◆早めに報告会会場に着くと、東京外国語大学ウルドゥー語劇団の座長・麻田豊助教授(4月から准教授)と団員である8人の語科生の皆さんがミーティングに集中しているところだった。カラフルなシャルワール・カミーズという民族衣装(膝丈くらいまである綿のざっくりしたワンピースとズボン)を着ていて、独特のエスニックな雰囲気をかもし出している。打ち合わせを終えた皆さんは横一列にずらりと並び、中央の麻田先生からマイクをバトンにリレー形式で報告が始まった。まずは聞きなれない“語劇”ということばの説明から。これは外国語で演じる劇のことで、毎年11月の外語祭の伝統イベントになっている(1年生は各国の料理店を開き、上級生は専攻語で語劇を披露する)。つまりウルドゥー語科生はウルドゥー語で劇をするのだが、麻田先生は「やっぱり、現地でもやっちゃいたい!」と考えた。ネイティブにどこまでアピールできるのか??
◆2002年に第1回パキスタン公演に挑んだときはウルドゥー戯曲を演目にしたが、“印パドサ回り計画”が始まった2005年は戦後60年目の年。以前から先生が気になっていた木山事務所という劇団によるミュージカル「はだしのゲン」を演目候補としてクラスで提案してみると、それまでと違いすんなり受け入れられ、結果的に故地インド含め印パ両国で現地公演する計画へと発展することになった。厳しい世界情勢の渦中で核保有国となった隣国同士の印パ、そこへヒロシマを日本人が持って行く。2007年は印日交流年。重なった偶然は、大きなうねりとなってさらなる追い風となったのかもしれない。
◆「はだしのゲン」は広島で被爆した漫画家・中沢啓治氏の自伝的マンガ。原爆で、燃えさかる家の下敷きになった父と姉と弟を失った6歳の少年ゲンが、生き残った母や兄とたくましく生きていく姿を描くロングセラーだ。プロの劇団から「ゲンを演じるにあたり追体験をしなければならない」とアドバイスをもらい、ウルドゥー語劇団一座は日本人として真剣に原爆のことを考えてこなかったことを痛感した。それからは原爆関係の本を集めて読み、「原爆の図」丸木美術館を訪れ、映画を観て、原爆詩とも出会い、そこにある気持ちを汲み取り近づこうとがむしゃらな毎日だった。オリジナル版の公演ビデオをすりきれるほど何度も見たが、実際にやると全く上手くいかなかった。慣れない外国語による演劇、原爆という簡単ではないテーマ、海外での公演、何もかもが未知なる挑戦。そうしているうちに3月にはインド側とメールで主催依頼や会場選定の折衝が始まり、語科内ではオーディションにて配役が決定。まずは日本語のみで台本を読み合わせて感情とセリフを徹底的に頭と身体にたたきこんだ。夏が近づきメディアで原爆の特番が例年になく組まれる頃、ようやく本気で外国語で演じる覚悟ができたという。
◆ここで報告者は主人公ゲンを熱演した一座の団長・石井由実子さんに交替。「ヒロシマを追体験しようと頑張ってきたけど、実感がうすいこともあった」。日本人で生まれ育ちながらもヒロシマについてほとんど何も知らない自分たちを知り、夏には有志7人で広島を訪問。それがきっかけで新聞に取材されたが、掲載記事では語劇を行うことよりも反核・平和活動がテーマの中心に。ヒロシマのものをやろうとするとどうしてもメディアでは「反核」が前面に出てしまい、自分たちとのスタンスの違いを感じた。ヒロシマを背負って日本人として外国へ出向くが、根っこにある目的はあくまで文化交流だった。また、壮絶な人生を生き抜いてきた語り部の山岡ミチコさんからは「あなたたちにはひもじさはわからないはず」と言われた。「どれも重たいことば。私たちって何もわかっていなかったんだ…」と石井さん。実際に原爆に遭った被爆者たちと出会いによって全身でビンビンと感じるものがあった。同時に、いくら聞いても、知ろうとすればするほどに、体験しない者にはわかりえない壁もあった。私たちが印パで伝えていいのだろうか?と、演じる自分に無責任さを感じて悩んだ時期もあったが、「このままでは風化してしまうんよ。あなたたちが伝えていかないと。お願い、伝えて!」広島で口を揃えて告げられたその言葉でふんぎりがつく。
