2007年4月の地平線報告会レポート



●地平線通信330より
先月の報告会から

本能のプラグ

広瀬敏通

2007年4月28日 榎町地域センター

 「こんばんは!」。元気な挨拶から始められた4月の報告者は、現在約3000校あると言われる自然学校の最初の1校、ホールアース自然学校代表の広瀬敏通さん。あるいは、動物と生きるエキスパート(ヤギでも豚でも、アーミーナイフ1本で解体してしまう)広瀬さん。または『バードコール』(鳥とのコミュニケーションツール)考案者の、もしくは、羊の毛刈りチャンピオンの、はたまた洞窟探検家であり気球乗りの…とにかくいくつもの顔を持つ広瀬さんから、「他の人があまり知らない広瀬を紹介したいと思っています」と言われ、興味津々。おりしも連休初日、遠方者含め、平日にはなかなか参加できない人たちも加わって、会場に静かな期待が満ちた。

◆東京は吉祥寺、焼き鳥屋の裏手で生まれ育った広瀬少年、幼い頃から鶏をつぶすところを目の当たりにし、近所の動物園に自分専用の『入口』を作って猿山の猿を全て覚え、池で釣った亀の甲羅に彫刻刀で自分の名前を彫るような(なんと、その亀に大人になってから水族館で再会した)子どもだった。また、走る車の前をすんでのところで横切る遊びをしていて本当にはねられてしまったり、電車を止めることができるか線路でとおせんぼしてみたりと、血を見ることが好きな子どもでもあった。スライドには、友達の間で大きなスズメバチを手にしている『ハチ少年』。キャプションは“自然学校的生き方”。教室で椅子に座るルールがわからず、しょっちゅう外に出てハチを捕まえては戻ってくる広瀬少年を、先生は「よく捕ってきたね」とほめてくれた。―今の広瀬さんのベースが少年時代にあることは明白である。

◆次の写真はギターを持った若者=どうもご本人。1969年、新宿西口地下広場で繰り広げられた反戦フォークの集会で撮影され、新聞に載ったもの。当時18歳。高校生の頃から京大の新聞部に通うなど『反逆の日々』を送り、ベトナム戦争の報道には「人間としてだまっていられない」と、反戦運動にも参加した。大学生の時に特攻隊生き残りの教授を通してインド哲学に触れ、学費を返してもらって興味赴くままインドへ旅立った。

◆スライドには“1971年 南インドカルナータカ州 障害児、孤児の村を作る”。広瀬さんの今に直接つながる、色濃い日々のプロローグだ。降り立ったカルカッタに集まるヒッピーたちに違和感を感じ、南下して日本の新聞でも紹介されていた町作りを手伝う。だがある日、放り込まれた紙つぶてを広げてみると『外国人は出て行け』と書かれてあった。地元から完全に浮いていることに気付き、そこを出る決意をした。そうしてボロボロで辿り着いたのがカルナータカ州の、夕陽の美しい村だった。言葉はまったく通じない。さまざまなものを指差しては、現地語を教えてもらった。2か月半で話せるようになり、6か月で読み書きができるようになった。そして2年半後村を去る時には、日本語がうまく出てこなかったそうだ。

◆その地で障害児が暮らせる村作りの計画があり、参加を名乗り出た。身体に障害を持った子どもたちが笑顔でカメラを見つめている。先天的にハンデを負う他、物乞いに有利なよう、誘拐され、手足を切断されてしまった子どもたちも多い(!)。その子らに教育と経済的な自立をもたらすため、故マハトマ・ガンディーが発案したのがインド各地の村作りだった。だが、計画は宙に浮き、実践には至っていなかった。

◆続いてキャプションは“兄弟たちと暮らし始める”。見渡す限り何にもない、40エーカーの荒地が広がる。村人に教えられた場所を掘りに掘り、4.5mのところで甘い水が出た。それまで湿地帯の上を覆う水で喉を潤していた村の、唯一の水源となった。そして家も建てる。木材は貴重なので、石や土、牛糞を使う。その間数か月は野宿。食事はヒエ団子2個(子どもたちは1個)を、カレー(ちょっと辛みのある塩味のお湯)と共に1日2回食べた。何か月食べ続けても飽きない。「たくさんあるから飽きるのであって…」と広瀬さんは言った。

◆こんなタイトルもあった。“車道は牛車みち 自動車も電気も無い世界”。想像してみるその世界は、決して暗いイメージではなかった。5年後に訪れた懐かしい我が家は増築されていて、人3人と牛2頭が住んでいた。広瀬さんが寝る時後ろ足を枕にしたら朝まで動かない牛の賢さ、優しさ、現地語で『なまけもの』や『こそどろ』(取っておいた大事な小麦を食べてしまった)と呼ばれる、同居の牛たちや愛らしい子どもたちの話、時に飢えに見舞われる完全自給自足の中、「なんて野菜ってうまいんだろう」と思ったことなど、生活に根ざしたエピソードも興味深く聞いた。子どもたちのハンデは、言わば自分が言葉を話せないのと同じようなもので、少しも気にならなかった。寝たきりの人はひとりもいない。全てを子どもたち自身で補い合っていた。笑顔が輝いていた。

◆しかし、インドの生活に終わりがやってくる。アメリカの平和部隊の退去を機に、外国人ボランティアはすべて国外退去することになったのだ。村人たちが嘆願書を出してくれたが、聞き入れられることはなかった。広瀬さん24歳。ずっとこの地で暮らすつもりだった。

