2006年11月の地平線報告会レポート




●地平線通信325より
先月の報告会から

「きづなで登る八千米」

大蔵喜福

2006.11.24 榎町地域センター

 趣味と仕事を両立するために「山登りを続けていれば食える」。そう思ってやってきたと語る大蔵喜福(おおくら・よしとみ)さん。しかし、かつては山は仕事のネタ探しの場で、生業は編集、広告などの会社をやっていた。しかも最初の5年は得意な山のことは隠していたという。今では人を山に登らせる仕事が全体の3分の1を占め、ヒマラヤの8000m峰へ、5年間で5回の公募登山を主催、全員60歳以上、最高齢は71歳でチョー・オユー等に登った。8000m高齢登山者ベスト10のうち、6人までが大蔵さんと登っている。そこでは人が変わってゆくのが面白く、それを楽しみにやっているという。

◆日本ではかなり忘れられているが、アジア人が登った山として現地では誇りを持って記憶されているマナスル。そのマナスル登頂50周年の今年、二つの日本隊がマナスルに登頂した。その一つが大蔵さん率いる公募隊である。C1〜C2間で3名リタイヤしたものの、荘厳な風景の中を順調に登って行くスライドが続く。登頂後の下山もトントン拍子である。本当にこんな簡単に登れるものなのだろうか?それにはちゃんと秘密、というかそれを可能にした背景やノウハウの蓄積があった。

◆ベースキャンプ手前のサマ村までは、かつてはキャラバンで10日かかったが、今回はヘリ2往復で現地入り。現在ではヘリの方が安上がりなのだ。また、村から上部のキャンプも、昔は最多で9箇所設営されたが、現在はBCを含めて4箇所であり、C1とC3は同じテントが使い回される。そして他のメンバーがBC〜C1間で高度馴化を行っている間にシェルパやガイドがルート工作を進めて行くのだ。全員がBCを後にしてC1入りしてから、翌日にC2、ここからはずっと酸素を使用してC3、4日目には登頂し、その日に一気にC2まで下り、5日目にはBCまで下山。BCを出てから戻るまで実動5日間、シェルパ達もワンプッシュだけ。そもそも荷下げのためにもう一往復するほど装備を揚げていないのである。

◆このスピード登頂を可能にするには気象条件に恵まれる事も重要だが、それも運任せではなく、秋の最適なシーズンを選び、季節の変わり目のわずかに好天が続く時期を、気象データから予測して狙いを定め、日程を逆算して行動するのである。そのためには気象データの収集も重要で、昨年は「adventureweather.com」の数値予測を活用したが、これはかなり有効だった。

◆うまいものを食べて、家族的に楽しく登る。ということをモットーに、「人を喜ばせたい。快適に過ごして貰うためには、全てについて準備をしてゆく」という大蔵さんのベースキャンプと食事は、驚くほど充実している。食堂兼リビング、キッチン、倉庫、トイレの各テントの他、各メンバーに個室テントが用意され、雪解け水を集める簡易水道やソーラー発電、衛星電話やデータ通信、無線連絡用アンテナ等が設営されている。食堂兼リビングテントには、ダーツなど楽しく快適に過ごすための品々が用意してあり、また、隊員とシェルパ達が互いに憶えられる様に顔写真と名前も貼り出してある。

◆ちなみに衛星電話はキャンプだけでなく山頂まで持って行った。食事は、朝は納豆と豆腐、味噌汁から始まり、凝ったメニューの日本食が提供される。これら日本食の食材は1kgあたり1000円ぐらいで日本から空輸された物だ。そして、誕生日には立派なバースデーケーキまで焼かれる。これだけの食事を会話を楽しみながら食べるのだから、皆の食欲も増進し、ついに「限りある食料、限りなき食欲」という標語が必要になる程になった。平均年齢67歳、標高4900mのBCでの話である。

◆スライドの中に、ミウラBCの低酸素室で訓練している写真があったので、事前に日本国内でどのくらいの訓練をして行くのだろうと、2次会の席で質問してみた。意外にも、出発前に日本国内で集まったのは2、3回。しかも皆で山へ行ったのは1回だけ。実際に全員が初めて一堂に会したのは、空港だったという。では一体どこで、きづなを深めたのか?それは日本を出発してから山へ入るまでの期間だ。登山の開始までカトマンズに1週間、サマ村に10日間ほど滞在する。その間にけんかもし、文句を言い合える関係を築いてしまうのだ。そしてBCに入る頃には、個人テントよりも食堂兼リビングテントに集まって、お互いに会話することが一番の楽しみになっていたという。そこはさすがに高齢者、話のタネはたくさん持っている。

◆今回のマナスル隊を支えた現地スタッフは6人のシェルパ、2人のコック(日本人とシェルパのためにそれぞれ別なメニューのため)と1人のキッチンボーイ、そしてサーダー1人である。サーダーはシェルパの頭領で、この人が後方支援を取り仕切ってくれ、BCや下に日本人の留守番要員はいない。

◆現在の8000mの公募登山での登り方は、登山というよりも連れて行ってもらう旅行だが、シェルパのレベルが向上したことと、それに見合った金も支払われるようになったために可能になったことである。だいたいコックが月2000ドル、キッチンボーイが1900ドル、サーダー2400ドル、シェルパ2200ドル。この金額なら年間2つの登山隊と、プラスαでトレッキングのガイドでもすれば、ネパールとしては破格の高収入になる。

◆それに伴ってカーストによる差別も受けなくなったし、最近ではシェルパにもスポンサーが付いたり、客よりも良い装備を使っていたり、酒をおごってもらう事もあるそうだ。また、コックは日本料理店で修行を積み、年々腕を上げ、日本から持って行く食材のリクエストをする程になった。登山装備も現地の店で新品がそれなりの値段でちゃんと手に入る。このように山やシェルパ達を取り巻く環境は変わったが、村の風景は50年前とほとんど変わらない。電気が来て電線が通った程度で、寺の建物も、村の門も、ほとんど昔のままだ。

