地平線報告会はいつも18時半より少し遅れて始まるのだが、報告者はときには一番乗りで会場にやってきて、だいたいは緊張した面持ちで司会の紹介を待っている。ところが今夜は違った。定刻になっても報告者が来ない。会場では山辺剣さん、中山郁子さんを始め、何人もの若者が雨の中、ザックを背負ってきて、挨拶を交わしているのが目立つ。安東浩正党首率いる「野宿党」が、「3次会」と称して近くの公園で野宿の後、「富士山野宿」を計画しているのだった。他にも京都、長野など各地から関野さんの話を聞こうと、人が集まって来ている。15分ほど経過して関野さんがようやく到着、報告会は始まった。今回の南方ルートの旅で初めてデジタルカメラを使った関野さん。地平線報告会はその画像を見せる最初の場となったのだが、写真の整理とどうスクリーンに映すのか、写真家の野町和嘉さんに教えてもらっていて遅刻したという。なんとなく探検家を身近に感じる話だ。
◆地球表面の約70%は水で占められている。本来、水中を行動する能力を持たないヒトが、歩いて移動することができる陸地は残る30%弱しかない。しかも緯度や海流により気候は大きく変わり、あるいは高度差の大きい山脈群が存在する。目の前に立ちはだかる困難を乗り越えるため、ヒトは狩猟の技術を発達させ、農耕の方法を学んだ。
◆アフリカを起源として採集生活のために生活の場を拡げていき、もっとも長い旅をして南米最南端にたどり着いたヒトの移住の足跡を逆にたどったのが1993年から始まった関野さんの「グレートジャーニー」で、話はその旅の途中から、分かれ道のように始まる。「グレートジャーニーは人類がどこから来たのかという探求の旅。その中で自分がどこから来たのか、日本人ってどういう人なんだろうかということに関心を持ち始めていた」。それが、「新グレートジャーニー・日本人の来た道」につながる。
◆シベリアから間宮海峡を渡って、あるいは中国から朝鮮半島を通って、南から島々を航海して、「日本人がやってきた道は1本に絞りきれない。いろんなところから来た」。だから新グレートジャーニーは、いくつものルートを、線をたどるのではなく面として捉える旅になった。ヒトの拡散は、ひとつのルートであったわけではなく、様々なベクトル、速度を持って同時に多方向に進んでいった。ドクトル関野はホワイトボードにアフリカ大陸とユーラシア大陸とを描き(説明がなければ、ただの2つの楕円にしか見えないのだが)、語る。
◆「ホモサピエンスは10万年前から15万年前に、アフリカで生まれたわけですけれども、そこからヨーロッパ、アラビア半島を目指す、ユーラシア大陸を進むというふうに、移動の仕方は様々で、しかもいろんなルートで進んで行った。東へ向かった人たちは、ヒマラヤにぶつかって、その南側へ行った人たちが多かったと思われる。ただ、珍しい人というか、勇敢な人というか、馬鹿な人というか、ヒマラヤの北側に行った人がいた。相当苦労しただろうけれど」。
◆同じ緯度で東進すれば気候がほとんど変わらないから衣食住の習慣も変えなくて済むが、ヒマラヤのような山脈越えに遭遇すれば話は別だ。ましてや北上して極北に至り、ベーリング海峡を渡った人たちはいったい何を考えていたのだろう。「サルの仲間がいちばん北上したのは下北半島。せいぜい北緯40度ぐらいしか行っていない。人間だけがそれを超えてしまったのは大変なこと。もうひとつ革命的なのは動物のミルクを飲むことで、これは他のどの動物もやらない」。
◆家畜のミルクを飲むことが、植物食から肉食に変わって行った人々を壊血病から救ったのだとモンゴルで関野さんは推理した。壊血病を防ぐビタミンCはミルクそのものにはほとんどないが、馬乳酒とその微生物の働きでビタミンCが摂れるのだ。「お茶が入ってきて、ビタミンの補給源は増えた」。後年、発酵食や毛皮の加工など、ヒトの拡散にはこうした発明と工夫が欠かせなかった。「人間というのは、追い込まれるとすごい。何とか生きる方法を探す。そうして新しい文化を作っていく」。
◆報告は具体的な行動に入る。シベリアから間宮海峡、宗谷海峡を渡って北海道に到る北方ルートの旅を2005年に終え、続いて南方ルートにとりかかった関野さん。出発はネパールのカトマンズだ。相変わらず全行程、自分の脚力、腕力だけに頼る旅。まずはカトマンズから東進して、ブータンを自転車で縦断した。「非常に気持ちのいい旅だった。標高200メートルから、富士山より少し高いぐらいのところまで、毎日上って下りて上って下りて。上りだけを足すと、1万メートルを超えていました。一番気持ちよかったのは、3000メートルから4時間かけて600メートルへ下ったこと。何しろ自転車を漕がないでいい。上りは上りでいいんだけれども、やっぱり下りは気持ちいい」。