◆ここで報告者は竜吉・誠二役の町田優子さんと照明担当の相澤満弘君に交替、舞台裏の秘話公開!結団式後、それぞれが役の研究に没頭し、体力作りもスタートした。4、5月はひたすら日本語で台本を読み合わせ、早朝ランニングでは学校2周(=3キロ)を走り、6月中旬にはウルドゥー語の台本がついに完成。団員の私生活調査を実施してスケジュールを組み7月には立ち稽古を開始。学生が一気に海外に逃亡する夏休みも朝9時から夜7時まで特訓!「やるなら学芸会ではいけない!」と麻田座長。並行して99種類192個という膨大な量の小道具を、アイデアを出し合いさまざまな人の協力を得て全て手作りした。その一部を紹介すると、紙粘土製のさつまいも、新聞紙で作った頭蓋骨、ゲンの母親が劇中で出産する赤ちゃん・友子、唯一の大道具である障子…。これらを公演毎に梱包し、スーツケースにぴっちり詰め込む。始めはこれだけでくたくたになったというほど、とても丁寧に作業を行う皆さん。何度も繰り返して使われてきた道具もこんなに愛情を注がれて嬉しかっただろう。ユニフォーム代わりにお揃いのTシャツを作り、いよいよ気合は満ちていった!
◆ここからはゲンの父親役の下岡拓也君が登場。夏を迎え稽古にも熱が入り、オリジナル版ミュージカルの制作者がやって来て演技を見てくれた。「熱意が伝わってきていいけど、技術はだめだなあ!」と、お辞儀の仕方や立ち位置をその場でどんどん変えていく。例えば母親の出産シーン。ふろしきで母親の身体を隠していた元の演出は、(ふろしきの代わりに)芋虫のようにうごめく死体の山(人が演じる)で覆いつくされ、母親を隠すのと同時に生死が生々しく混在する状況を示す強烈な効果を出した。次第に演劇の素人だったチームの意識はぐんぐんと高まっていき、「腹の底から、語劇を演じてみたい…!」と、下岡君も湧き上がる思いに自分の変化を感じていた。出発直前、男の子役を演じる男女4人のメンバーはばっさりとベリーショートに断髪式!下岡君は85キロの体重を65キロに!プロ根性!語劇団一座は、大学や周囲からのカンパ資金とアルバイトで貯めた自己負担金を手に、ついにインドへと旅立った。麻田先生は言う。「ゲンを演じることで印パへ“核を捨てろ〜!”と言う気は全くなかった。ただ、日本製品であふれている国に肝心の日本人の顔が見えなくて…。日本人の顔を見せたかった!」
◆ここで原爆孤児・隆太役の境倫子さんにより劇の筋書きが明かされる。面白いのが麦穂が揺れるシーン。原爆投下前、風に揺れる麦を見ながらゲンは弟とどうやって食べようかはしゃぐのだが、骨抜きになったようにくねる人の身体で表現される麦穂は、何かのメッセージを発しているような不思議な後味が残る。原爆投下のシーンでは、会場を暗転してハロゲンライトの強烈な光と爆音を出し、会場が一体となって「ピカ!」と感じるように工夫した。不気味で目が離せないのがヤケドでただれた人たちの「幽霊の行列」シーン。真っ赤な背景に影絵の黒い人たちがそぞろ歩く光景は、黒いストッキングを手先につけて垂れ下がる皮膚を表現。印象的なフィナーレシーンは静かな灯篭流しの景色。浴衣姿の出演者たちが、「静かに歩いてつかァさい」(作詩:水野潤一)の朗読の中、鮮やかな灯篭をゆるり流すのだ。幅のある布を上手から下手に渡し、それをひっぱることで川の流れを作り出し、灯篭は見事に流れていく。
◆ここで休憩が入り、すかさず輪になるメンバーとこの日のために作った報告会用台本に修正を加える座長。時間が全然足りないらしい。休憩もそこそこに、次は相澤君と、姉・英子と夏江二役をこなした丸尾紫野さんが2005年インド公演の報告をしてくれた。公演地はラクナウからスタートしてインド全土にわたる10都市。パキスタン公演ではカラチ含め3都市。そして2007年のインド公演ではデリー含め4都市。街によって観客の反応が全然違ったそうだ。ラクナウでは緊張で足の震えが止まらず初演前夜にホテルの外で発声練習をしていたらうるさいと上から砂をかけられ、上演中にはカメラのフラッシュと携帯電話の鳴り止まない音に驚いた。チャンディーガルでは突然停電して音も光もないまま劇を進行し、モハーリーでは汗だくになる暑さで意識が朦朧となり、標高2206mのシムラーでは反対に寒さと酸欠に苦しんで、アリーガルでは男子学生たちの野次にいらいらしながら演じ、ボーパールでは駅に着いた途端に街をあげての熱烈な歓迎を受けた。
