2007年10月の地平線報告会レポート



●地平線通信336より
先月の報告会から

手負い熊大陸横断ミッション

風間深志
竹中信之

2007年10月26日(木) 新宿スポーツセンター

 2004年に300回を迎えた地平線報告会で風間さんのビデオレターが流れた。覚えておいでの方も多いのではないか。本来、風間さんは報告者として登場するはずだった。だがその年、22年ぶりにパリ・ダカール・ラリーに挑戦し、レース前に大事故に遭い、病院のベッドから動けない状態だったのだ。ビデオレターの中の風間さんの左足の周りには、輝く銀色の輪が3つ(当初は7つあったという)等間隔に並び、そこからいくつものワイヤーが出て、風間さんの足に突き刺さっていた。この治療法をイリザロフ法という(詳しくは後述)。本当に痛そうで気の毒で、そして怖くて、強烈だった。

◆今回、当時の撮影者である進行役の丸山純さんはそのビデオを短くまとめて会場に流してくれた。それから風間さんが登場した。風間さんは杖をついていた。私は自分で意外に思うほどショックだった。怪我をするとはそういうことなのだ。元通りにはならない可能性。風間さんは杖をついて前に出て「あのビデオのときより太ってしまった。趣味の山登りや渓流釣りに行けなくなりましたから」と話し始めた。1年ほどの入院生活を振り返って「軽い欝だったと思う。精神的に弱っていて、すぐに泣けた」。そして「病気をしないと健康のありがたみは分からない、1回ダウンして思い知ったからこそ言えることがある」ときっぱり言った。

◆風間さんは、バイクに乗る冒険家だ。1982年には賀曽利さんとパリ・ダカに日本人初出場(バイクでは)。大怪我で途中リタイアした賀曽利さんの分も踏ん張り、総合18位という快挙を成し遂げる。1985年エベレストに挑み、バイクで高度6000メートル到達という世界記録を樹立。1987年にはバイクによる史上初の北極点到達に成功する。その一方、体験を通して自然と調和する地域と人を実現しようと、仲間と共に、1988年から自然塾『地球元気村』を主宰し、村長を務める。風間さんいわく「かつては頂点主義だった」とか。バイクを押してでもガンガン進む、そういう乗り方だった。

◆22年ぶりのパリ・ダカで風間さんはアフリカステージのスタート地点に行く時に、大型トラックと衝突した。足が滅茶苦茶になった。モロッコの病院で縫合し、パリの病院にヘリコプターで運ばれた。パリの医者は素晴らしかったが、入院費は1日15万円!主治医に「日本の医療はすごいんだ」と力説して、早く帰国することにした。ところが帰国するには、完全に寝た姿勢で移動することが最低条件。つまりは医療搬送だ。さあこれにはエールフランスで500万円かかる。風間さんは「貧乏人は辛い。帰るに帰れない、いるにいられない、健康じゃないから逃げることも出来ない」と苦笑い。泣く泣く500万払って帰国した。

◆しかし最初の病院では治療が難航し、膝の皿を失った。日本の医療に対する不信感が強まった。新たな病院を探し、現在の主治医である松下隆医師と出会う。10か月苦しんだ足の向きが1週間で治ってしまった。「もし最初から松下医師にかかっていれば、今頃は走っていたかもしれないよ」とは切ないセリフだ。風間さんは、病院や医師による医療の格差に驚き、松下医師も格差があることを認める。「骨接ぎ、二の次」という言葉が残るように、特に日本の整形外科(外傷治療)の医療としての取り組みは、欧米に比べ遅れているのだ。松下医師は、運動器(骨や関節など)と外傷治療の大切さを身をもって知る風間さんに、このことを多くの人に伝えて欲しいと願う。