◆一旦帰国してからも旅は続け、約4年後の1978年、シルクロードを旅する。中国西域で中断し、アフガニスタン・バーミアンで長期滞在した。破壊前の大仏の写真や、大仏の頭部から見下ろすバーミアン谷の美しい写真を見せてもらった。「当時、仁義を重んじる人々だったのが、戦争により変わってしまった」と話された。旅の終着点となったインド、ネパールでの写真は、人間の大腿骨の笛と、イルカの解体シーン。勧められるまま、ビタミン源であるイルカの生血を飲んだ。

◆日本に戻ってすぐにカンボジア難民支援のNGOを立ち上げ、現地へ飛んだ。腐った泥水を見て井戸を掘り、竹の家で作った『子どもの家』を運営した。日本からモンテッソーリ教育法(イタリアで考案された幼児教育法)の教材を持ち込んだが、差し迫る問題は井戸や救援。加えて、現場にいると「クメール人の子どもはクメール人が育ったようにやるのがいい」と思うようになった(その結果、自ら立ち上げたNGOをクビになってしまうのだが)。そんな中、子どもたちをケアするのに、絵画を取り入れた。色鉛筆で画用紙に描かれるのは、やはり戦争の絵。特に広瀬さんが衝撃を受けたのは、『竹やりで突く人=本人、木に縛られ突かれる人=本人の父、見ている人々、穴にいる人々=殺された人々』が配された絵だった。ポル・ポトにより徹底洗脳された子どもたちは、殺人マシーンと化す。説明を受け、窓の外で(親を殺しておきながら)楽しげに石まわしをして遊ぶ子どもたちに憤りすら覚えた広瀬さんだったが、諭された。「この少年は食べて寝て殺す日々からやっとこの難民キャンプで遊びと笑いを獲得した。今ようやく人間として一人前になっていく過程を取り戻しているのに、それを怒ることができるか?」。この体験も、子どもたちに遊びを提供する今の仕事につながっていくのだろう。

◆その後、デング熱に罹りながらも政府派遣としてキャンプに復帰し(当時日本政府は人を出さないという批判があり、広瀬さんは格好の人材だった)、医療チームのコーディネーターや事務所長として活躍した。

◆1981年、30歳で帰国。ゲームに熱中する大人たちや外に出ない子どもたち。10年ぶりに日本と向き合い、その急激な変化に驚かされた。今までの暮らしと同じく地平線を望めるところが気に入り、縁もゆかりもなかった富士山麓に居を構えた。土地を開拓し、自給自足の牧場経営を始めた。家畜を飼い、30種類の野菜を育て、体験プログラムも行なった。いつしか静岡で『もう一度行きたい観光施設』のNo.1になり、観光バスが来るようになった。意に染まなかった広瀬さんは、5年で牧場をたたんだ。30人のスタッフのうち、3人がついてきた。今や年間約8万人が利用し、25周年を迎えた『ホールアース(=The Whole Earth=ひとつの地球)自然学校』の幕開けだった。まず始めたのは子ども向けキャンプ。インドやカンボジアの子どもたちと過ごした日々で得たメッセージを届けたかった。

◆「アイデア浮かんだら即実行できるのはオレにとっていいこと」の言葉通り、ホールアース自然学校も、広瀬さん同様さまざまな顔を持つ。災害支援もそのひとつだ。阪神大震災を機に、災害時には現地に向かい、救援活動をしている。広瀬さん自身、『国際緊急援助隊』(災害発生→24時間で羽田集合→+24時間で現地到着のシステムを持つ。現外務省所管)の創設メンバーであるが、自然学校で身につけたコミュニケーション能力や対人理解能力、野外技術などが、災害現場で驚くほど役立つという。

◆自然学校が生まれ、世界中に増え続けている背景に、環境の悪化がある。自然を活用する暮らしなら、自然学校はいらない。「本当は自然学校なんて、ないほうがいい」とさえ言う。全員が加害者であり、被害者である環境問題解決の糸口には技術革新、制度の整備、意識変化が挙げられるが、中でも誰もが楽しめる自然体験は意識変化を促し易く、環境教育の入り口となる。事実体験者が環境を考慮する実践者となっている例が多いとのこと。こうして自然学校は社会企業体としての役割を担っている。また、日本から集落が消えつつある状況についても言及された。かつて、山や谷の多い日本では人々は歩き、住みやすいところに村を作った。しかし、今は山を削り、谷を埋めて 車のための道にする。頻発する崩落に対する巨額の維持費が段々とまかなえなくなり、崩れゆく村に歩ける場所はなくなって、人々は出て行く…。

◆冒頭で広瀬さんは「自然学校をひとりでも多くの人にやってもらいたい」と提案した。「自分のできるサイズで、例えば『**さんちの自然学校』でいい。自然を身近に感じる生活ができれば、日本はもっと良くなる」と。

◆インドへの旅立ちから36年。今の思いを「始めたらやめない。凹んでも、次に浮かんだ時補修できる。やめないことが力になる」と結んで、まだまだ聞きたかった話は終了した。質問の場では気球の話が出て、風になる心地良さと共に「少なくとも冒険者を罵倒する社会にはなってほしくない」と語った。あと、「いつの間にご結婚を?」という質問も出たが、スペースの都合上詳細は参加者の特典にとどめたい。

◆植村直己さんに野外学校設立の夢があったように、湧き上がる情熱に正直に生きてきた広瀬さんの今の着地点は、いろんな顔を生かせる、あるいは統合できる、最も自然な場所なのかもしれない。そしてこれからもまた、とどまることなく新たな流れを創り出してくれるに違いない。(中島菊代)


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