◆字幕・スライド担当の村上明香さんは、現地のパブリシティについて報告。2005〜7年の計3回の印パ公演でなんと合計155本の現地新聞記事に取り上げられ、テレビ・ラジオにも出演。メディアの反応が大きかった背景には、公演前に現地で行った記者会見の影響が大きいという。「印パではとにかくアピールしなきゃ。謙虚さは向こうでは何にもならない」と座長談。「今回の海外公演の目的の一つ、印パに平和の架け橋をかけることは少なからず果たせたと思った」という村上さん。現地のいくつかの取材記事に、核戦争をストップする責任は核保有国の印パが持っている、と書かれていた。
◆予想外にたくさんの人々を巻き込み長期にわたる大プロジェクトへと発展した中、3回の海外公演中メンバー変更はほとんどなかったという。石井団長は「(ゲン役が)決まってからは嬉しかった。ずっと出られるし、研究した」とはきはき話す。麻田先生曰く「今回だけは日本人が日本の何かを持っていかなければならず、本気にならざるをえなかった。日本人としてやれること、それを受け入れてくれたインドとパキスタンには、本当に感謝しています」。
◆さあ、一座の今後のスケジュールが大変気になるところ!でも、メンバーの本職は大学生。卒業組、自主留年組、就職組、卒論執筆組、インド留学組とそれぞれの進路へ一歩を踏み出し、学生と劇団員の二束のわらじで頑張ってきた語劇団もついに卒業を迎える。「もう終わり。現実的に考えてできないんです」と麻田先生はきっぱり。現時点での再結成はないとのお返事だったものの、一度でいいから生で観てみたいなあ…!(大西夏奈子)
私たちはこの記念すべき334回目の地平線報告会に向け、綿密な台本を用意して報告の準備を万端に整えていた(つもりだった)。しかし残念ながらマイクを握ると思わず話しすぎるメンバーが数名おり、時間切れとなって実際の報告に入りきらなかった部分が多数残ってしまった。今回「消えた25分」の再現をする機会を頂いたので、現地は観客のアンケート、日本は新聞報道を通して各国の反応を探ってみることにしたい。
◆初めてのインド公演では481人分の声が回収された。このアンケート、回収率が非常にまちまちでデータの精度にやや問題ありだが、一つの参考としてご紹介したい。まずは観劇者のデータだが、男性7割に女性3割、過半数が20代以下(最高89歳、最低8歳)で母語はヒンディー3.5割、ウルドゥー1割という結果であった。その他の母語話者も3割はいたが、ゲンが語る平易なウルドゥーはほぼ理解できたようだ。全体評価はexcellent 6割、good 2割という大変喜ばしい結果であった。
◆コメント欄では悪い点としてウルドゥーの発音、発声や滑舌の悪さが多く指摘された。しかし何故かアンケートの批判の数と観客の観劇態度の悪さは正比例するのである。演劇は役者と裏方だけでなく、観客も一緒になってつくる物なのだと実感した。逆に良い点としてもウルドゥー語は挙げられ、他にはミーム(パントマイム)の動き、演出、表現方法が良いという意見が目立った。ミームでは人が麦を表すなど、やや前衛的なしぐさも含まれたためインド人の感性にはまるかどうかが不安であったが、多くの人には理解し、かつ受け入れてもらえたようだ。麦が登場するといつも観客が何かを話し合うひそひそ声が聞こえたものだった。
◆「涙が溢れた」「世界中でTVに流したい」「核は二度と使われてはならない」……これらも全てインド人観客による感想だ。手紙ほどの文章を書いてくれた人もいた。手ごたえがまるで分からず最初は不安でたまらなかったが、こんな風に感じてくれた人もいたのだ。インド公演ではやや便乗ぎみだったアンケートだったが、パキスタンでは自分たちでアンケートを作成した。ペグシル(よく工事現場で使われる使いきり小型鉛筆とでもいいましょうか)も日本で4000本購入し、各自分担してパキスタンに持って行った。パキスタン全公演では1853枚のアンケートを回収した。
