日本人が初めてチベット・ラサの地ををふんで百年目の2001年12月、地平線会議代表世話人・江本嘉伸さんを中心に「日本人チベット行百年記念フォーラム」が催された。明治から昭和にかけてチベットを目指して旅立った10人の日本人。ある者は仏教の経典を求めて、またある者は軍部の密使として、それぞれが命を賭けての過酷な冒険行であった。鹿児島と盛岡で健在の野元甚蔵さん、西川一三さんのおふたりがゲストとして元気な顔を見せてくれた。
◆今回の報告会はその十人のひとり、矢島保治郎・ノブラー夫妻とその時代にスポットをあて、特別ゲストを招いて江本さんが進行するという形で進められた。ただしゲストが誰かは、報告会が始まっても知らされず、どういう展開の報告となるのか?といつもの報告会とはひと味違う空気が漂っていた。
◆この日の画像を準備した落合大祐さんの開会の挨拶に次いでまず『チベット2002』というドキュメンタリー(岩佐寿弥編)のビデオの冒頭の部分がゆっくりと流された。あの范文雀さんの静かなナレーションがチベット世界へと誘ってくれる。遊牧の風景、農村の女たち、コワ(皮舟)、森の暮らし…。モノクロで紹介された写真はすべて江本さん撮影のものだ。
◆そして進行役の江本さんが立ち上がり本題に。スライドで十人を足早に紹介した後、江本さんは矢島保治郎の生い立ちを説明し始めた。1882(明治15)年、群馬の旧家に生まれた保治郎は、生家の生業が蚕の座繰り機の枠の製造販売を手広く手がけていたため比較的裕福に育った。また、機織り機での南洋貿易や親戚にアメリカで商売をしているものもあり、その目が海外に向いていく下地があったようだ。
◆座繰り機の「枠」とは何か、を説明する段になって、「実はきょうはその枠のことも知る特別ゲストに来てもらっています」と江本さん。会場の目が一斉に注がれる中、立ち上がったのは小柄な初老の女性、矢島保治郎の娘、仲子さんだった。驚いた人も多かったと思う。わけあってこれまでほとんどこういう場には登場しなかったひとです、と江本さんは説明した。そして「どうして今回矢島保治郎という旅人とその家族をテーマにしたか」種明かしをした。「実は仲子さんが意を決してチベットに行って来たのです」。
◆仲子さんは長髪で変人扱いされることが多かった父への反発もあって、チベットにあまり関心を持たずに若い時代を過ごした。しかし、長ずるにつれ父が暮らしたチベット、そしてノブラーという女性への深い関心と親愛の情が深まっていったという。ついに昨年8月、知人と共に父が6年あまりを暮らしたチベットに旅立った。ラサ、シガツェと巡った仲子さんのチベット体験こそがきょうの報告会のきっかけとなったのだ。
◆矢島の青春は日露戦争の時代と重なる。もともと渡米を希望して英語の勉強を始めていたが日露開戦の1年前、下士官候補生を志願、日露開戦と同時に上等兵として各地での戦闘に参加した。しかし世界を股にかけてみたいという思いは強く、ある日髪を伸ばし始め自ら変人を装い、強引に除隊した。目的は「世界無銭旅行」。10人の中でただひとり、仏教僧でもなく、特別な任務や後ろ盾があるわけでもない矢島が、四川省からの困難なルートを突破して2度もラサ入りし(2度目はインド・カリンポンから)、ダライ・ラマ13世の信任を受けて6年間もラサに滞在し、チベット人の娘と結婚して子ども(意志信)をもうけた。明治のヒッピー野郎はどこから見てもまさしく「地平線的」な人物なのである。
