワイアで新年を迎え、1月末までかかる旅。賀曽利さんにとって22年ぶりの南米。来月の報告者、白根全さんから「この20年で相当変わっている」と聞かされ、その変化を楽しんで見てきたいと応じた。身近な温泉旅も賀曽利さんにかかれば、とんでもない「冒険」に昇華してしまう。「走る 浸かる 効く」のカソリ、「がんばるゾー」とまた南米に飛び出していった。(落合大祐)
日頃なかなか参加できなかったけど、今回の報告者は賀曽利さんと聞けば、これはゼヒとも参加したい! 会社の休みを調整し、使い道のないiPodを売り払って資金を調達。最後に一番大切で難関?のカミさんを説得して、なんとか参加のメドを立てる事ができたのです。本来ならば久しぶりの東京なので、ゆっくりと見物しようかなと思っていると、最悪な事に翌日は仕事が!! 結局バス使用の日帰り0泊2日の強行軍での参加となりました。確か以前の四万十でもこうだったような……?◆とりあえず東京行きの一番安い高速バスに乗って、イザ出発! ところが運の悪い事に乗ってたバスが静岡付近で故障して立ち往生? なんとか代車に乗り換えて、約3時間遅れでようやく東京に辿り着いたのでした。友人と合流し、そのまま今回の会場へ一直線。江本さんはじめ懐かしい面々との再会を喜びながら、賀曽利さんの到着を待ちます。でも開始時間が近づいているというのに、一向に賀曽利さんが現れません。
◆江本さんが「しまった。通信なんて見るヒマなかっただろうから、もしかすると前の会場に行っちまったんじゃないかな?」と言っていたのに思わず納得していると、ひょっこり賀曽利さんが登場! 熱い抱擁を交わし合って、久しぶりの再会を喜び合いました。さあ、お待ちかねの報告会が始まりました。今回は賀曽利さんの意向で、写真のスライド表示無しで進めていくとの事。前半は300日3000湯に至るまでの様々なエピソードからのお話です。すでにそこから賀曽利さんのマシンガントークが大炸裂していますが、聞いていても少しも疲れません。それどころか、どんどん賀曽利さんの話の渦の中に吸い込まれていくかのような、そんな心地よさの中、あっという間に前半が終了!
◆少しの休憩のあと、いよいよ本題の後半戦に突入、今回の旅のお話へ。旅の裏話や、寒さや花粉症・真夏の暑さ等に悩まされ苦労した事。そうした苦労でも旅の糧に変えていける、苦労を苦労のままで終わらせていないと感じさせるのは、賀曽利トークの成せる技なのでしょうか? ハラハラしながらもとても楽しく話が進んでいきます。また僅かの時間で確実に睡眠時間を確保でき、通常の睡眠不足を補う方法については、僕も野宿を経験した中で何度も実践していますが、賀曽利さんのように『停車中の5分寝』については、さすがにまだやってません。3秒爆睡モードも現時点では10秒かかる僕は、まだまだ『カソリック』を極めるまでには至っていないと実感しました。
◆そして今回の旅をサポートしてくれたネット読者の方々の紹介へと、話が進んでいきます。そんな中の一人として僕も壇上に紹介頂いたのですが、他の皆さんと比べればほんの僅かなお力添えしかできずに、とても恐縮でした。少しだけだけれど賀曽利さんの旅を応援できた、それだけでも僕は十分に嬉しかったんですよ。賀曽利さんはどんな人にも感謝の気持ちを忘れず、笑顔で接してくれます。そんな所からも賀曽利さんの心の広さが判り、そこを慕ってたくさんの人が集ってくるのだと思います。決して雲の上の存在ではなく、身近な偉人、それが賀曽利さんなのです。
◆最後に次回の南米旅の紹介へ。次回と言っても出発はなんと明後日の12月2日! ホッと息つく間もなく次の旅に全力を注げるパワーがまだまだ衰えていないとは!それよりも仕事とはいえ、奥さんをどうやって納得させたの? 還暦を迎え、普通の人なら『新たな人生の始まり』なんて言っている所でも、賀曽利さんにとっては『毎日が新たな人生の始まり』と言った所でしょうか? 追い越したい、追い越せない……、まだまだ僕はかないませんねぇ。