◆アンケートではインドと同様の身体検査の他、私たちのしゃべったウルドゥーについてと、劇自体についての評価をそれぞれ4段階でしてもらった。正直なところ、はるばる日本から劇を持ってきた私たちに多少は甘めの採点を期待したものだったが、ウルドゥーについての結果を見ると結構ガチンコで評価している人が少なくない状態で、私達学生なのになあ、と思わずにはいられなかった。しかし逆を言えば私達一人一人をウルドゥーの使い手として、正当に評価してくれたことであり、それは恐縮ながら若干のプロ意識が芽生えてきていたウルドゥー語劇団としてはうれしいことである。つまり、私たちは「子供の遊び」では終わらなかったのである。
◆劇についての評価はexcellentが全会場で80%と、とってもうれしい結果だった。パキスタン人が私達の劇から何を感じ取ったか、なんて正直なところわからないし、私達は「反戦」や「反核」を訴えているわけではないので、そういう面で伝わったのかどうか自信がなかった。でも劇が終わった後、私達の手を取って「すごくよかった!」と言ってくれたことや、アンケートのコメント欄に熱いメッセージが寄せられているのを読むと、ちゃんと伝わってたのかな、と思った。それに今思えば劇が終わるのを待つまでもなく、劇中あんなに静かに、真剣に、涙を流しながら観てくれたのだから、もうそれだけで十分、「伝わった」ことになるかな、と。
◆最後に日本の新聞の反応であるが、私たちの新聞デビューは2005年、広島訪問を取材した中国新聞の記事であった。その後インド公演を終え帰国すると、大学のPR活動として「ゲン」が取り上げられることになった。凱旋公演の前に急遽、行うことになったパキスタン人ジャーナリストを前にした特別公演のときには共同通信と朝日新聞が取材に訪れ、この共同の記事は各地で報道された。
◆2006年のパキスタン公演時は、団員が郷里の新聞社に連絡を取って、取材を要請した。稽古の合間を縫って団員は取材を受け、宮崎日日新聞、静岡新聞、中日新聞(浜松・遠州版に2度)、徳島新聞(2度)に「本県出身の○○さんが」という記事が掲載された。公演前も、現地でも、帰国後も取材を受けた。帰国後、文教新聞にもパキスタン公演の様子が掲載され、3回の海外公演のうち、ドサらしく売り込んだ結果として最も取材を多く受けた印象がある。印パの新聞でちやほやされてきた我々一座であるが、結果として日本でも新聞界を多少騒がせたのである。(相澤満弘、橋本恵、町田優子)
報告者となってくれた8人全員に「互いに相談せず、見せ合わず」を条件に書いてもらった。以下、到着順に掲載する。(E)
報告会に出るという知らせを受けるまで、地平線会議の存在を全く知らなかった私。HPを見たら、世界の色んな地名が目に飛び込んできた。なんだかおもしろい人たちの集まりみたいだ。渡航前は、稽古や準備に追われ、報告会について話が進んだのは、帰国してから。2年前に「ゲン」に出会ってから、3回の印パ公演をするにあたり、自分の生活を「ゲン」に捧げてきたといっても過言でないほど、私たちにとって「ゲン」は大きな存在であった。と同時に、最後のインド公演から帰国したあとは、「ゲン」中心の生活を抜け出し、自分の将来について動き出し始める時間が始まっていた。
◆そんな中、報告会2日前=帰国後2週間ぶりに、報告会の準備にメンバーが集まった。写真、新聞記事、映像などの資料は、これまで手元に貯めてきたものばかりだが、それをもとに話をするというのは初めて。客観的に自分たちの活動を振り返る機会なんて、今までなかった。過去の写真や映像を見ながら、苦労話・笑い話がとまらず、話し合い進まず。報告会は、発表しきれないくらい、伝えたいことだらけだった。「ゲン」を通して、公演をやり遂げる大変さと、それと引き換えに得られるものの大きさを知った。今まで自分たちのやってきたことが人に認められるって、ありがたいことだと思う。中華を食べながら、皆さんに刺激を受け、これからもっと人生をおもしろく彩る覚悟を決めました!!(石井由実子 他の皆の原稿を読むのが楽しみです♪)
運命というものは奇妙なもので、この文を書いているのもどんな因果でこうなったものだろうか。この2年間、僕の運命は狂いっぱなしである。18歳のとき、この大学に入学したてのころ、こんな姿が想像できたであろうか。運命は加速し、そして思わぬ方向へ僕を導いていった。今回、地平線会議からお声がかかったとき、ぜひとも報告会に参加したいと思った。