◆現在600人だという村の人口は50年間で200人しか増えていないし、村人は今もチベット文化を守っている。彼らにとってマナスルは神の宿る山で、50年以前は山を汚す、と大問題になって入山を許されず追い返された事もあったほどだが、現在ではそのようなトラブルはない。チベット語しか話さない村人たちの中で、例外は寺のヘッドラマ、最近になって出来た学校の先生、その奥さんで村の門外にあるロッジの経営者(チベット人だがこの村の出身ではない)の3人で、彼らだけがネパール語と英語も話せる。

◆村の物資もチベットから中国製品がやって来る。険しい谷でかろうじてつながっているだけで地方の中心地まで8日かかるネパールよりも、北部の山稜を越えれば1日半で街道筋にたどり着けるチベットの方が彼らにとっては近いのだろう。マナスルのスライドを中心に、公募登山とシェルパやヒマラヤの今を語って貰った報告会前半だった。

◆報告会後半では、大蔵さんがヒマラヤへ通い始め、さらにもう一つのライフワークであるマッキンリーでの風の調査を始めた軌跡と、その学術的でディープな内容が明らかにされた。大蔵さんは28歳の時にダウラギリ縦走でヒマラヤデビュー。それからヒマラヤへ通い始め、1983年、いきなり冬のエベレストへ行った。風が強い冬のエベレストに登るには? と  思案、強風をどう予測できるか、の勉強を始めた。

◆高層天気図を取ってデータを整理・研究した結果、BCで気温気圧値の相関関係から強風を予測するパターンを発見。その後、マッキンリーで友人が遭難したこと等で、エベレストでやってきた事をマッキンリーに応用し調査・研究活動を始め、1990年から自腹でマッキンリーに気温計、風向風速計、気圧計、などとデータロガーを設置してデータを取っている。初期の風速計では着雪などのためにうまく行かなかった事も多く、初めて通年の風速データが取れたのは5年目の事だった。

◆また、ソーラーシステムや風力発電による電力の確保も考えたが、環境条件的にどちらも無理で、乾電池の使用に落ち着いている。これらの機器から得られたデータと周辺の気象データ、理論的な計算値、風洞実験などから多くのことが解かってきた。例えば風速33mで人間は何もできなくなり、これはマッキンリーでは約44m、エベレストでは53mに相当する。冬のマッキンリーは気圧が低下し、ヒマラヤで言えば7000m相当になる。高所山稜付近の自由気流と地表温度の比較では、最低気温は地表の方が高くなる、などなど。このマッキンリーでの調査は、あと4〜5年は続けて強風の予測が出せるようにしたいと考えている。もうすでにレンジャーステーションにはディスプレーのための部屋が用意されているのだ。そして、出来れば山の風を割り出す方程式を作りたいのだが、それは難しいだろう。

◆2次会の席では、ぜひマッキンリーへ一緒に行きたい、という学生が名乗り出ていた。また、報告後の質問では、安東浩正さんとマナスルのゴミの現状、熱気球でエベレスト越えを狙った時の話、太平洋横断のための高山病対策などの話で盛り上がった。これぞ地平線!(松澤亮 洞穴探検家)

■言い足りなかったこと━━マナスル山麓の村サマ雑感■

 50年前(1956年)の5月9日に日本人が成し遂げたマナスル初登頂は、ネパールとの9月1日の国交樹立に大きく貢献し、また戦争で打ちひしがれた日本国民に大きな自信をうえつけ、さらにネパール人自身にも衝撃を与えた。欧米主導の国家的8000m峰初登頂競いに、敗戦わずかの日本が名乗りをあげた事にである。アジア人の仲間として誇れる歴史だというのである。このことを指摘した友人は「ネパールでは子供でも知っているのに、日本人は忘れている…?」と嘆いた。

◆それからの50年は双方の国に多岐、多様な変化と発展をもたらしたが、ここ10年来ネパールは不幸にも国内の武力闘争が激化し、平穏な信仰の国とは言い難くなった。経済も、在外同胞の仕送りがなければ成り立たないほどになった。武力闘争は、やっと今年の夏から秋にかけ和平への劇的な動きを見せたのだが、この渦のまっただ中でマナスル登山に興じていた私たちにとって、歴史の中に身をおいている実感は薄かった。われらが留まる中央ネパール北部のサマ村は余りにも辺境にあったからだ。

◆村のヘッド・ラマ、ウラ・ジグメ・ラマさんは村の子供たちに十分な教育を施したいと熱く語る。ロッジのラクシュミさんも「親が子どもの教育に対して理解が薄い」と嘆くが、彼等が最も望む教育行為そのものが、この村にたいして反作用に働く可能性も強い。村にはいまでも出入り口をかためるカンニ(厄よけの仏塔門)があり、その内側には人の生活があり、外には獣たちの世界とする自然崇拝がある。それは人が寄りかかって、思い助け合って生きる縦横のコミュニティーが村に存在することを意味する。物質文明と精神文明といったステレオタイプで軽々しく語れない営みである。

◆50年で村の人口は1.5倍となり、家庭に電気が来て豆電球が点く街灯もある、電話も二つ。しかし、様子は昔と殆ど変わっていない。建物も農地も。高度な成長は、ない。でも子供も青年も娘も老人までちゃんと数がそろっている。ここには出稼ぎの若者はいても、村を捨て去る人はいないらしい。孤高に生きることがどのようなことか?深く考え込んでしまった。(大蔵喜福)


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