◆こうして風間さんは運動器の障害や病気に苦しむ人たちを解放したいというWHOの「運動器の10年」キャンペーンに賛同。世界の人々に運動器の大切さをアピールしようと、ロシアのウラジオストクからポルトガルのロカ岬までの18000キロをスクーターで走破することに。松下医師はこのキャンペーンの日本委員会の委員長だったのだ。なんて幸運な出会い。風間さんによると「松下先生の子分」となるらしい竹中医師もイルクーツクで合流し、スクーター旅仲間となる。

◆賀曽利さんがするような長旅を「ちょっと羨ましく思う気持ちもあった」と風間さん。キャンペーンのために各地の病院等に立ち寄りながらの52日間である。主たる目的地として3つ挙げられた。1つ目はイリザロフ法の中心地800床を有するロシアのイリザロフ・センター、2つ目は外傷センターが最も発達しているというドイツ。ドイツと日本の交通事故死亡率の差はかなり大きいとのこと。そして3つ目は事故直後にフランスで入院していた病院だ。

◆ここで旅の様子をまとめたビデオが流される。タイヤも含め何も改造していない大型スクーターで、東京−京都間の距離を毎日走り続けた。バランスを崩しても、地面をけって支えることは出来ないのだ。泥だらけのダートを進む風間さんの姿に、会場から思わず声があがる。だが転ばない。さすがに風間さんだ。シベリア横断道路が出来たというのでこの道を選んだのに、アスファルトではなく凸凹の悪路だったそうだ。イリザロフ・センターでは、合唱と花束で大歓迎されていた。患者さんは皆、風間さんと同じ銀輪をつけて、治療やリハビリに励んでいる。風間さんは「仲間」に会って、また笑顔になった。

◆続いて写真を見る。広い景色だ。世界を知っているような気がしたが、空も大陸もでかいなあ。道の振動、風をきるのを体で感じて進むのはいいなあ。たかだか太陽が沈むだけ、雲が流れるだけで素晴らしくて、旅するのが嬉しいよ。風間さんの話が写真にのる。草原に木が一本、泥だらけの道を行くバイク。もしかしなくても、地平線に関わる皆さんなら、こういう気持ちが分かるかも?日常でもきれいな景色に出会うことはあるけれど、旅先で見るあの太陽の、あの雲の、あの何とかのトキメキ。別物だ。あー、いいもの見た! という心が躍るような感じが、この旅で風間さんの中に生まれたと知って嬉しかった。

◆風間さんは自然についてさらに熱く語る。白樺の木がずっと続くこと、寒い土地なのに赤松まであったこと。鳥も動物もあんまりいなくて、草原が広がっていること。これは、毛皮やマントにするために全部獲っちゃったんじゃないか、というのが風間さんの説だ。ただ、草原になっているのは、徹底的に木を切って、シベリア鉄道の枕木にしたからだそうだ。それをしたのは残留日本軍だったと後で聞かされたという。

◆ホテルの前で拳銃を持った3人組に遭い、その日の宿がなくなったとき、偶然出会った牧場主の家に泊めてもらったり、バイカル湖畔では、年代物のバイクに乗った家族と出会ったり。写真の中の風間さんはいつもガハハと笑っている。声まで聞こえてきそうだ。あちこちで励まされ、キャンペーンのバッジを配り、西へ向かう。

◆休憩の後はイルクーツクから風間さんと共にスクーターに乗った竹中信之医師がマイクを握る。キャンペーンCMに続き、写真を見せながらお話。なんと15年間バイクに乗っていなかったのに、モトクロスレースのような道を、いきなり長距離駆け抜けたとは。大型トラックとすれ違う写真など、見ているほうが恐ろしい。交通事故が多発し、多くの検問が迎える道のりを竹中医師は行く。そして同行者として風間さんの姿を紹介。ロシア語が話せないのに、ロシア人のバイクレーサーと楽しげに話し合っている? 風間さんの写真や、ドイツにあるきれいでゆったりした病室に「こんなところに入院したい」と言った風間さんのエピソードには、会場から笑い声が起こった。