◆ラサの豪商の家に逗留していた矢島はある日、方眼紙を見つけ、それを使ってラサの市内図をつくった。それがダライ・ラマ13世の目にとまり、軍の兵舎の設計を頼まれた。当時チベットは清朝軍の侵攻に備えて軍隊の強化を図ろうとしており、日露戦争で大国ロシアに勝った日本の実力は注目されていた。偶然のようにチベットに入り込んだ“日露戦争の英雄”矢島保治郎の存在は、チベットにとって大きかったのだ。
◆1916(大正5)年、チベット軍の近代化を図る目的で英、露、日の3つの軍隊方式を競い合わせる試みが行われた。日本式の指揮は矢島がとった。日本式が1番だった、と後に矢島は書き残している。ラサでの矢島保治郎を何かと支援した実力者に当時チベット軍の指揮官だったツァロンがいる。その子息が矢島について書いた貴重な文章がここで仲子さんに渡された。チベット関係の数々の本の翻訳で知られる三浦順子さんが訳して会場に持ってきてくれたのだ。以下、江本さんが読み上げた内容。
◆「そのころチベット政府はたまたまラサに立ち寄った日本人の退役将校、矢島保治郎に、新兵たちに近代的な軍事訓練をほどこして欲しいと依頼した。矢島は同意し、またノルブリンカに日本式の兵舎を設計する手伝いもした。また1部隊をゆだねられ、日本軍式の訓練をほどこすことになった。モンゴル人兵士テンペイ・ギェンツェンが別の1部隊にロシア軍式訓練をほどこし、3番目の部隊は英国式の小銃射撃術を学んだ。
★軍事教練の仕事がなくなったあとも、彼はすぐに日本に戻ることなく、さらに5年ラサにとどまった。当時の彼の仕事は兵士たちに教練を行うことと、水泳のレッスンを行うことだった。父の話によると、矢島は風変わりな人物だった。彼はチベット人官吏のように装うことを望み、彼らと同じ髪の結い方をし、髷に赤いリボンを編みこみたがった。
★だが、この赤いリボンはチベット人の官吏にだけに許された特権なのだと言われて、ならば赤いリボンの替わりに黄色いリボンをつけるのではどうかと父に尋ねてきた。父はそれなら問題はないだろうと答え、それ以降、彼は長く伸ばした髪に黄色いリボンをつけて、髷に結いはじめた。(矢島保治郎の保護者役だったチベット人高官ツァロンの息子があらわしたツァロンの伝記より)」
◆矢島保治郎のラサでの日々については資料が少なく、これは貴重な証言だった。服装にこだわる矢島の気性もリアルにうかがえたのが、この日の報告会のすごいところだ。仲子さんも感動したようだった。江本さんによれば、矢島がダライ・ラマに取り立てられたのは大谷光瑞に派遣されてラサにいた多田等観の進言が大きかったという。当時、チベットにいた日本人は矢島だけではなかった。1915(大正4)年の正月は矢島保治郎、多田等観、青木文教、河口慧海の4人がラサで新年会を開いたとされている。映画「セブンイヤーズ・イン・チベット」よりも25年も前にこんなことが行われていたなんて!! 目からうろこ…である。
◆1919(大正8)年、矢島と妻ノブラー、意志信(チベット語のイシノルブ=宝=ダライ・ラマの意/因みに江本嘉伸さんはヨシノブという発音がチベットでは受けるそう)とともに帰国の途につくが、室蘭港で全荷物を盗まれ、無一文で郷里の群馬に戻ることとなる。華やかなラサでの暮らしとはうって変わって日本では厳しい生活を強いられた。長髪にイヤリング、外国人の妻、郷里の人々からは憧れに似た思いもあっただろうが奇人として扱われてしまった。
◆また、ラサでは貴族の娘として何不自由なく育ったノブラーにとっても日本での生活は辛いものだったようで、帰国を切に望みながらも果たされずに29歳の若さで病死してしまった。映し出された当時の新聞記事の「秘密國西藏の王様の娘ノブラー遂に死去す」という見出しからもチベットが遥かなる国だったことが窺い知れる。
