2004年10月の地平線報告会レポート



●地平線通信301より
10月の報告会から(報告会レポート・303)
谷から来る男
丸山純+令子
2004.10.29(金) 新宿区榎町地域センター

報告会レポート ◆今日のテーマ「なぜ同じところに通うのか」−ほんとうに、どうしてですか?

◆パキスタンはチトラル、圧倒的多数のイスラム教徒の隙間を縫って、カーフィル(異教徒)として今は3つの谷に暮らすカラーシャの民。そこはパキスタンという国の中にあるもう一つの世界、カフィリスタン(異教徒の国)である。彼らは古来の多神教を信仰し、独自の祭り、言葉、衣装などを守っている。カラカラに乾燥した周囲の景観をよそに、灌漑水路を築いて緑豊かな春を迎える。

◆今夏、丸山さんと令子さんはチトラルにいた。丸山さんは15回目の来訪、通い続けて26年!令子さんも20年以上チトラルに通っている。ムンムレット谷のブルーア村が、東京生まれ東京育ちの丸山さんにとっての「故郷」。村のみんなが迎えてくれる。

◆丸山さんは中学生の頃から洞窟探検にのめり込み、当時創刊された雑誌『現代の探検』(8号で休刊した)や向後元彦さんの著書「ひとりぼっちのヒマラヤ」に衝撃を受ける。そして、宮本常一さんが所長をしていた「カンブンケン(日本観光文化研究所)」へ。思い出話には、地平線にゆかりの方々の名前が次々と挙がった。皆さん、随分長くこんなことしてるんですね。しかし穏やかな風貌の丸山さんが、洞窟!そんな熱血少年だったなんて。聞いていたって信じがたかったが、さながら噴火口に潜ろうとしているかのポーズ、手作りの縄梯子を手にした写真など、セピア色の画像(地平線の古参メンバーでさえ初めて見た、というお宝でした!!)がそれを事実だと伝えてくれた。ああ、人に歴史あり。

◆丸山さんは向後さんに「最低でも四季を経験しないと」と諭され、伊藤幸司さんに「土地の面白さは言葉を知らないと」と教えられる。卒論をきっかけに、チトラルのカラーシャに目を向けた。1978年8〜12月がはじめての滞在である。それから今までムンムレット谷とその周辺に通っている。

◆祭りだ、葬式だと、カラーシャは年の90日程を歌い踊る。これは大事な儀式の一部なのだ。観光客が訪れ、表面的にはツーリスティックになっているように見えても、恍惚と踊り続ける彼らに「未開性」を感じる。棺桶は埋めたらそのまま、目印も残さない無機的な雰囲気にショックを受ける。丸山さんはカラーシャに魅せられ、若い男たちから言葉を学んだり、女たちの畑仕事を手伝ったりして村に溶け込んだ。

◆そして、このカフィリスタンにも90年代半ば以降ギリシャなどからの援助が入った。だけど援助って何ですか。素朴な儀礼の場がコンクリートで固められたり、カラーシャのための立派な学校を作ってくれたり。文字のないカラーシャ語に文字をあてがい教科書も出来た。奨学金もくれる。土地を買い取り、鉄筋4階建てのカラーシャ博物館も建設中だ。

◆自分はここで学ばせてもらっている立場、与えてもらう立場だと考えていた丸山さんだが、日本パキスタン協会と縁があり、女性や子どものための基金をつくった。この数年、谷近くのイスラムの村ドローシュにある、貧しい子どもと女性教員を養成するための学校を支援している。校庭には遊具をおいた。絵本を読み聞かせたり、絵を描かせたり、楽器やデジカメの教室も。初めての母親参観日、子どもたちは「おおきなかぶ」を上演した。こうした情操教育は、イスラム原理主義の厳しい現地では難しい。報告会では10分強のビデオが流れたが「学校は楽しいところ」と子どもに印象付けたいという狙いはばっちり。丸山さんは、何かを与える側に立った。モノではない何かを。これからも。

◆丸山さんが初めてチトラルに行った時、私は2歳。若かった。大学4年のときに地平線と出会い、人の話を聞くだけで人生を終えたくないと痛切に感じ、働いては旅に出ている。お話を聞きながら、いつだって人は誰かに刺激され、前に向かってゆくのね、としみじみ感じた次第だ。11月7日は大集会。たくさんの刺激を得ることは必須。旅心爆発だろう。丸山さん渾身の『大雲海』も楽しみである。[後田聡子



