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坪井伸吾 |
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ホットな報告を聞けるのが、地平線のいいところだ。11月の坪井さんもその通りとなった。日焼けした顔に“走リーマン”の旅の余韻をにじませながら、ブルーのナイキのシャツにジーンズ姿で帰国したばかりの思いを、気負うところなくたっぷり語ってくれた。200枚の写真、履きつぶした靴、愛用のザックなど旅を物語る道具類の数々、それと配布された克明な記録が会場を、特に江本さんをうならせた。
◆マラソンといえば、大勢が集団となって決められたコースを、伴走車に従い沿道の声援を受けながら走り抜けていく印象が強いが、坪井さんの旅は自分でコースを調べ、現地で情報を集め、どのように走るのが最良か、すべて自分で考えながらのひとり旅だった。「旅とは選択肢の連続」と誰かが言っていたが、坪井さんの報告の中でもたとえばグーグルの衛星写真地図で道路を見せながら「ここがこうなっているから、僕はこの道を行ってみました」的な選択の過程をつぶさに追っての話が多かった。会場の人たちも坪井さんと同じ目線で考えながら話に聞き入っていたに違いない。まさに体力プラス頭脳のマラソンだったのではなかったろうか。
◆5月9日に西海岸のロスアンゼルスを出発。東海岸のニューヨークまで5,400KMの走り旅。時にはペットボトルの水を何本も持ち、ザックの重量は15Kg以上にも。を背負っての走りは、並大抵の苦労ではなかったと思う。僕も報告会で旅を共にした時と同じ状態のザックを背負わしてもらったが、15Kgというとおよそ幼稚園児1人分の重さ。同じ15kgのMTBを担いでエベレスト街道を歩いたことがあるが、何せキョリが違う。「これを背負ってのマラソン!」と想像しただけでも、底知れぬ体力の持ち主だと脱帽した。彼をかりたてる原動力とは何だろう、坪井さんはこんなふうに答える。
◆「できるとわかっていることをなしとげても僕にはあまり感動がない。はじめて42・195キロのフルマラソンを完走した時はほんとうに感動したけど、次にもっと早く完走できた時には同じ感動はなかった」「うちの5歳の子どもを見ていると、昨日できなかったことが今日できるようになる。育ちながらどんどん新しいことができるようになってそのたびに喜びを感じている子どもを見ていて羨ましいと思う。おとなでもそういう感動を持ちたいんや。昔なら思ってもみなかったアメリカ横断ランを通して自分でもこんなことができるんや…と、今回はほんとうに何もかも新鮮でした」未知の世界に挑んで結果がどうであろうと、そこに感動がなければ旅する意味がない、これぞ坪井流旅の醍醐味と察知した。
◆単独行は自然に体当たりしていくのと同じだ。恐怖が襲いかかる。竜巻に雷、ヒョウ、40℃を越す暑さ。野宿では毒グモに毒ヘビに脅え、真夜中の野犬の声に身を縮ませる。90KM以上道しかない無補給地帯を抜けたり、だんだん体が極限状態になっていく。「おかげで危険予知能力が鋭くなりましたね」
◆極限状態に身をおくと、逆にささいなことで幸せを得ることもできる。何もない風景の中に突然、砂漠のオアシスのように水や食料があるガソリン・スタンドが見えて感動したり、モーテルで思いがけず白飯にありつけたり、車が停まってくれて親切を受けたり…、最高一日に8台の車が停まってくれたそうだ。アメリカ人にもいい人は多いのである。さすがクリスチャン国、隣人愛は本物だ。
◆しかし家のフェンスに近づけば、いつ発砲されるかわからない銃社会アメリカの現実にも苦悩する。不審者と思われたこっちが悪いのだ。緊張は続く。また走っている時はいつも孤独だ。このような精神状態を克服するには、歌をうたったり1人遊びがいかに上手にできるか、「旅を続けるには、そこがキーポイントですね」と坪井さんは語った。
◆イリノイ州スプリングフィールドで時間切れのため一旦帰国。やり残した部分はどうするか。だが心配はいらなかった。「ヨメさんが、やってもいいよと言ってくれました」と笑みを浮かべて話す。家族の「挑戦続行」の許可がおりた。この過酷な旅に覚悟を決めてご主人を送り出した奥さんの愛も本物だ。
◆再び太平洋を越え、第2ステージとなったニューヨークまで、残り2,000キロを走破。5月に猛暑でパスしたモハベ砂漠のルートに再挑戦して、11月8日に足跡が太平洋から大西洋まで1本の線としてつながった。