◆その後、再婚した矢島は1933(昭和8)年、本日のゲストである、仲子さんという娘を持つことになる。意志信は母の祖国チベットを一度も見ることなく1943(昭和18)年に日本軍の兵士として戦死してしまったが、仲子さんは昨年夏、自らの足で父やノブラーが歩いたであろうラサの街に立った。世間でいう「風変わり」な父を持った仲子さんは「チベット」という単語には複雑な想いを抱いてきたそうだ。しかし、いざラサの街に立ってみると行き交うチベット人はもしかしてノブラーさんの親戚かもしれないと、他人の気がしなかったそうである。高度障害の苦労もあり、73才の仲子さんにとって大きな大きな冒険だったがその価値は十分あった。
◆矢島保治郎の時代から90年余り、報告会の後半では2006年のラサの風景を横内宏美さん、長田幸康さんが今のチベットの姿を写真とともに紹介した。夜間、鮮やかにライトアップされるポタラ宮。モノクロの世界から一気に強烈なカラーの世界へ。青藏鉄道が開通し、誰もが携帯を持ち、ファーストフード店は賑わい、街は中国人好みに変わってきているが、チベット人の心の礎は90年前と変わらないように思う(願う?)。
◆最後に1枚のモノクロ写真が映し出された。下半分が、フィルムに光がはいってしまったかのように白くなっていて、雪の中で夫婦者が二人の子供とうつっている。男は矢島である。妻「ノブラー」が抱いているのが、一歳を迎える頃の意志信だろうが、もうひとり矢島の隣に立っている女の子がいる。
◆ひょっとすると、2人の間には、もう1人別な家族がいたのではなかったか、と江本さんは推測し、以下の手紙を読み上げた。矢島がノブラーを連れて帰国したのち、次のような手紙がチベットから届くのである。おそらく多田等観が帰国する際、託されたと思われるこの手紙は江本さんの著書『西蔵漂泊』の中で発表されている。
★「知と愛に溢れた私の娘ツァムチュへ。最近おまえとおまえのご主人は、お元気と思い、喜んでいます。こちらでは、私と家内、おまえの娘、ラティとも皆元気にやっています。おまえがどこにいるのかわからないのでこれまで手紙を送ることができませんでした。そちらからも何の便りもくれませんでした。(中略)おまえは自分のご主人を尊敬し、愛する気持ちを強め、皆から羨やまれるようになるべきです。
★指揮官さんはツァムチュには悪いことをしない筈です。この娘は自分の国を捨て、とても遠い所を指揮官さんを愛し、指揮官さんのためを思って遠い国へ行かねばならなかった。もう、そちらでは彼女は頼れるのはあなたしかいないのです。彼女を愛と優しい心で面倒見てやってほしい、とお願いします。ここではラティは困らないよう、兄弟、親戚の人々がよく面倒をみているので、ご心配ないように。そして皆さん元気に自分の健康を守って下さい。そしてこちらにも元気なお便りを送って下さい。イシェガより 水の犬の年十月二日」
◆ノブラーという名はここに出てこない。しかし、文面から察して、矢島と結婚して日本に来た女性にあてた手紙であることは間違いない。「ツァムチュ」が、矢島保治郎の妻だったチベット女性の本名なのだろう、と江本さんは語った。仲子さんの目から涙が溢れている。チベットに思い切って出かけたのもノブラーのことを思ってのことだった、と語る。「行って本当に良かったと思いました」と仰るすがすがしいお顔の向こうにチベットの青い空が見えていた。(田中明美)