報告者からの控えめな補足
報告会翌日、丸山純さんから何人かのみなさんに
メールが送られてきた。後田さんの「レポート」
を補完する内容なので、ほぼ全文を掲載します。

◆昨日はみなさま、私の報告会にきてくださってありがとうございました。昨夜のうちは、けっこうしゃべれたぞと感じて、それなりの満足感に浸っていたんですが、今朝になってみると、いちばん話したかったこと、このひとことを言うためにこの報告会を引き受けたもっとも肝心なことを結局言わなかったぞと気づき、ものすごく落ち込んでいます。

◆私が「なぜ同じカラーシャのところばかり通っているか」という問いへの答えとして、以下のようなことをしゃべるつもりでいました。

◆ちょうどブンブール・カーンの一家との交流や、親友となったバリベークとの出会いを通して、伊藤幸司さんが言っていたようにちょうどまさに1ヵ月経ったところで、私はいきなり、それまでの“オシ”と“ツンボ”(という表現を当時の私は使っていた)の状態から、ある日突然、カラーシャたちと自然にコミュニケートできている自分に気づいて、愕然とします。

◆まず、2週間もすると、かなりのカラーシャ語がなんとか聞き分けられるようになりました。けっこう彼らの言っていることがわかるようになった。ただし、それはきちんと思想や感情に裏打ちされた言葉としてではなく、断片的な単語の羅列として聞こえているにすぎません。知っている単語が耳に届くのを追いかけるだけで、まだせいいっぱいの状況です。

◆それが、ちょうど1ヵ月めのある日、これまでノドのところまで出てきていながらまだ声として発声するにまでいたらなかった言葉が、私の口から突然飛び出してくるようになったのです。頭に浮かぶ日本語をいちいちカラーシャ語に置き換えるのではなく、自然にカラーシャ語で考えている自分がいる! これは、ほんとに衝撃的な体験でした。カラーシャの言語世界(言語空間)に、私という日本人の世界がささやかながらつながった。その瞬間だったのです。私はついに一線を越えた! そうか、言葉というのはそういうものなのだと、心がふるえる思いがしました。

◆これは、至福の体験でした。そして、その後のカラーシャ語の習得体験を通して私は、もし火星に行っても俺は同じようなやり方で火星語をマスターできるぞ、とまで自信をもつようになります(^^;。でも、またほかの土地に、ほかの民族のところに行って同じ体験をするのは、億劫(というよりシンドイ)です。それに“浮気”をしてしまっては、せっかく私が「つながる」ことを許してくれたカラーシャに対して、なんだか申し訳ないような気持ちも湧いてきます。相手の世界とコミュニケートできたこの瞬間の思いを一生の宝物にしておきたい−−そんな思いが、私を繰り返しカラーシャのところに向かわせているんだと思います。

◆……というようなことを話したかったんですが、時間に追われてしまったのと、それまでの「地平線につながる先輩たちとの出会い」というテーマで話してしまったので、うまく語ることができませんでした。申し訳ありませんでした。

◆それから、これは“余談”ですけど、後半に写真やビデオで見せた子どもたちの笑顔ですが、あれは男一匹がのこのこ出かけていっては、簡単に引き出せるものではありません。こちらが家族で出向くからこそ、相手もすんなり自然に心を開いてくれるわけですね。「ピンクの麦わら帽子」の威力は絶大なのです(^^;。

◆もうひとつ。今年の夏に部族地帯に行くときに、最初はチトラルから派遣した職人の青年でさえ村に入れず、地元の族長の家族のお医者さんに同行してもらってようやく入域できたという話をしましたが、じつはあのとき、私たちの車の運転席の脇には、弾丸を込めたピストルが置いてありました。同じパシュトゥン族の一員である有力者が、自分のお金で寄付(プレイグラウンド建設)をしてあげるために行くのに、「これはわれわれパシュトゥンの習慣だから」とピストルを携行しなければならない。そこまで部族というものが支配的なのが、あの部族地帯(トライバル・エリア)です。会場に着いたらそのピストルの写真を入れようと思っていたのに、うっかり忘れてしまいました。

◆まだまだこまかなところはありますが、以上3点、ほんとうに心残りです。なにかの機会に、語り直したいと思っています。[丸山純


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