◆インド、アッサムに入り、ミャンマーに抜けようとした関野さんに、難問が。「アッサムは許可が出たと思うんですが、マニプール州(州都はインパール)の治安が悪い。それで許可が下りない。なおかつミャンマー側もダメ。それで去年の春はインドとミャンマーの中を観光旅行して、これからどうしようかな、と」。ヒントになったのが、ヒマラヤにぶつかって、温暖な南側ではなく北麓をたどったヒトの足跡だった。チベットを通って東に向かった人たちがいたことは、様々な調査と研究で判っているのだという。新グレートジャーニー南ルートの撮影スタッフとして関野さんを追い続けている山田和也監督の事前調査と勧めもあった。
◆「去年夏より青海省からチベットに入って、雲南省に抜けて、ラオスに入って、カンボジア国境まで。高度差はあるけれど、極北に向かった人たちに比べれば困難ではない」。インダス、ガンジス、メナム、メコン、長江、黄河といくつもの名だたる大河が、チベット高原を水源として、ヒマラヤの北側からインド洋、太平洋に流れ出ている。中でも南北に流れていて変化に富む国際河川、メコン河を関野さんは選び、その水源から「第二の南方ルート」の旅を始めた。今年の2月にはラオスに入り、カヌーと自転車とで縦長のラオスを縦断した。「カンボジアのイミグレの人に、また来るからね、と話をして、帰ってきました」。
◆メコン水源近くで日本人医師を頼って遊牧民のテントにやってきた巨肢症の13歳の少女とその治療の顛末、4年に1度行われるインドの聖なる祭「クンバ・メーラー」に集まった500万人の裸のサドゥ(ヒンズー教の修行者)たちの話など、それだけで報告会ができそうなエピソードがいくつも繰り出される。
◆そして、写真が素晴らしい。日本を思わせる雲南の棚田、勇壮で知られる東チベットのカムパの正装、高原では貴重な燃料となる家畜の糞、携帯電話を使う遊牧民、「道路だと痛いから」花畑を五体倒地する可憐なチベットの少女、モン族の少年、聖なる巡礼地であり、悲劇の雪峰でもある梅里雪山、朝もやに包まれるラオスの古都ルアンプラバーン、ガンガーに花を流すバラナシーの少女、得度式のために着飾って化粧し象に乗るミャンマーの男の子…。400枚以上というスチルイメージが、関野さんのパソコンから、次々と無造作にスクリーンに映し出された。
◆いつも不思議に思っていたのは、関野さんの写真には笑顔の少年少女が多いことだ。その笑顔は作り笑いではなく、屈託のない自然な笑みだ。本当は喜怒哀楽すべてを記録に残したい。時には泣き崩れる被写体もある。でも28ミリのレンズを構えて、相手の近くまで歩み寄って、「なんでそんなに暗い顔してるの?」と聞くだけで、不思議にみんな笑顔になってしまうのだという。私にとっては「関野マジック」としか思えない。
◆ラオスは日本人にとってあまりなじみのないインドシナの農業国だが、資本主義の荒波から離れ、経済発展が遅れている分、昔から続く素朴な生活が見られる国でもある。今年のラオスの旅で、関野さんは砂金堀りをしている人たちに出会った。「一生懸命掘れば、いくらでも掘れるのに、指輪を買いたいとか、そういう欲はあるはずなんだけど、一つ手に入れれば満足しまって、掘るのをやめてしまう。日本人や中国人が行ったら、きっと全部掘り尽くしてしまうだろう。でもそうはしない」。その姿が、かつてヒマラヤの麓にとどまった人々と、北上して極北を目指した人々の分かれ目を想起させる。
◆「中国でも人民公社が解体されたとき家畜を平等に分配したはずなのに、いまでは遊牧民の中でもお金持ちの人とそうではない人というように格差が生まれている。何でこんなことが起きているのか。労働意欲の差というか、モノがない状態の人というのはそれに慣れてしまって、それでいいやということになる。一方、豊かな人々はより豊かな生活を追い求める」。それが拡散した人類の中でも、住み着いた人々と、より遠くへ移り住んだ人々との違いになったのではないか、もちろん好奇心や向上心が原動力になって動いて行った人もいるだろう。だがそれだけでなく、悪い環境とわかっていても移らざるを得なかった人たちもいるのではないか、と関野さんは考えるのだ。
◆深くはそう考え、浅くはそれが心配になる。素朴な味わいを残す国、ラオスの対岸は、経済発展著しいタイだ。テレビの放送はタイの番組ばかり。いろんな情報が入ってくる。携帯電話のCMが流れれば、それが欲しくなるのは自然なことだ。便利さの弊害はあるが、もはや止めきれない流れだ。「プージェーの母親も、携帯を持っていれば、医者を呼べたかもしれない」。遠くを想い、近くを考える。関野さんの両眼は、本当に自由自在に古代から現代、未来までを見通しているように思えてならない。
