植村直己冒険賞というのがある。山へ極地へと世界を駆けた植村さんの人となりを継承し、不曉不屈の精神によって未知の世界を切り開くと共に、人々に夢と希望と勇気を与えた創造的な行動を表彰する賞である。地平線会議はべつに冒険野郎の集まりでもないけれど、過去の報告者には受賞者が結構いる。探検や登山にしろジャーナリズムにしろボランティア活動にしろ、世界を相手に斬新なチャレンジを続ければ、そこには予測できない要素も生ずるに違いない。地平線の向こうはいつだって、未知なる謎とロマンのちょっと危険な香りがする。
◆そもそも冒険といっても範疇が広く抽象的なので、冒険家などという肩書きはあいまいで、ヘタするとアブナイ人間という胡散臭さが漂う。当の植村さんも冒険家という言葉には抵抗があったという。そう呼ばれるにも何かの冒険者とするのが適当であり、正しく専門的な肩書きを持っているはずである。過去の植村賞受賞者にも、登山家、ヨットマン、探検家、気球家、極地家、ランナー、サイクリストなどいるわけだけれど、今年の受賞者はリヤカーマンである。リヤカーマン?なんじゃそりゃあ?恐らくリヤカーマンなどという肩書きを持つ男は、地球上に一人しかいないに違いない。その男、永瀬忠志氏がこの日の報告者である。
◆リヤカー曳きながら世界を歩いて30年。その積算歩行距離がついに地球一周分4万キロを越えた永瀬さん、30年前に出会ったリヤカーとのなれ初めから話は始まった。大学生になって自転車で日本一周を達成し、次は徒歩で日本列島内陸部の縦断を企てた。自転車と違って荷物をたくさん担いで歩くのは難しい。そうだ!日本一周時に見かけたリヤカーを引っ張ることにしよう。出発地の北海道で以前にお世話になった人に頼んでみると、錆びてタイヤにひびが入っているボロボロのリヤカーを見つけてくれた。「ウワァ〜これか〜、まるでよぼよぼのばあさんじゃないか」と出発前から先行きに一抹の不安が…。そのわりに2万円という破格に高い?値段にビックリしたが、まあこれもめぐり合わせである。70日間の日本縦断が始まった。時に永瀬さん 19歳、以降30年もこの旅のスタイルが続くとは当時知る由もない。
◆歩き始めると早速、「不審者」としてケーサツに連行されることになる。住民の通報があったらしい。ところが健全な旅する青年であることが判明すると、鬼のケーサツも仏に変身。みすぼらしい服装に情けをかけられ長ズボンを頂戴した上に、飯を食わせてもらい土産までもらってしまった。これをきっかけにコミュニケーションが始まり、たくさんの出会いがあった。リヤカー旅に「目覚めて」しまったのである。
◆「今度は世界だ!」と大学を卒業しても就職せずに70万円をためた。母親は泣くし、世間は厳しいようだが、それしきでへこむ人間が日本縦断など達成してはいないであろう。まあ若者は荒野を目指すものなのである。文豪ゲーテの言葉にもあるではないか。「自分自身の道を迷って歩いている青年の方が、他人の道を間違いなく歩いている人々よりも好ましく思う」と。
◆海外リヤカー旅第一弾はオーストラリア。日本から搬送したリヤカーに、田舎者を意味する「田吾作」と命名する。さっそく歩き始めるが、何しろクソ暑い!日本の夏の比ではない。温度計は一番上の目盛り50度を超えてしまった。空気そのものが熱く、リヤカーの鉄パイプは火傷しそうなほど熱くなり、水を浴びてもすぐに乾いてしまう。「早くやめたい!パースに着いたらもうこんなことしないぞ!」と思っていたはずなのに、ゴールが近づくにつれて気分は変わってきて、4200キロの旅を終えると、今度はアフリカが頭に浮かんだ。そこは子供のころにあこがれたターザンの世界だ。「不屈の精神」と言えないでもないが「懲りない男」とは永瀬さんのことをいうのだろう。
◆帰国後4年間で貯金 40万円。餞別と借金で140万円集まった。そこには母親の餞別も…。「田吾作2号」でケニアを出発。しかし7ヶ月6200キロ歩いた途中の町、ナイジェリアのカノーで、旅は終結を迎えてしまう。大きな町ではリヤカーは邪魔だ。宿を探しにちょっと道脇に置いといて戻ってくると、荷物ごとなくなっていた。この時の永瀬さんの反応がすごい。「やったぁ〜!これでもう歩かなくていい」と飛び上がったのだ。出発して2日目には、やめる理由を探していた。ついにその願いがかなえられたわけだ。
◆「見つかったらいやだなあ、と思いつつ」一応盗まれたリヤカーを探してみる。結局出てこない。帰国を前に再び盗難現場を訪れた時、思いがけない気持ちがふつふつと沸いた。「よし、もう一回最初から始めるぞ」
◆帰国後、教員を務め、300万円が貯まった。次のリヤカーも同じ型で懲りずに「田吾作3号」と命名。いざアフリカのケニアへ。前回と同じルートを再出発する。なにも最初からでなくてリヤカーを盗まれた所から続ければいいではないか?リヤカーも軽くすれば楽なのに…と私なら思うのだが、こだわりがあるらしい。報告会後の2次会で尋ねようと思ったけど、まあ聞くだけ野暮な質問ではある。
◆日本ではアフリカ旅のいいことばかり思い出されたが、いざ出発地に立つと辛かったことばかり思い出され、体が拒否反応を起こして下痢するし胃も痛くなった。しかし旅はもう始まっている。景色はサバンナ、ジャングル、砂漠が続く。国立公園は野生動物の宝庫。ヤバイ動物だってもちろんいる。行く先にバッファローが現われた。突進されると危険だ。そっと進むが目が合ってしまった!うわあ〜気づかれた!どうしよう、と思いつつ何とか突破。でもこの先にはライオンがいるかも。こんなに怖いのなら地元の人に従ってやめときゃよかった。でも引き返そうにもバッファローもいるし…。