◆横断隊は2000m級の山越えをしながら、さらに西へ。フランスでの主治医は完治とは言いがたい風間さんの足の状態を見て、寂しそうな顔をしたという。お互いにとって切ない瞬間だったろうと思う。52日間の旅の最終地点は、ポルトガルのロカ岬。「ここに陸尽き、海はじまる」の石碑で有名な場所だ。VIP用の白バイに先導され、日本大使や日本人会の子どもたちに称えられる中、ゴール。「私にとっては大冒険でしたが、風間さんにとってはロングランだったのでは」と総括された。この後、風間さんから、竹中医師は昔オフロードのライダーでかなりの腕前だったこと、今回の旅でも「俺より上手いんじゃないか」と思ったことが披露された。

◆竹中医師は風間さんに施されたイリザロフ法についても丁寧な説明をされた。あの銀輪を使った治療法のことだ。これまでは、感染などにより骨の中で炎症が起きたとき、それが体中に広まらないように、足や手を切断した。しかしイリザロフ法では、足や手ではなく、骨の中の炎症が起きている一部分を切り取り、その空白になった箇所に新たな骨が伸びてくるまで、銀輪とワイヤーでやぐらを組んで周囲の骨を固定する。骨は1日に1ミリ伸びるから、待っていれば、いずれはくっつくという思いもよらない治療法だ。

◆竹中医師は「医師のゴールと、患者さんのゴールのイメージが違うと患者さんは悲しみを覚える」と語る。これは真理だろう。医師は、このレベルまで治れば成功と思うかもしれないが、患者にとっては元通りになることだけが成功だ。治療当初から「ゴールは何か」について、両者の意識のすり合わせをすることが、重要になるだろう。さらに、竹中医師は外傷における初期治療の大切さを説明し、日本にも大怪我に対応する外傷センターが必要だと力説された。早く日本のイリザロフ・センターが出来るといい。

◆来年以降も、風間さんの旅は続くようだ。アフリカ、オーストラリア、北南米からスカンジナビア半島を抜けてジュネーブへなど2010年まで毎年、走りながらの「運動器の10年」キャンペーンである。会場は驚きながらも、盛大な拍手につつまれた。この後、河田真智子さんから「娘の夏帆からです」という一言を添えて花束が贈られた。脳障害をもつ夏帆ちゃんは、お母さんと多くの人の愛情を受けて、この7月に20歳を迎えられたという。おめでとうございます。花束を手に、風間さんも嬉しそうに、河田さん親子の話を語ってくれた。

◆いい男と別れたり、色んな試験に落ちたりすると、私はもうダメよ気分で一杯になり、大変苦しい。苦しくてその時はそれしか考えられない。ぐちゃぐちゃともがき苦しんで、自分でも、もういい加減にしとけ、となる時期が来て立ち直る、を繰り返してきた気がする。風間さんのお話を身近なもののように聞けたのは、苦しみの程度は違えども、理解可能な心の話だったからだろうか。オートバイ冒険家の話は、心身ともに傷ついた人の話だったと思う。しかし笑顔の風間さんは、強者である。「怪我すると、心も傷つくんだよ」と語る人は優しくて強い。道が険しくとも、立ち上がり、前へ進む。これからも、ずっとずっと良い旅を!(後田聡子)


[報告者からのひとこと]

その1…[皆さん、相当な『旅オタク』と見た]

 「地平線会議」ーこれで何度目になるのか忘れたが、この夏に行って来た「ユーラシア大陸18000kmバイク横断」の報告会に出かけた。場所は新宿のスポーツセンター、雨の降る金曜日。会場となった二階の大会議室には僕の予想よりもずっと多くの、多分有に100名を越える「旅」の愛好家たちが集まった。このような旅好きの人たちを前にして、旅の報告をするというのは簡単なようでいてなかなか難しいものがある。

◆旅が一体どのようなものだったのか?は多くの人から興味の持たれるところだが「こんな旅でした」と言ったところでその価値観は人それぞれであるから恐ろしい、また手前味噌であってもまずい…、と色々な気を使うのだが、大切なのは「自分がどれくらい楽しく&没頭できる旅だったか?」を報告すればみんなはきっと喜んでくれるだろう。