報告会に参加させて頂いてほんとうに良かったです。今まで私にとってはどこか重荷だったチベットと日本の二つの家族のことも江本さんが上手に伝えてくださいました。私にとって日本に父保治郎とやって来てあれほど故郷に帰りたい、と言いながら果たせなかったノブラーさんのことは片時も忘れることのできない終生のテーマです。その心情を思うと、ほんとうにお気の毒で家族としても辛いものがあります。私が昨年夏チベットに行ったのは、何よりもノブラーさんのご供養の気持からだったのです。
◆デプン大僧院でだったか、私が急な階段で転びそうになった時、ひとりの女性が手を差し伸べて助けてくれました。お礼を申し上げたら、なんと日本語で「どういたしまして」と言われるのです。多分台湾からの観光客だったかもしれません、とにかくその若くてきれいな女性にラサのお寺で親切にされたことがノブラーさんと重なり、思いがけずいい思い出になりました。
◆地平線会議の皆さんにお会いできたことも、大きな喜びでした。江本さんがこの活動を大切にされてきたことの意味がよくわかりました。2次会も参加させてくださり皆さんとお話できましたが、何よりも地平線の皆さんは顔つきが素晴らしいです。私ももっと前向きに生きていこう、としみじみ思いました。ありがとうございました。(矢島仲子)
■3月6日、15両編成のラサ行き「T22次特快」は、ほぼ満席で四川省の省都・成都を発った。おりしも春節(中国の旧暦正月)の15日が終わったばかりとあって、乗客のほとんどは春節を四川省各地の故郷で過ごした漢族中国人。赴任先のチベットへのUターンラッシュである。車内は軟臥(一等寝台、2段ベッド)、硬臥(二等寝台、3段ベッド)、硬座(座席のみ)の3つの世界に分かれている。各ベッドに液晶テレビと酸素供給口のある軟臥と硬座とでは、料金に約3〜4倍の差がある。トイレなどの設備にはもっと差があるだろう。硬座は2泊3日を座席のみで過ごすことになる。交代で椅子をベッドにしたり、デッキ部分を使ったり、工夫と助けあいで成り立つ、昔ながらの中国の長距離列車だ。
◆彼らにラサに行く理由を聞くと、ほとんどが「打工」と答えた。季節労働、出稼ぎである。都市部の経済成長に乗り損なったらしき農村の次男三男が多かった。彼らはラサなどの大都市ではなく、もっと賃金の高い、すなわち標高の高い、より厳しい建築現場、道路工事現場、鉱山などに送られていく。「この鉄道はバスの半額以下だからとても助かる。同郷の皆と一緒だから寂しくはないよ。早く金をためて故郷に帰って嫁さんをもらうんだ」。タバコの煙がたちこめる車内で(たしかこの路線は禁煙だと思ったが)一日中トランプに興じる彼らは、明るく気さくだった。
◆ラサに着いた翌朝、またラサ駅を見に行った。トラックの荷台20杯分ほどの若い軍人たちが、僕たちの乗ってきた同じ列車(折り返し成都に向かう)に整然と列をなして乗り込んでいた。帰郷する彼らもまた、四川省の農村出身者が多いそうだ。ラサ行き列車は北京、上海、広州などからもある。いったいどれだけ多くの漢族中国人がチベットに人生を託すことになるのかと考えると、空恐ろしいものがある。あ、ちなみに、景色は本当にすばらしいし、野生動物の姿も結構間近に見ることができる、といったあたりはNHKスペシャルでやっていた通り。ずっと天気もよく、やはりチベットは夏以外がお勧め!(3月10日 ラサにて長田幸康 ラサに向かう列車からケータイで奥さんの田中明美さんに電話がつながったそうです。すごい!!)