◆ジャングルのぬかるみに悪戦苦闘し、夕方には村でキャンプさせてもらう。言葉は通じないが、地図を指差して歩くふりをすれば、どこから来てどこへ行き、自分が何者なのかだって説明できる。ポリタンクを指差せば水場を教えてもらえ、水汲みにぞろぞろと人がついてくる。米を炊いてメシを食っていれば、人だかりが周りを囲み、後ろから押されて輪がどんどん縮まって、目の前に人の壁。「それじゃあゆっくり食事できないから後ろに下がれ、前のやつは座れ」と仕切る人もでてくるが、結局また輪は縮まってくる。バッグから砂糖を取り出せば「シュガーだシュガーだ」とボソボソ声が伝言競争のようにあたりに伝わってゆく。そんな時、しんどい旅にもかかわらず「来て良かったなあ」と思うのである。
◆前回田吾作が盗まれたカノーに着くと、ここから先は新世界だ。サハラは見渡す限り砂ばかり。リヤカーの車輪が砂にめり込み、 1メートル引くだけで息が切れる。車輪の下に長い板切れを置きながら進むが、 200メートルに30分もかかる。「何でこんなことやっているのだろう?」と、答えが見えずに頭が真っ白になった。ただ分かるのは行動しなければ何も解決しない、ということ。砂漠でのキャンプ中、彼方へ夕日が沈み星が輝き始める。何百万年も前から繰り返されるこの景色に比べ、自分の人生たったの34年。これもまた「ここまで来て良かった」と思う瞬間だ。
◆でも朝になると悲しくなる。ご飯の上には砂のフリカケがかかり、食えばじゃりじゃりする。今日もまた泣きながら歩き続けるのである。我慢の限界を超えると、風に向かってオラ〜ッ!と怒鳴るが、だからといってそれを聞いてくれる者はいない。2〜3分で自然と怒りは収まり、またおずおずとリヤカーを引き始めるのである。自分の知らなかった自分に出会う思いだ。アルジェリアで地中海に出てパリに到着した。 376日、1万1000キロの旅は終わった。
◆一昨年は南米を8800キロ縦断し、昨年はひさしぶりに日本縦断に再チャレンジ。19歳から49歳と年をとった永瀬さん。同じルートをゆくこの旅は30年前への回帰の旅でもあったようだ。当時お世話になった人々との再会劇が、昔と今の写真を交互に映しながら語られる。出発点の日本最北端宗谷岬のバス停も、ボロ小屋がすっかり立派になっている。足のマメを治療してくれたじいさんは亡くなり、息子が30年分年をとり、親子ってこんなに似るものかと思うほどそっくりだった。地下足袋をもらった商店のおじさんも亡くなってたが、娘さんに当時の寄せ書きをみせると「お父さんの字だ!」と喜んでもらえた。
◆学校の先生にお世話になった集落はダムの底に沈み、神社で会った男の子は今は父親になっていた。雨の中で震える思いで車庫での野宿を頼んだ家で、ストーブにあたりなさいと泊めてくれたおばあさんも亡くなり、じいさんが一人暮らしていた。「泊まっていくかい?」と30年ぶりに二人で語った。「もう会うこともないだろう」と一万円札を握らせてくれるじいさん。ここで永瀬さんは言葉に想いが詰まって、なかなか声が出てこなかった。
◆食事にレトルトと卵に“お父さんの楽しみ”のビールを買う。昔は個人商店が多かった。「お金はいらないよ」とふれあいもあった。ところが今はどこも同じ対応のコンビニばかり。旅は便利になったけれど、何のハプニングも起こらなくなってしまった。ジャリ道はアスファルトに変わり、トンネルも車も増えている。トンネル内でトラックが来るとぶつかりそうだ。工事用の点灯ライトを振りかざし、止まってくれ〜!と自己アピール。懸命に走って逃げる。怖かった〜。
◆30年前、リヤカーがついに壊れて自転車屋にみてもらった。一万円の修理費が高くて払えないでいると、半額に負けてくれ、さらに近所からカンパをいただき、結局格安で修理してもらった。そのじいさんも亡くなっていたけれど、孫がいて覚えていてくれた。かつて山間にあった炭焼きの集落では学校で泊めてもらった。だが廃村になり誰もいない。その学校の黒板に残された村人の寄せ書き。どんな気持ちで人々は出て行ったのだろう。そして鹿児島の佐田岬に到着。「まさか50歳まで続けているとは思わなかったけれど、なんとか無事に30年ぶりに終わりました!」
◆リヤカーマンの30年の歴史が凝縮された2時間であった。冒険賞受賞作とはいえ冒険活劇を見たという雰囲気ではない。そこには人々の笑顔とドラマがあり、神秘の大地があり、時間と世代の移り変わりと、現代社会へのテーゼがあり、一人の人間の苦悩があった。ボーケン家と聞くと、ややもすれば人が驚くような記録を狙っているとでも思われているフシがある。しかし真なる冒険者は、金や名誉やギネス、ましてや世間から賞賛を浴びるためにやっているわけでない。まあそういう人もいるかもしれないが、真者からみればママごとにすぎない。それは永瀬さんの話を聞けばおのずと分かるであろう。話にも出てくる「よかった」と思う瞬間のために、男の涙が語る出会いの奥深さに、その答えはあるに違いない。(安東浩正 第8回植村直己冒険賞受賞者)
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