◆そんな思いからはじまった報告会、動く映像と写真で美しいシベリアの自然や、竹中先生にも加勢してもらってロシアとドイツとフランスなどの高度な外傷医療に取り組むあちらの病院の様子、そして知られざるウクライナの美人の話し? で、最後はロカ岬の18000kmを走りきったゴールの感動的瞬間について報告させていただいた。恐れていた旅人達の反応は、意外にもこの会議に医師の登場は珍しかったらしく竹中医師の話には皆強い関心を寄せて聞き入っていてくれたし、僕のただのシベリアの上空を流れていた雲を見て思った「デッカい空と大地」の一言(ただ唸っただけ)にガッツン!と手応えの有る強い反応を感じたのだったが、う〜ん流石にここに集まった人たち、相当の『旅オタク』と見た。

◆そして、最後の最後を締める江本地平線会議代表、「出来れば買うように!」と云って薦めてくれた僕の持って行った本は全部売れるし、なんだかこの集団、江本学長率いる「旅の大学院」のようにも見えるのだった。二次会の中華、目茶旨かったです。ごちそうさまでした。(風間深志拝)

その2…[「できないと言うな!」と鍛えられて]

 今、大自然のシベリアから大航海時代の香り残るポルトガルのロカ岬まで到達しユーラシア大陸横断は終わった。僕にとっては、15年間のブランクのあるバイクにまたがったユーラシア大陸横断は大冒険だ。1日400〜600キロを走行し続けた。シベリアでは100キロ近くも悪路が続くこともあった。過酷な走行の末にたどり着いた見知らぬ町、その町に到着してから宿を探すことが大変だった。

◆やっと宿にたどり着いてもお湯ばかりか水も出なかったこともあった。ぬかるみの悪路をのたうつように穴をさけて走るトレーラーをすり抜けながら我ながらよく走ったと思う。僕は、いつも何事もその気さえあれば何とかなると信じている。いつもボスの松下隆教授から「できないと言うな!」と鍛えられたおかげで、何事にも挑戦的にやることが日常となっている。

◆そして何事へも手を抜かない性格のおかげで今回の旅の困難を乗り越えることができた。今回の旅では実に様々な人と出会い、様々な国や地方を通過してここまでやってきた。最も素敵で危険な乗り物「バイク」に乗ってここまでやってきた。旅の途中のある朝、バイクにまたがるとマジェスティが馬に思えてきた。その後その感覚は日増しに強くなった。正直に言うと学生時代は、仲間と一緒にエンデューロレースに真剣に取り組んでいたのに、医者になって毎日のように入院してくる多くのバイク事故の患者を診て、何となく危険だと思いバイクには乗らなくなった。

◆そんなバイクと15年ぶりの再会。新たなバイク人生は、エンデューロ野郎にはあこがれの風間深志隊長を師匠に迎えて再スタートした。やっぱり風間師匠との15年ぶりのロングツーリングは、毎日どの瞬間も発見で、素晴らしく、楽しく、そして深かった。バイクに乗っているとエンジンの音、アクセルのレスポンス、ブレーキの手応え、ハンドルへの路面情報、すべてがダイレクトで自然にビンビンと伝わってきた。たとえば、走っていて急に外気がひんやりしたら必ず雨が降った。道路に迷って困ってる様子も言葉なしに外国のバイク仲間に直接伝わった。自然と人間と機械のインターフェースが絶妙のバランスで調和したのがバイクだ。もちろん安全に走行することに越したことはない。

◆でも万が一、事故を起こしたら、とかく日本では、怪我したやつが悪いになりがち。でも、そうかもしれないけれど大怪我したらあの病院にいけば、一番いいよっと患者に言ってもらえる外傷専門病院が日本にも一つほしいですね。(竹中信之)


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