◆最後の野宿では、これでもう旅がおわると思うと寂しさが募ったと言っていたが、旅の終わりは次への始まり。「今度は何をやるんですか!」と聞いてはいないが、配られた記録の1つ行動履歴書(実に面白い!)を見るからには、坪井さんの破天荒な冒険はまだまだ続きそうである。報告会には、その理解ある奥さんも来てくれ、質問タイムは大いに盛り上がった。
◆今回の旅のエピソードは過去の地平線ポスト〈坪井現地報告〉も読むべし。
(瀬口 聡 86年12月「第86回」報告者 「日本大縦断」のテーマで)
■大阪でも坪井伸吾さんの報告会を企画中です。目下のところ、06年2月25日(土)を予定。関西周辺の方は予定しておいてください。会場など詳しくは追ってお知らせします。(E) |
■池田拓さんのこと |
坪井さんの報告の中で山形県出身の冒険家、池田拓(たく)さんのことが語られた。報告会に山形から駆けつけた飯野昭司さんが、坪井、池田両君について一文を寄せてくれた。(E)
東京へ出かけたのは昨年の「300か月フォーラム」以来一年ぶり。報告会の冒頭で丸山さんが紹介していましたが、坪井さんと初めて会ったのは96年の神戸集会でした。「11年にわたる世界一周の旅から3日前に帰ってきたばかり」という自己紹介が今も耳に残っています。
◆神戸集会で披露された『地平線データブック・DAS』のコラムに、南米と北米を歩いて旅した池田拓さんのことを書かせていただきました。拓さんの実家は我が家の近くにあり、彼が帰国した新聞記事を読んだ後に会って話を聞きたいと思いました。しかし、帰国の翌年、拓さんは不慮の事故で急逝し、直接話を聞くことは叶いませんでした。
◆昨年久しぶりに坪井さんと会ったときに、彼が南米で拓さんと出会っていることを聞きました(拓さんの旅日記『南北アメリカ徒歩縦横断日記』(無明舎出版)にも載っていました)。坪井さんは、あまり話をしなかったけれど拓さんのことは強く印象に残っていると話してくれました。
◆今春になって、北米大陸横断ランに出かける前に拓さんの実家を訪れたいとの連絡があり、出発直前の4月下旬に坪井さんが酒田へやってきました。酒田にある東北公益文科大学で旅の報告会をしていただき、翌日二人で拓さんの実家にご両親を訪ねました。長居をするつもりはなかったのですが、父親の昭二さんから積もる話を聞き、母親の玲子さん手作りの昼食を御馳走になり、午後からは鳥海山の麓までドライブに出かけ、夕食も御一緒して…とまるで家族のように素敵な一日を過ごしました。
◆拓さんが亡くなって早くも13年になりますが、新聞やテレビで何度も紹介されたせいか、今でも実家を訪れる人が多いそうです。小説(「神、東方より来た る」作:小笠原敏夫)では“神”になったり、今年は歌(「イヌワシになった青年」作詞・作曲・歌:へんり未来)も作られました。時間が経てばだんだん忘れられるのが普通ですが、拓さんは逆に注目を浴びているように思えます。
◆北米大陸を横断しニューヨークに到着した坪井さんは、友人の中村健吾さんの家から無事到着のメールを送ってくれました。中村さんはニューヨークを拠点に活躍するジャズベーシストで、11月の日本公演では酒田でも演奏する予定と聞いて驚きました。報告会のちょうど1週間前にライブを聴きましたが、中村さんのベースはもちろん、サックス、トランペット、ドラム、ピアノ、どれもハイレベルな演奏で、まるでニューヨークのライブハウスにいるような(もちろん行ったことはありませんが^_^;)、そんな気分に浸ることができました。
◆坪井さんを通じてずっと心に残っていた池田拓さんの実家を訪れることができたこと、坪井さんの古くからの友人である中村さんの演奏を酒田で聴けたことに、何だか不思議な縁を感じます。今回の報告会は私にとっても一つのゴールでした。(飯野 昭司 12月4日山形発)
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▲11月の通信の報告会レポートの中で、一箇所ミスがありました。2ページの最後の部分と3ページの最初の部分が文章としてつながっていません。1行すっぽり抜けてしまっている(『』部分)のです。以下、正しい文章を再録します。書き手の多胡光純さん、報告者の北村昌之さんにお詫びして訂正します。
◆バンブー筏は全長11m、幅2.7m。筏の操作は湯豆腐スプ『ーンの様な竹製のパドル。以後、』激流の中でラフトを自在に操ってきた川下りのプロ達は川下りというよりも漂流に近い川旅をしいられることになる。この怪しい筏は時に住民との交流を円滑にし、時には麻薬の密売グループと間違えられ拿捕され、日に何度も行き交うタンカーとの衝突を命からがら交わしたり、と波乱続きだった。
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