2007年9月の地平線報告会レポート



●地平線通信335より
先月の報告会から

祝傘寿猶在旅途上

〜シゲ旅の現在・過去・未来〜
金井重

2007年9月20日(木) 新宿スポーツセンター
「カストロは私にとって大事な人なんです。彼がグランマ号でキューバへ渡ったときから応援しているんですから。勝手にですけどね」。そういって、初恋の人を思い出すように、その女性はニヤリと笑った。旅の話がキューバに及んだときのことである。今回の報告会の主役は、キューバ革命の中心人物であるカストロとゲバラに50年前から親近感をもって生きてきたというその女性・金井重(シゲ)さん。1926年がフィデル・カストロ、1928年がチェ・ゲバラの生まれ年であるならば、その間の1927(昭和2)年は、旅人・シゲさんがこの世に生を受けた年なのだ。

◆報告会は、シゲさんの傘寿のお祝いを兼ねて、9月20日、誕生日当日に行われた。お祝い企画も準備されているらしく、今回はじめて利用する会場「新宿スポーツセンター」の大会議室に到着すると、すでにわくわくムードが漂っている。3人がけの椅子と机が3列だーっと並んだ講義室のような部屋に、小学5年生の渡辺圭太くん(注:地平線発足当初からの仲間、渡辺久樹・京子夫妻の次男。最近よく報告会に参加している)を最年少に、幅広い年代の100名を超える男女が集まっていた。

<熊沢正子さんによるシゲさんの紹介>

 報告会は、長野亮之介さんの司会で進められた。はじめに熊沢正子さんから、「ふつうのおばさんになりたい? 〜シゲさんが55歳で旅に出るまでの話〜」と題して、シゲさんの人生や旅のスタイルの変遷などについて、きゅきゅっとまとめた紹介が20分ほどあり、その後、シゲさんのお話という構成。シゲさんの2冊の著書『年金風来坊シゲさんの地球ほいほい見聞録』(2000年、中公文庫、初出は1991年)、『地球、たいしたもんだね』(1996年、成星出版)の編集に携わった熊沢さんの説明によれば、福島で生まれ、軍国少女として育ちサバイバルなことが得意なシゲさんは、英語を学ぶために28歳で東京の短大に入学。その後4年生に編入し、32歳で大学を卒業した後、日本労働組合総評議会に勤務。労働組合が未組織のところに行って話をし、士気を高める「オルグ」とよばれる仕事をしていたと聞いて、シゲさんのあの歩きながら語りかける独特のテンポや落ち着きは、仕事のなかで培われてきたものなのかと納得。

◆53歳で仕事を辞め、語学研修のために渡米。その旅のしずくは世界各地に弾け飛び、「知らない場所に行くのが楽しくて」60代は精力的に旅した。同じ場所に繰り返し通うなど、旅のスタイルが変化したのは「同時代の人たちがどんな状況にあるのかもっと知りたい」と気になり始めてから。時代の状況とシゲさんの心の動き、行動を重ね合わせながら、慎重に言葉を選んで語る熊沢さんの説明は、とてもわかりやすかった。

<シゲさんのお話 Part1〜3>

 そしていよいよ主役が登場。「熊沢さんに丸裸にされ、因幡の白うさぎの心境です」と、いつになくやや緊張気味の表情で現れたシゲさんだが、すぐにいつもの明るい調子に。地平線会議での単独報告は、なんと6回目らしい。この日のシゲさんの話は3部構成で、各パートの冒頭に、これまでに訪れた世界各地の写真が紹介された。カブール、イエメン、グァテマラ、フィンランド、アルジェリア、ネパール、トルコ……と、さすが120カ国以上訪ねているとあって地域もバラエティに富んでいる。

◆第1部のテーマは、「スタディ・ツアーのシゲさん 〜なぜ一人旅のシゲさんがツアーに参加するのか?〜」。2006年1月、ピースボートに乗船したのをきっかけに、最近シゲさんが魅かれているスタディ・ツアーについての話が中心。ピースボートでは、現地の人とはもちろん、参加者との交流も楽しんだという。「インターネットなどからの知識はたくさん持っているけれど経験が少ない若い人と、知識はないけれど経験がある私、その2つが結びつくと、これがちょっといいんですよ」。その体験が刺激になり、その後、シゲさんは相互理解や体験学習を目的とするスタディ・ツアーに積極的に参加。「社会と結びつきつつ、好きなことをしたい」という心境に合った旅のスタイルを見つけたのだ。「人はひとりでは生きられない。社会とつながりあって生きるっていいなあと最近強く思うようになったんです」と語られたのも印象的。