◆1980年、第8回の報告会以来、336回を数える地平線報告会の過去のリストの中でも、何度も出てくるのが関野さんの名前。「冒険王」賀曽利隆さんとデッドヒートを繰り広げている。私にとって関野さんは長らく近付き難い「伝説」の人で、それは「グレートジャーニー」とそれに続く旅のためにいつも日本にいないからなのだった。2004年の地平線会議300か月記念フォーラムのときも、ステージに上がってもらうことは叶わなかった。関野さんはその頃、シベリアを自転車で走っていた。それだけに今夜はこんなに直球勝負の話をする人だったんだと再発見した思いだった。そんな関野さんは報告会の最後に、おずおずと切り出した。「いつもシゲさんにOKと言っていただけると、その晩はよく眠れる。今回はいかがでしたか?」。そう問いかけるドクトルに、金井重さんは大きなハナマルを出してくれた。(落合大祐)
◆グレートジャーニーの旅から一時帰国してくるたびに、関野吉晴は「逞しく」なっていた。足かけ十年、体を動かし続けて厳しい旅の途上にあったのだから、体躯の充実は当然の結果だったろう。優男(やさおとこ)の印象は変わらぬながら、年ごとに手足の筋肉が盛り上がり、日焼け雪焼け潮焼けした肌には張りが出て、眼光も炯々としてくるのが、そばで見るとよくわかった。
◆だが、帰国のたびに「また逞しくなった」と私が感じたのは、決して体躯や体力のことではない。精神力などというものでもない。それは関野の「眼力」や「洞察力」を含むトータルな「知力」への印象であった。雪原を駆け、砂漠を越え、海河を漕ぎ、その合間には多くの時間を自然の中で暮らす人々と交わって歩を進めてきた関野の頭には、常に「我々は何処から来たのか」「我々は何処へ行くのか」という命題が宿っていたが、その考察が深まり広がる様子がリアルタイムで見て取れたのである。
◆単に印象だけでなく、それを如実に納得させられたのが、帰国時に繰り返された多くの識者との「対話」の席上だった。関野の求めに応じ、あるいは相手の求めに応じて、写真集や雑誌に収録するため多くの「対談」が組まれたが、その一部に同席し、あるいは記事を読んでいくと、関野の関心領域が広がる一方、それらを見渡す「視点」が次第に高まっていくのが理解できた。
◆船戸与一や池澤夏樹、西木正明、島田雅彦、熊谷達也、椎名誠らの作家たち、中村桂子や伊沢紘生、河合雅雄、石毛直道、馬場悠男、諏訪元、古市剛史、山本紀夫、稲村哲也、赤坂憲雄らの生命科学・動物学・人類学・民族学分野の学者たち、さらにはノーベル平和賞のリゴベルタ・メンチュや、アイヌ文化研究の萱野茂、ミュージシャンの宮沢和史、噺家の春風亭昇太、映画監督の龍村仁、それにわが恵谷治も混じる対話相手の陣容は、それだけで関野がいまいる「世界」の広がりを表している。しかし、その内容を読めば、関野が「地表の現象」を追うだけでなく、自身の「知の世界」をも押し広げ、創り出す探検に邁進してきたのだということが、誰にでも、ある感動を伴って納得できるだろう。
◆それらの対談がこのほど、時系列に従って編集され、一冊の本にまとまって出版された。版元の私が言うと宣伝めいて恐縮なのだが、これは間違いなく関野吉晴を知るための必読書である。人類の過去から未来へ思いを馳せ、その考察を地球規模の地面とそこに住む人々の個々の暮らしの事例から、実際の足と目を使って深めていく関野の旅の営みは、これまでにない形の「哲人」あるいは「智者」がつくられていく営みでもある。その過程が実感的に読みとれる『関野吉晴対談集』(東海教育研究所刊・本体2400円)を、地平線会議の仲間として、ぜひ皆さんにお薦めしたい。(問い合わせ=電話03-3227-3700まで)
昨年からデジタルカメラを使うようになった。すぐに自分の思うように撮れているかわかる。暗い所で増感ができるので、ストロボをほとんど使わないで済む。夜の撮影も楽になった。三脚も使う頻度が減った。これらのメリットのある反面、何枚でも撮れ、納得できなかったら、その場で消せる。そのためにフィルム撮影と比べて緊張感が緩む。また長旅をしてちゃんと撮れているかどうか確認を待っている時のワクワク感、ちゃんと映っているポジを見るときの喜びが失せてしまった、などの欠点もある。画質、保存など様々な分らない点があるが、デジタルに大きくシフトしている。
◆先日の報告会ではRAWで撮っていたデータをプロジェクターで映し出すために、JPEGに変換しなければならないのだが、最初のデジタル指南役の桃井和馬は不幸の直後でそれどころではないと思い、写真界の大御所野町和嘉、榎並悦子夫妻に指南を頼んだ。2時間かかりっきりで、やっと400枚を変換できたが、整理する時間もなく、そのまま報告会会場へ飛んで行った。やはり400枚は多すぎたし、未整理だったので、来てくださった方々にはご迷惑をかけた。デジタル写真を自由に扱えるよう精進したいと思うが、道は遠いようだ。(関野吉晴)
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