■こんにちは。横内さんの紹介で前回の地平線会議に初めて出席いたしました宮本です。推理小説やサスペンス映画のように楽しむことができました。漠然と持っていた矢島保治郎のイメージがしだいに崩れ、なにかもっとミステリアスでより魅力的な保治郎の姿が現れてきたように思えます。そして面影を宿した仲子さんという生き証人の登場にはほんとうに驚き、感動しました。
◆それにしても保治郎の女装写真はどう捉えたらいいか戸惑ってしまいます。最近、NHK・BSで放映したティム・バートン監督の映画「エド・ウッド」(1994)を観ました。エド・ウッドは1930年代頃にB級映画を大量に作った実在の「変人」映画監督です。そのなかで、エド・ウッドは恋に落ちた女性に「僕は……女装するのが好きなのだけど、つきあってくれる?」と言うシーンがあります。エド・ウッドは天才肌で女性にモテモテなのに、女装がやめられないのです。保治郎の写真はたんなる悪ふざけかもしれませんが、エド・ウッドのような「変人+天才」で、女装癖の気があったのかもしれないと考えたくなります。
◆私はもともと雑誌の編集や記者を長くやっていた者ですが、1993年5月にラサでデモに参加したかどで国外退去になったのを機にチベットにより強く関心をもつようになりました。このときは事前に地下組織のメンバー(スイスに亡命したチベット人)と接触し、どのようにデモを起こすか、どう展開するか、説明を受けていました。あるときはチベット食堂の奥の厨房、あるときは寺の屋上……と人目(とくに公安)のつかない場所で密会を重ねました。デモの当日、行進がジョカンに近づいたあたりで「タイム誌の表紙を飾れる!」と思えるような写真を撮ったあと、群集のなかに姿を隠したのですが、迷路のようなバルコル(注:ラサ中心部のチョカン寺外部を一巡する周回路)のなかで私服公安の追っ手をかわしきれず御用となり、フィルムも没収されてしまったのです。郊外の公安の施設に拘束され、食事も出されず、中国語・英語・日本語それぞれによる尋問を受け、ヤク・ホテルの迎え(保釈金を払ったということです)が来て解放されたのは深夜でした。
◆しかし「ただでは転ばない」精神でもって、北京の共同通信社に電話し(盗聴されない電話番号を知っていました)朝刊に載せることに成功しました。ただ後日、ラサに来ていた成田山の僧侶が上海で記者会見をひらき、「デモは2、300人程度でたいしたことなかった」とウソの証言をされてしまいました。国外退去だったので、すぐにカトマンズに出て、ネパール人ジャーナリストといっしょに英文で記事を書き、ロイターを通じて配信しました。そのあとダラムサラの亡命政府で大いに歓迎されたのは、その記事をみな読んでいたからでした。
◆ダラムサラでは大臣クラスの人(といっても亡命政府なのでたいしたことないですが)と何人か面会し、そのとき、スパイ活動をしないかと請われました。たとえば青海湖の近くに核廃棄物を捨てる場所がある、その土のサンプルを取って来られないか、あるいは森林伐採が行なわれている、その木材を運ぶ列車やトラックの写真を取れないか……、そういった内容でした。しかしそれでなくともブラックリストに名前が載っている可能性があり、へたに動くと中国に入れなくなるのではないかと危惧しました。
◆こうして図らずもチベット現代史の一端を知ることになり、スケールは小さいとはいえ、チベットの一面を肌で知ることができました。しかしチベット亡命政府の言い分にもプロパガンダが含まれていることがわかり、チベット側からのみ見ないように心掛けています。チベットの寺院や文物を破壊したのは、多くはチベット人自身なのですから。メールにしては長くなってしまいました。御寛恕ください。(宮本神酒男ホームページ http://nierika.web.infoseek.co.jp)
チベットに旅立った10人の日本人は、時代別に3つのグループに分けられる。「第1グループ(明治時代)」河口慧海(黄檗宗僧侶、1901年3月21日初めてラサに入る)能海寛(のうみ・ゆたか 東本願寺派学僧 1901年4月18日付け書簡を最後に不明に)、寺本婉雅(同 日蔵の政治工作にも力を発揮)成田安輝(外務省特別任務 1901年12月ラサ入りを果たす)
◆「第2グループ(大正時代)」矢島保治郎(冒険旅行家)青木文教(西本願寺派遣僧 ラサの貴族の家に3年)多田等観(同 セラ大僧院に10年修学 ダライ・ラマ13世と親交)河口慧海(2度目)
◆第3グループ(昭和時代)(情報)野元甚蔵(陸軍特務機関モンゴル語研修生 「チベット潜行 1939」)木村肥佐生 興亜義塾の塾生。「チベット潜行十年」西川一三(同じく興亜義塾生。破天荒な徒歩の旅を敢行、「秘境西域八年の潜行(上・中・下)」
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