◆また、ツアー中にカンボジアで現地の子どもたちに絵本を読み聞かせしたものの反応が悪かったため、帰国後、丸山令子さんにアドバイスを受けた話から、地平線会議には自分にとっての「先生」が大勢いると言及。どこかの国に興味をもつと、たいていその地に詳しい地平線メンバーがいるので、必要なことはほとんど教えてもらってきたという。

◆そのようにして旅を続けてきたシゲさんの人生を語る上で、外せないキーワードがある。最近、五木寛之の本のタイトルにもなった「林住期」である。第2部では「アニミズムがむくむくと 〜林住期を意識して原始的な宗教が起きあがってくる」と題し、人生の転機となったその言葉を中心に話が進められた。古来インドには「四住期」という考え方があり、そのひとつ「林住期」は、子どもに仕事を譲って林に住み、これまでの人生を振り返るとともに、これからの人生を考える時期。インドでその話を聞きながら、「あなたは今、林住期ね。旅をしながら人生を考えているのね」と現地の女性にいわれたとき、シゲさんは叫んだのだ。「みんな聞いたか、私は今、旅する林住期であるぞよ!」と。仕事を辞めて自由に暮らすようになってからも、常に心のどこかでくすぶっていた「好き勝手に遊んでいるうしろめたさ」。それがそのとき払拭されたという。

◆ここでいったん休憩。海宝道義さんお手製のおいしいゼリー(ゆず・オレンジ味)とコーヒーをいただく。そして会場に甘い幸せ感が漂い始めるなかで、第3部「旅と循環 〜25年の旅の空で再び見えてきた社会〜」がスタートした。

◆最初に「ふかぶかとはだしをつつむ砂の冷え」「モクモクと巨石のモアイ絶海にわれを迎えきエナジー秘めて」などシゲさんの旅の句がいくつか紹介された。「旅を始めた頃は、何もないけど時間だけはあると思っていたのが、今は時間との競争。死を意識すると毎日を大切にするようになるものね」と語るシゲさん。「人生とは、はかないもの。同じ場所に行ったとしても、自分も相手も状況が変わる。すべて一期一会なんです」

◆その確信に満ちた語りを聞きながら、さすが80歳の方の言葉は含蓄があるなあと思っていたら……、「なので一期一会と思うと、気がラクなんですね!」と。どひょ〜。気がラクときましたか。そうですか。また、最近は、自分から変わろう、社会を変えていこうという意識を持った人が増えている感じがするという話もされた。そしてシゲさんは、にこやかに「さあ、これで終わり。話を取捨選択するのは皆さんの自由。それをするのが地平線会議。話を全部真に受けちゃダメですよ!」と締めくくり、大きな拍手に包まれて報告を終えた。

◆けれどもこの日はこれで終わらないのだ。まずは会場のみんなで「ハッピーバースデイ」を大合唱。続いて車谷建太さんがお祝いに三味線を演奏。曲は津軽五大民謡のひとつ、じょんから節。一番気持ちを込めて弾ける曲という。お祝い三味線のやさしい音色が会に華を添えた。そして最後に痛々しいギブス姿の三輪主彦さんが登場して、シゲさんに花束贈呈&ごあいさつ。「ケガをして落ち込んでいたけど、シゲさんに元気をもらった」とあいさつされた三輪さんの笑顔を見て、会場にいた多くの人が喜んでいたと思うな。

<お楽しみ企画満載の2次会>

 さて、報告会は終わりましたが、レポートはまだ終わりません。お楽しみ企画盛りだくさんの2次会のことも書かねばなりません。今回の2次会会場は、こちらも初めての四川料理店「成都」。2階の貸切会場は、少し遅れて到着した関野吉晴さんを含む総勢60名が入ってぎっしり。そんななかチベットの鐘(丸山令子さんがインドで暮らしていた頃入手されたとか)を叩きながら、にぎやかな会衆を上手にとりまとめて進行されるのは丸山 純さんだ。岡村 隆さんの音頭で乾杯するとともに、ビールがどんどん消えていく。そして次々と運ばれる料理に舌鼓! ひときわ歓声が上がったのは、餃子が登場したときだ。なじみの「北京」の餃子とはまた違った、素朴な力強さと愛嬌をもつ、これまた魅力的なぷくぷく餃子で、口に含めば、そのジューシーさで頬はゆるゆるに。