◆僕たちのやってきたことが認められた、話題にしてくれた、と嬉しくなったからだ。そして、僕たちの活動を見ていた人たちはどんな人たちだろう。是非とも会ってお話がしたいと思った。僕たちの報告を聞いていた地平線会議のメンバーの方々はとても真剣に僕たちの話に耳を傾けていた。これは2年半劇をやってきて日本で初めてその成果が表れた瞬間だった。正直、このように劇のことを堂々と話す機会がいままでなかったため、終わったときの気持ちは嬉しさと爽快感であふれていた。
◆そして、打ち上げ。周りにいた人たちは想像以上のアブノーマル集団だった。しかし、そこに悪い意味は微塵もない。そこにいたのはいつまでも夢を追い続ける格好いい大人たちだった。いつか、僕もこのような人になりたい、周りから「すごい」といわれる人になりたい、ほろ酔い気分でそう思っていた。この夜の出来事はまさに運命的な出会いだった。この経験は僕の人生の大きな支えとなるだろう。地平線会議の方々、本当にありがとうございました。(下岡拓也)
緊張した。どんなことでもいい、堅苦しくする必要はないと言われても、会場にいらしたのはなんとも経験豊かすぎる、魅力的な人ばかりで、我々のしてきたことはどのような評価を受けるのだろうか、と不安になった。「君たちは素晴らしい経験をしてきた」。そう言ってもらえて今は、ただ嬉しい。ただ、それだけだ。
◆発表者としてやって来た学生が7名、どんなことを話すかトピックを決めてから担当を割りふった。後になって気付いたのだが、我々がしてきたことは、実は2時間半ではとても語りつくすことができないということだ。2年をかけて繰り広げられたドサ回りの海外公演の詳細は、ぜひ2年かけても話したい。そんな気分になった。
◆マイクを持ってしばらくすると緊張は薄れていって、話したいことが次々とあふれていった。その結果、話しすぎ、時間超過し、他の団員からお咎めを受ける破目になった。「先生の悪口なんか書いてくださいよー」と某氏に話しかけられた。つまらない話だが、結論から言えば、先生には心から感謝している。見ればわかるが、先生こそ只者ではない。先生があってできた海外公演、この場を借りて「ありがとうございました」と言いたい。そして今回この会議で話す機会をくださった皆様、参加してくださった皆様にも感謝を。思い出の箱にしまいこむには、あまりに散乱しすぎた記憶の粉々しい欠片を少しは整理できた、という気分だ。ありがとうございました。(相澤満弘)
地平線の皆様とお会いする機会に恵まれた自分はとことん運が良いなぁと感じています。最初は(会議後に野宿をされるなんてまさか思わなかったので)「皆さん何て荷物が大きい!」と驚きましたが、二度目には皆様の経歴を聞いて驚き、ひっくり返りそうになりました。あの夜以来、また頂いた「地平線から」を開くたび、自分の常識や価値観について深く考えさせられる毎日です。大学を出て就職し、社会に溶け込み、世間と波風立てずに一生を終えることを果たして幸せと呼べるのか、ますます分からなくなりました。
◆餃子をごちそうになりながら江本さんに「今持っている熱い気持ちだとか、自分なりの尺度を社会に出て働きだしてからもずっと持ち続けることこそ大切だが、それが難しい」というようなことを言われ、そんなはずないと思いたい反面きっとそうなのだろうと思う気持ちもありました。思ったことはただ「今という時間の大切さ」です。皆様の顔を思い出すたび、少なくともやりたくないことをし続けて人生を磨耗させるのだけは嫌だと思わされます。やりたいことをしている人の顔、言葉は普通の人のものとは違っていてとても不思議に感じました。人生に迷う大学5年目の春です。最後に、報告会に参加させていただいて本当にありがとうございました。(町田優子)
「地平線会議」に参加する前、「地平線会議に出られる! それも報告者として!」と心躍る反面、私達の活動はここで発表するには何か違うのではないか、もっとバイクで世界一周とか、野宿、秘境探検などの野性味溢れる、ダイナミックな活動でないといけないのでは、と心配していました。私達は実際にインドとパキスタン両国で語劇をやりましたが、毎回割とちゃんとした宿に宿泊していましたし、移動なんてバス借り切って、という所もあったし…、と。