◆時間が経つのも忘れてしまうかのような報告会も終わり、さあお楽しみの2次会へ。『成都』の料理、おいしかったですよ! ギョーザもボリュームたっぷりで大満足の夕食でした。賀曽利さんは一足早く帰宅の途につくそうです。恒例の『万歳三唱』でお見送りです。いってらっしゃい、賀曽利さん! 僕も夜行バスの時間が迫ってきたので、宴の席を離れる事にしました。江本さんをはじめ皆さんにお礼を述べて、友人2人と新宿西口側のバス乗り場へ。定刻より少し遅れてバスは名古屋へと出発したのでした。夜風を切って走るバスのカーテンを上げると、夜空に煌くは『オリオン座』。ああっ、賀曽利さんもこのオリオン座を眺めながら、旅の眠りに就くのかなあ? ……って今度の旅は南半球だから、オリオン座は見れないか〜!? (愛知県住民・ワニーこと鰐淵渉 296回報告者)
先月の報告会には大勢のみなさまに来ていただき、ほんとうにありがとうございました。京都から駆けつけてくれた帰山さんのように、遠方から来てくださった方々も何人かいました。今回の「300日3000湯」の「日本一周」では100人近くの人たちが、日本各地で「カソリ捕獲作戦」に参加しましたが、成功した人のみならず、失敗に終わった人たちも多くいました。そんな方々も先月の報告会に来てくれました。そのうちの何人かの方々にひとことずつ話してもらいましたが、それがすごくよかったと思っています。
◆「もんがぁ〜さん」は第1日目に早朝の東京・日本橋から夕暮れの奥武蔵・大野峠まで同行してくれました。「uzakiyoさん」は東京港・竹芝桟橋から一緒の船で伊豆大島に渡ったのですが、大島でのカソリの捕獲に失敗…。その悔しさ、無念さを語ってくれました。「ワニーさん」は、ひと晩泊まった名古屋の温泉ホテルまで来てくれたのですが、通勤途中でぼくが出てくるまでは待てずに、バイクに名古屋周辺のB級グルメの数々とメモを残していってくれました。「ヤキソバン鈴木」さんは山梨・石和温泉の日帰り湯に、「300日3000湯」のブログの速報を見て来てくれました。「いまさん」はゴール直前の10月27日、台風直撃の勝浦温泉のキャンプ場でおこなわれた「3000湯の夕べ」に来てくれ、翌朝、濁流の川で一緒に「渓流浴」をしたときのことを話してくれました。このように、「300日3000湯」の「日本一周」では大勢のみなさん方に出会った訳ですが、みなさん方からもらったパワーが自分の大きな支えになりました。
◆昭文社の「K氏」こと桑原さんも来てくれました。うれしいことに家族連れでした。「300日3000湯」の舞台裏の話に興味深そうに聞き入っているみなさんが多かったように思います。最初は「100日1000湯計画」だったこと、超アナログ人間のカソリに4台の携帯とパソコンを持たせたこと、700万の取材費を丼勘定でポンと出してくれたこと…など、ぼくが聞いていてもおもしろかったです。
◆桑原さんとの出会いは10何年も前のこと。まさに異色の人で前職の警視庁から飛び込みで昭文社に入社した熱血漢。熱き血の「九州男児」で「バイク文化の向上を!」が10何年来、変わらない桑原さんのポリシーなのです。そんな桑原さんと一緒になって、ライダーなら誰もが使っているロードマップ『ツーリングマップル』を立ち上げたのです。「地図に個性を!」。それがそのときの一番のコンセプトでした。今回の「300日3000湯」はその延長線上にあるともいえます。
◆『地平線通信』の報告会の案内はいつものように長野画伯の労作ですが、タイトルは「ハタチのカソリをぶっとばせ!」でした。なぜ、そうなのか、報告会に来てくださったみなさんはわかったかと思いますが、今回の旅の途中で「還暦」を迎えたのです。それまでは自分が60になることがいやでたまらなかったのですが、実際に「還暦」を迎え、「まあ、いいか…」で気持ちを切り替えると、体内に新たなパワーが湧き上がってくるようでした。還暦といえば「暦」が戻るわけですから、ぼくはそのとき思ったのです。自分が戻るのはあのとき、「20歳の旅立ち」のときしかない!と。そう思いつくと20歳のカソリに真っ向からの力勝負で立ち向かっていきたくなったのです。
◆ということで今日、これから、「南米・アンデス縦断」に出発します。20歳に戻った「還暦パワー」でアンデスの4000メートル級の峠を越え、烈風のパタゴニアを走り抜け、マゼラン海峡を渡ってフェゴ島の世界最南の町、ウシュワイアを目指します。ビーグル海峡を吹き抜ける南緯55度の風に吹かれてきます。(12月2日南米へ出発の朝 賀曽利隆)
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