◆また、シゲさんにまつわるクイズも用意されていて、「地平線会議のメンバーで一番いい男は?」「地平線で一番影響を受けた人は?」などの問いかけに会場も白熱!? ちなみに、シゲさんが選んだ一番の男性は……「絶滅危惧種、鷹匠です」。すなわち松原英俊さんでした。一番影響を受けたのは、関野吉晴さん。理由は「自分たちのごっつい世代にはない、やさしさをもった旅を始めた人だから」。行ってみたい場所は「イリアンジャヤ」とのこと。

◆その後は、シゲさんへのプレゼントタイム。大西夏奈子さんが贈呈したのは、「日本一短いしげさんへの手紙」(詳しくは夏奈子さんに譲ります)。続いて、地平線会議からのプレゼント。こちらは長野亮之介さんが描いたシゲさんのイラストを丸山さんがプリントした、キュートな特製Tシャツとスカーフで、「いいなあ!」「ほしい!」の声続出。そうそう、お店から中国版の誕生日セット「桃まんじゅうとそば」のプレゼントも。

◆そして最後に、今回の報告会および2次会を企画推進してきた裏方さんが紹介された。「われらがシゲさん」の誕生日を祝いたいと思う人たちが企画し、そして大勢が集まって、楽しく満ち足りたひとときをともに過ごせたこと。それがなんだかとてもうれしかった夜。シゲさんをうらやましく思った人も多いのではないかなあ。こんなにたくさんの仲間に心から祝ってもらって! 「シゲさんの話に刺激を受けた」「元気をもらった」という声もあちこちで耳にした。

◆年齢や国籍を超え、人と「連帯」しながら旅を続けてきたシゲさんは、自分のなかの好奇心を大切に守り、育みながら生きてきた人なのだと思う。ほめ上手で、相手の話に感心したシゲさんが「すごいわね〜」と声をかけるたび、横で聞いている自分がほめられたような気分にいつもなる。そしてまた、「常にできるだけ楽しいことを追求する」という、しなやかさ(したたかさ?)。それもシゲさんの強さであり魅力だなあ、などと思っているうちに夜は更け、宴の余韻覚めやらぬままに時計の針は0時をまわっていた。翌週メキシコへ旅立つというシゲさんは、まだ大勢の人の輪に囲まれていた。(妹尾和子:当日、シゲさんを2次会会場へ案内すべき大事な場面で迷子に。シゲさんをはじめ、ビールお預け状態で長らくお待たせした皆さま、すみませんでした。迎えに来てくれた落合さん、ありがとうございました。)


[報告者からの口上]

私は50代から60代にかけてまさに若さと貧乏、好奇心もりもり、66ヶ月で65ヶ国を旅しています。

 1991〜2000年、日本の金、金、金の経済は早くも失速し、地下鉄サリンの事件など日本中が金に浮かれている間に世の中がおかしくなりました。しかしては、阪神淡路大震災では、日本中からボランティアが集まり、私も一週間テントに泊まるなどして、助け合い運動の仲間入りしてきました。世の中お金ぢゃあないないよというわけです。この10年は42ヶ月43ヶ国を旅しました。

 2001年に入って、9・11の同時多発テロには全く驚きました。アメリカはすぐアフガンを攻撃し、イラク戦争を始め、世界中がどこもかしこも危なくなりました。それでも旅は続き17ヶ月19ヶ国を旅してきました。

 さてここからが報告会で言いそびれたこと、それは“人生は旅”そして“旅情”です。実は99年、内戦後のウガンダで現地NGOの男性と問答し、「私ですか、シゲ教よ。それはアニミズム+日本仏教」と答え、彼は入信を希望しました。この話は以前の報告会で話しています。

 さてさて、我々はどこからきて、どこへ行くのか、です。月から、宇宙から、アフリカから、南方から、いろいろ人の数だけありますが、シゲ教としては虚空系です。虚空から旅してきた私は今、虚空への帰路を目指して旅を続けているところです。いつ虚空へ帰るのかって、それはわかりません、教祖さまでも(笑)。昨日と同じ今日はありません。今日と同じ明日も。いまの出会い、今日の出来事のひとつ、ひとつが一期一会なのです。