◆しかしそれは私の大きな勘違いでした。聞きに来てくれた方々はみな、別にサバイバルな話なんて私達に求めてなくて、ただ語劇の海外公演ということに興味を持って聞いてくれているのが分かりました。それに私達も応えようとしていい報告ができたような気がします。それこそ印パでの語劇公演と同じ感じです。向こうでは観客からあまりに良すぎるといっていいくらいの反応が返ってきて、私達はそれに手応えを感じながら、バネにして頑張りました。
◆今回の報告会では私も発表者側のはずなのに、DVDや写真を見ていると思い出がひとつひとつ蘇り、物凄く懐かしかったり少し恥ずかしかったりで、あの頃は若かったなあ、とほんの2年前のことなのに感慨にふけっていました。会議に参加したことで報告する、という目的とは別に私達も自分達のこれまでの軌跡を改めて認識できました。ウルドゥー語劇団の最後の区切りとしては最高の機会に恵まれたと思います。ありがとうございました。(橋本恵)
地平線会議への参加のお話をいただいたとき、興味を持つとともに、不安を感じた。印・パよりもむしろ、自国である日本の関係者から理解を得る難しさを経験していたからだ。
◆しかし実際は熱心に耳を傾けてくださった。それぞれの方が、世界や日本全国を舞台に、斬新で、素敵なことに挑戦していた。私の中の世界が広がった気がした。
◆入学当時、初めて自分たちの代の語劇について耳にした。いつもの大学内での公演ではなく、なんと、インドで公演というではないか!これはやるしかない!全学年から志願者を募ってオーディションが行われた。湧き上がる感情の全てを込めて演じ、幸運にも希望した役に抜擢された。原爆孤児でガキ大将の5歳の少年の役である。
◆モデルとなった劇団のビデオを最初に観たとき、子供の役をやりたいと思った。広島に行ってから、その想いは強まった。語劇を通して核開発を批判するよりも、子供たちの愛らしさ、無邪気さ、日常のなかでの家族のささやかな幸せをめいっぱい演じることで、大切なものが奪われる悲痛さを、自分の家族や大切な人たちに重ねて感じて欲しかった。国でも政治でもなく、自分たち自身に重ねて。
◆どこまで共感してもらえたのかはわからないが、たくさんの涙を見た。熱心に話を聞きに来る人たちがいた。
◆振り返れば、ずっと語劇に関わってきた。夏休みも語劇1本だった。大学生活=語劇と言ってもいいほどだ。でも、やってよかったと思える。語劇は私を大きく変えてくれた。度胸がついたし、世界を身近にした。印・パの人々や学生たちと交流し、「皆同じだ!」こんな当たり前のことに気づかされて驚いた。「印・パに架け橋を架ける」。今回の語劇の目標。私の目標は「世界に架け橋を架ける」こと。そのヒントを見つけたような気がした。(境倫子)
正直に告白します。最初にこの地平線会議のお話を先生から聞いた時、「これから就活だっていうのに、いったいどこに時間があるっていうんだ!」って思いました。しかし、なぜだかどうも気になって仕方がない。日本の冒険者って何よ!? しかもHPに載っている麻田先生のあのイラストっ!! もう参加するしかないでしょ。参加するに決まってるじゃない! ということで、私、丸尾紫野21歳おうし座のAB型は、いつのまにか参加することになっていました。
◆とは言っても、人前で話すのって苦手なんです、実は。劇は決められた台詞があるから暗記すればいいけど。しかも私の役割は、インドの各地の公演状況。相手にわかりやすく、おもしろく、臨場感もって話さなきゃならない。「どーすんの!? どーすんの!?」とライ○カードのCMのオダ○リジョーのような心境のまま、迎えた本番当日…。実は、何を言ったのか覚えてないんです。緊張してて。皆さん、私は上手く発表できたんでしょうか…? とりあえず、ギョーザをむさぼるように食べながら皆さんとお話した時には、どうやら楽しんで頂けたようだ、と勝手に納得していました。まぁ、過ぎたことは気にしない。
