2004年7月の地平線報告会レポート



●地平線通信297より

先月の報告会から(報告会レポート・300)
パリ・ダカの地平線へ…
風間深志
2004.7.23(金) 新宿区榎町地域センター

記念すべき地平線第300回報告会は病床からのビデオレターという、あっと驚く形で始まった。スクリーンに写ったのは左足を3枚の円盤状の金属で固定され、ベッドに横たわる冒険ライダーの風間深志さん。その脇で江本さんがインタビューしている。風間さんはパリ・ダカでトラックとの正面衝突から200日、8回の手術を経て、現在も療養中。しかも急に感染症の疑いが発生したため、すねに通されたチューブで患部を24時間洗浄している。

◆今の状況を風間さんは「僕の過去に不幸せは一度もない。でも今は不幸せです」と語った。人は普通、自分だけは事故をしない、という根拠のない自信に満ちて生きている。ましてやパリ・ダカをサポート無しで完走し、世界でただひとり南北両極にバイクで立つほどの技術と精神力を備えた風間さんなら、そう思って当然だろう。ところが事故の原因は思わぬところに潜んでいた。レースのコースが入ったGPSがハイテク過ぎて使いこなせず、それに気をとられているうちにスタートして、たった1・3キロで事故に巻き込まれてしまったのだ。

◆問題のGPSは砂漠の中で2メートルの誤差もなく、現在位置を特定できる優れもの。ところが皮肉にもその機械が、賀曽利さんが〈神がかり〉とまでいう、風間さんの野生のカンを眠らせてしまった。「200日たった今でも、朝起きるたびに嘘じゃねえかって思うよ」そう言いたくなるのは、もっともだ。

◆ひととおり現況を聞いたあと、話は22年前のパリ・ダカへと飛ぶ。「レースが終わったあと鏡を見たら自分の顔とは思えなかったよ。狼の目をしてたね」というほど第4回のパリ・ダカは過酷を究めた。しかし、その過酷さの中で見つけた自然と人間との関係こそが冒険ライダー風間さんの原点だ。50歳を過ぎ、バイクからも遠ざかりつつある今、再び原点に戻り、地平線を追っかける新しい一歩を踏み出したい。活力溢れる父の姿を、子供たちに見せてやりたい。その思いが今回のパリ・ダカ挑戦であった。

◆「どんなことを達成しても、家族以上の勲章はないって思ってるのに、なぜ冒険しちゃうんだろーね」そう風間さんは苦笑いしながら言った。この永遠の課題に、会場にいた同類の人達はドキリとしたのではないかと思う。

◆さて後半は賀曽利さん。29年前にバイク雑誌の編集者だった風間さんと一緒に、日本一高い峠を越えた二人は「次は世界一高いところに登る」と誓う。そこからバイクのキリマンジャロ登山計画は動き出す。元モトクロス全日本チャンピオンの鈴木忠男さんを加えたこの計画は、標高4000メートルで幕を閉じた。賀曽利さんは、キリマンジャロに挑んだ頃の風間さんはまだまだ弱かった、と言った。まあ、賀曽利さんを基準にすればの話ではあるが、超人風間さんにもそんな時代があったのだと思うとホッとする。だが、そこで満足しないところが、この人の凄さで、4000メートルでリタイヤした悔しさをバネに、今度はエベレストに挑戦。高度6000メートルまで到達してしまった。

◆キリマンジャロ登山のあと二人で挑戦したパリ・ダカで、賀曽利さんは夜間走行中に木に激突。左足を骨折して緊急入院した。奇しくも22年後、風間さんがパリ・ダカで同じ左足を骨折。いま誰よりも風間さんの痛みが分かるのは、親友である賀曽利さんに違いない。その賀曽利さんはベッドの上で、次は南米大陸を走ってやる、という夢をエネルギーに変えて傷を治癒したと言った。だから風間さんも新たな夢を見てください。そして賀曽利さんと共に70歳まで走ってください。一ライダーとして応援しています。と締めたいところだが、今回は300回に相応しく、まだある。

◆25年前のお宝テープが登場したのだ。当時まだ珍しかった留守番電話を使った地平線放送は、若々しい声の地平線創設者の面々が出てくる。江本さんのノースコルからの中継は、バックに流れる風の音が臨場感抜群だ。しかしなんと言っても傑作なのは、浅野哲哉さんのインドからのレポート。途中から「こんにちわ」「おはよ」などと周囲のインド人が放送に割り込んできて「うるせー、オマエら、あっち行け!」と浅野さんが怒鳴る。その様子が目に見えるようで、会場は爆笑の渦につつまれた。[報告会の最中に、レポートを書け、と江本さんに指名され、無茶苦茶緊張したライダー 坪井伸吾]


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