 ひとり一人が人生の旅を歩みつづける、旅情をこめて。今日もこんな旅ができた、有難いことだ、この旅への感謝が虚空へ飛び立つエネルギーだと思っています。

 社会の流れ、激しい渦にまきこまれながら、浮かんだり流されたり、こうして私の旅は続いてきました。いつの旅も楽しいものでした。これからも面白い旅になると思っています。みなさんも旅情をこめてあなたの人生の旅を。再見もいいですね、楽しみです。私はいま人生の旅を喜んでいます。その心は、

  親なし子なしケイタイなし ペットなく
      町姥なれど なかなかによし

  町姥(まちうば=まちんば 町に住むおうな⇔山姥) 

 9月20日お店を出して頂いた海宝さん、お祭り気分を、会場の皆さんはなやかな気を有難うございました。(金井 重)

《日本一短いしげさんへのお手紙  by 地平線十一歌選》

 人生の大先輩しげさんから、元気やユーモアや勇気を何げないかたちでたくさんいただいているなあと、9月の報告会にのぞみ改めて思いました。そこで、いつも驚かされっぱなしのしげさんを今回はサプライズできたら! と、しげさんファンのお友達に声をかけてみたところ、全国から渾身の力作手紙(川柳仕立て)が届きました。

 「旅すれば するほど増える しげ教徒 私も狙う 次期教祖の座」by 菊池由美子。

 「シゲさんの 歩み続ける足跡が われの道行きをも 照らす」by ねこ(中島菊代)。

 「しげさんと わたしもおなじ 乙女座よ」by 17日生(多胡)あるみ。

 「しげしげと 足繁く通う 127ヶ国」by 羨まし 多胡夫。

 「ゆく旅の 花野へつづく 小径かな(解説:旅の先々でわくわくしながら寄り道をしてはそこに花が咲き、やがては皆の前で話に花を咲かせる。しげさんの旅をイメージしました。)」by 車谷建太。

 小久保純子(めちゃくちゃ上手なカラーイラストで参加。しげさんがピアノ鍵盤の上をかろやかにステップ踏む絵です)。

 「老いゆくも しげ路ゆくなら どんとこい」by 鈴木博子。

 「すごいわね! しげさんほめる そのたびに 虹色光る 玉飛んでゆく」by 妹尾和子(長野画伯のしげさんイラストをはめこんだ手作りのキーホルダーも添えて)。

 山辺剣(しげさんへの想いを散文で)。

 「地平線 行けば行くほど 新たなる 世界ひろがる祝 八十歳」by 三羽宏子。

 「しげさんに 会えたら嬉し 会えぬとも 考えるだけで ワクワクたのし!」by 大西夏奈子。

 しげさん、本当に本当におめでとうございます( ^ v ^ )!!!

※以上あいうえお順、敬称略させていただきました。なお、このたびは呼びかけ人大西が知る範囲でのしげさんファンの皆さんに独断でお声がけしました。(大西夏奈子)

シゲいわく
「町姥(まちんば)も、なかなかによろし」

 ある自主上映会で映画『蕨野行』を観た帰り、同行者たちと近くの焼き鳥屋で一杯やった。村田喜代子の小説が原作のこの作品は、村はずれの「蕨野(姥捨て山)」に行った爺婆たちと村に残された家族たちの物語で、掟に従って“蕨になる”(あの世に逝く)のを待つ老人たちの「枯れざま」がジンジン沁みる。だが、ジョッキ片手に盛り上がった話題は、彼らとはまったく別の生き方を選んだ一人の女性についてだった。かつて口減らしのために嫁ぎ先を追われ、実家にも戻れずに山に入った、ヒロインの妹。自然界を独力で生き抜いて野生動物のような風貌になった彼女が蕨野に現れ、「そのまま死ぬことはない、山へ行こう」と姉を誘う場面がある。「なんで、あそこで一緒に逃げないんですか!」と、20代半ばの男性会社員が声を熱くした。「せっかく山姥が来てくれてサバイバルの条件が揃ったのに、チャンスをみすみす逃すなんて、自我が弱すぎる!」。自分は辞めたい会社も辞められないでいるくせに、まっすぐに山姥を礼讃できるそのアホな若さがまぶしかった。

 村の掟に従うか、山姥になるか(世俗に生きるか、世捨て人になるか)。昔はその二つしかなかった選択肢が著しく増えた現代は、特に、結婚をせず子供も産まずに年を重ねた女(私もその一人)には生きやすくなった(たぶん)。けれども、たとえ強い自我に突き動かされて「やりたいこと」を追いかけた結果としての幸運な「今」であっても、ふと自分を天の目で「普通じゃないな」と見下ろしてしまうことがある。そのあたり、あの大先輩はどうなんだろう……と思っていた矢先の8月、お宅を訪ねる機会に恵まれた。