◆参加して感じたのは、「世界も広いけど、日本も広かった」ってことです。野宿野郎の皆さんを始め、世界各地を旅している方々。南アジアを旅してきた私は他の人より視野は広いだろうと自負していましたが、私なんてまだまだでした。すみません。修行し直します。最後にこんな貴重な会に参加させて頂き、しかもおいしい中華までご馳走になり、本当にありがとうございました!!逞しくなって、またこの会に挑みたいです。(丸尾紫野)
「ham aam nahiN haiN(我々は普通じゃないの)」というのが、我が語劇団の座長である麻田先生の口癖。私もそう思う。だってそうでなければ、毎年のようにインド・パキスタンに行ってウルドゥー語劇をやろう、なんて誰が考えただろうか。しかし、そのおかげでこんな特別な経験が出来たのだから、自分が「普通」じゃなかったことに感謝している。私はパキスタンに留学していた経験もあるが、今回のような体験は、留学では得られないものだった。留学の場合、私達が教わる役。そして今回は、私達が現地で伝える役である。彼らにいろいろ教わった恩返しに、今度はこちらが何かを伝えることができたなら、これ以上に嬉しいことはない。
◆今回、地平線会議に呼んでいただき初めて、私達のこの体験談を語る機会を得た。とにかく、語っても語りつくせない思い出の山。発表用になんとか内容をまとめたけれど、何を入れて何を省こうか、本当に難しかった。そして、会議中にも互いの発表を聞きながら、「あー、こんなこともあったよね」と思い出に浸った。こうしてまとめ、発表してみて、この経験が自分の中で本当に大きい存在となっていることを、改めて実感した。そして嬉しかったのが、ここにも「普通じゃない(なんて言ったら怒られるかな?)」、素敵な人びとがたくさん集まっていたこと。この場でこの報告が出来たことを、誇りに思う。(村上明香)
追伸:(江本の質問に答えて) すみません、役割を書くのを忘れていました。私は今回、スタッフとして参加しました。字幕・スライド係りでした。劇の途中、ヒロシマの様子をスライド投影したり、日本語の歌の歌詞の英語字幕を投影しました。その他、もう一人の留学経験者(残念ながら、今回は会議に参加しませんでした)と一緒に、インド滞在中の語劇団の雑用も(笑)。飲み水の調達とか、ホテル・空港のチェックイン、現地人ドライバーとのやりとりとか、電話番とか。先生には「僕の秘書」と呼ばれていました。
由緒ある地平線会議での報告。聴衆の視線と呼吸が違う。冒険や探検を求める人たちの中にいるだけで、僕たちも何か冒険をしたきたような気分になった。真の文化交流をするために海外で芝居をしてきた、これも一種の冒険だったのか?
◆2005年、インドで11公演。06年、パキスタンで10公演。07年、再びインドで7公演。冷房装置のない大講堂から州立の立派なホールまで、会場はさまざま。ずぶの素人がよくやれたものだ。
◆目的はふたつ。ひとつは、僕たちのウルドゥー語がはたして現地のネイティブの人たちの耳と心を揺さぶることができるか否かを検証すること。もうひとつは、同時代を生きる彼らに日本人の顔を見せ、日本人のアイデンティティーとメンタリティーを提示すること。外国語と演劇とメッセージをどう融合させるか、それが課題。「ヒロシマ」は格好の題材で、結果、核保有国として対立する印パ両国に被爆国である日本の出来事を訴え、平和のメッセージを伝えることになった。
◆異文化の中で、文化交流のあり方を模索する旅だった。恥を知る世代に属す僕に言わせると、日本の若者は恥知らずで怖いものなしだ。これがいい。日本で恥知らずは通用しないが、外の世界では恥知らずでないとサバイバルできない。そんな彼らを、印パへ連れて行きたいと思った。
◆ウルドゥー語での熱情あふれる名演。その演技と声が、観客の心を打つ。終わったあとの拍手喝采。共感し合えた実感。ここまで来るのに、僕は印パと30年以上も付き合わなければならなかった。一朝一夕に出来ることではない。となると、僕も冒険者かな? なら、地平線会議での報告も納得がいく。(麻田豊)
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