◆2004年12月、「シベリアに決着をつけるため」日本の最果て稚内をスタート。宗谷海峡をフェリーで渡り、サハリン(樺太)を自転車で走り始める。いよいよ話が始まるかと思ったら、安東さんは悔しそうな表情を浮かべた。じつは帰国時にサハリンを通過した際、自転車を盗まれて撮影済みフィルムの4分の1を失ったのだ。16歳の女の子に自転車を運転させてあげたら、そのまま乗り逃げされてしまった。「命の次に大切」というフィルムは2度と出てこなかった。
◆サハリンの南半分は元日本領である。日本風の建築物を見て日本人と出会いながら、北へ向かう。あえて寂れた間宮海峡側をルートに選び、雪に苦労しながら進んだ。安東さんの報告会では、毎回パソコンを駆使して「動く世界地図」を見せながら話が進むが、今回はそれにGoogle Earthという驚きの地図が加わった。地球の衛星写真をどんどん拡大してゆくと、大陸の地形がわかるようになり、ついには町の家一軒一軒まで識別できるようになるのだ。(実際、藤沢の自宅を示して会場を沸かせた)この地図とGPSがあれば、地球上で行けない所はもうないと安東さんは言う。
◆話題が様々に飛びながらも、旅は間宮海峡の最狭部へたどり着く。大陸に向かって、海が凍った大氷原に思いのままのルートを描いて進んでゆく。それは、海峡の真ん中に差しかかったときのことだった。突然氷が割れて、自転車ごと氷の海に落ちたのだ。だが、意外にも海水は温かかったという。外気温−20℃に比べての話だが。沈むと思っていた自転車も浮いていた。海から何とかはい上がると、途端に衣服がバリバリと凍り始める。すぐにテントを張って服を着替え、生気をとり戻す。「自分の限界を過信しすぎていた」と安東さんは振りかえる。一歩間違えれば死んでもおかしくない話だが、それでも助かったのは、やはり周到な準備とトレーニングを重ねてきたからなのだろう。同行していたパートナーは、その先で日本へ引き返したらしい。
◆大陸に渡ったあとはオホーツク海を進む予定だったが、その道がどうしても見つからない。冬道ではなく「正式な」道をたどらざるを得なくなり、その通過は後回しにして、鉄道と車を使って2年前通過したオイミヤコンへ向かった。そこは−72℃を記録した世界最寒の地。このときも−52度くらいまで下がり、−50度前後の気温が1週間続いた。
◆2年前の装備なら3日ももたなかったと言うが、今回の新装備は絶大な威力を発揮した。身につけるものほぼ全てにVBL(ベイパーバリアライナー)という方式を採用している。訳すと防湿素材。肌と保温材の間にビニールのような素材をはさみ、羽毛などの保温材が汗で凍るのを防ぐというのが基本的考え方である。このような素材をいかに自分に使いやすくするか、カナダや知床で試行錯誤してきた。その完成形というのが今回の装備である。安東特許とでもいうようなものだ。「−60℃くらいど〜んとこい!」と思ったという。
◆自転車もこれまでに比べてずいぶん軽量化した。大学の機械工学科出身という安東さんならではの発想である。その裏にはいくつものスポンサー会社の協力もある。1つ1つの会社を回って頭を下げ、支援してもらうには大変な努力がいるだろう。上映された写真のうち装備が写っている写真には、必ず商標のマークを加えていた。そんな科学的工夫と地道な努力をいくつもいくつも重ねて、安東さんの壮大な冒険は成り立っているのだ。
◆シベリア横断の続きということでいえば、オイミヤコンが真のスタート地点である。冬の道は、北極海に向かって北東方向に続いている。オーロラを見上げながらトラックのトレースをたどってゆく。時おりすれ違うトラックが止まって食料をわけてくれる。自転車で旅をするのは人と出会えるからだと安東さんは言う。川でナマズ釣りをするエベンキ族に会い生の肝臓を分けてもらったり、ヤクート族の小屋で馬のモツ鍋を頂いたりしながら東を目指す。「サマゴン」という自家製アルコール度数90度の酒は飲むこともできるが、ラジウスのプレヒートにも役立つらしい。
◆安東さんは自由自在に話を進めてゆき、講演を楽しんでいるように見えた。多くの場数を踏んで、話し方にも安東スタイルが確立されつつあるようだった。
◆北極海が近づくにつれて、風景はタイガの森からツンドラの大雪原へと変わる。まるで「SFの氷の惑星」にいるようだという。冬の道を探すときは、「ワクワクするようなロマン」を感じる。北極海から先の道は予想していた海沿いではなく、山岳地帯の内陸へ延びていた。このあたりのツンドラには、トナカイ遊牧民のチュクチ族が住んでいる。お茶に誘われて、そのまま泊めてもらうことが何度もあった。1つの遊牧キャンプで所有しているトナカイは千頭以上だが、生活は実に質素だ。ヤクを飼うチベットの方が豊かに見えたという。ソビエトの崩壊とともに、辺境の地は中央から見捨てられ、人々の生活は昔のスタイルに戻っているらしい。会場では、お土産にもらったというトナカイの毛皮のコートや帽子が披露された。
◆次第に春が近づいてくる。雪が解けた地面には前年氷漬けになったベリーが現れて、冬眠から覚めたヒグマの足跡を見かけるようになる。川の氷が薄くなり始め、腹ばいになって渡ることもしばしばとなり、再び氷水に落ちた。最後の試練は強烈なブリザードだった。猛烈な風でほとんど進めず、自転車を捨てようかとさえ思う。脱出用のスキーは常に自転車に積んでいた。やがてテントから動くことができなくなり、精神的に追い詰められる。珍しく日本へ帰りたいと思い始め、4歳の娘の顔が浮かんだ。
◆5月13日、出発から6ヵ月後にベーリング海へでる。最東端のデジネフ岬まではまだ400kmあるが、気温が上がり冬の道は消えつつあった。極東シベリアの旅は、このエグベキノットという町がゴールとなった。報告会の最後に「次は何をやるのか」という質問がでた。安東さんは「自転車はもういいです」と答えた。チベットとシベリアの冬季横断をやり遂げたあと、莫大な資金のかかる極点をのぞいて、もう残されたフィールドはないのだろう。「冒険とは課題を見つける能力」だという。バフィン島で挑戦したスキーや、マニア級と自称する飛行機もこれからのツールになってゆくのかもしれない。「でももし自転車で何かをやるのなら」と言いながら、最後の写真を見せた。そこには月面の写真が写っていた。(小林尚礼 この冬に初の単行本「梅里雪山」を出版予定)
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