 シゲ大人は語り始めた。「親無し子無しペット無し、ケータイ無けれど、町姥もよろし。そう、なかなかによろし。……これが、今の心境だねえ」。最初に「夫無し」が入らないのは、齢八十ともなれば連れあいに先立たれた同世代が増える一方なので、わざわざ言及する必要がなくなってきたせいだろうかと、30歳下の聞き手は深読みする。以前は大人、旅先で「ご主人は? 結婚は?」と聞かれるのがウザくて、「亭主はアラブの大富豪で、財産残して先立った」なんて、大ボラ吹いていたこともあったはずだから。(実はシゲさんは、結婚相手となるべき男性たちの多くが戦火に散ったために独身を通す女性が少なくない世代に属しているのだが、「結婚の最終バスに乗り遅れただけ」という言い方を好んで使う。「いやいや、事故か何かでバスが遅れているだけかもしれないでしょう」なんて未練を見せずに、夜道をさっさと歩き出すような、潔い言葉だと私は思う)。

 「どうしたって山姥にはなれないよ。そんな力もないし、社会ともつながっていたいから。でも、普通の人っていうわけにもいかないの、さんざんはみ出しちゃってるんだから。だから“町姥”。旅に出れば旅先で、うちに戻れば地元で、ただ、みんなと仲良くできればいいの」。一茶が雀の子と戯れるように、ではない。外国の街角で、異邦人オバアの出現に唖然とする人々の間に有無を言わせず分け入って、一緒に肩まで組んでピース写真を撮ったり、ヨガやらクラウン修業やら演劇やらの市民講座にしばしば「受講者中、最高齢」で参加して、あのパワフルな言動で周囲を圧倒したり……といった、あくまでも「シゲ流」のやり方で、町に親しむのだ。そう、「町姥」とは、そんな「シゲ流」の言い換えにすぎないのかもしれない。でも、「なるほど、町姥か」と、ストンと胸に落ちてきた。ギリギリの線で踏ん張って、「諦める」「捨てる」といったネガティブさを弾き返すような、これもシゲさんらしい潔い言葉ではないか。

 「それから、名もなく旅人でありたいねえ」。ここはちょっと抑え気味の低い声になった。かつて「総評オルグの金井重さん」と呼ばれた“働きマン”は、かなりの凄腕だったと漏れ聞く。その人が勤めを辞めて旅に出て、ただの「シゲさん」と呼ばれたとき、頭の上を風が吹きぬけるような解放感を味わったという。だから、本を出して、ときどきは講演の声もかかる、「年金風来坊(あるいは熟年バックパッカー)のシゲさん」といった呼ばれ方は、あまり本意ではないようだ。そこは、早期といえども職場からリタイアして旅人になった“ご隠居”の余裕なのか。あるいは戦後の社会派インテリゲンチャの潔癖さなのか。

 この町姥は相当な勉強好きでもある。「今はね、世界はグローバリズムという同じ風に吹かれている。でも、すべての人々が同じ条件でその風を浴びているわけではないのね。だから、いろんなところへ行って、その様子を確かめたい。だけど、21世紀に入って世界はますます複雑になっているから、ただ観光客の目線で見ただけじゃ、何もわからないのよ」。労組の中央組織に20年勤めて養った目でも把握が難しいほど、世界の変化は予測不能になってきた。それを正しく見極めたいと、最近のシゲさんは予習もバッチリした上で、通訳が付いてきちんと中身が理解できるスタディーツアーに参加している。「調べて、行って、知って、考えて、そして見えてくるでしょ。そうすると初めて、われわれは連帯できるのよ。現地の人々と。それから、一緒に行った日本の人たちともね」。

 「連帯」なんて“古くさい”言葉だろうか。私はそうは思わない。言葉が殻だけでなく身が入った状態で使われているかぎり、死ぬことはない。流行語が数カ月で死語化するとしたら、それは腑抜けた使い方をした人たちの責任だろう。ともかくも、「世界中の人々と連帯すること」は、シゲさんの大きな夢だ。夢を追いかけるがために「町姥」にならざるをえない自分自身を受け入れ、多すぎるほどの人が集まる日本の町に住んで、地球各地の大小の町をめざして旅を続ける。(熊沢正子/チャリンコ族・エッセイスト)


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