2004年5月の地平線報告会レポート



●地平線通信295より

先月の報告会から(報告会レポート・297)
大内宿にかけた青春
相沢韶男(つぐお)
2004.5.28(金) 新宿区榎町地域センター

◆その名を初めて耳にしたのは7、8年前、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』をたどって大内を訪れたときだった。「この宿場が保存されることになった、そもそものきっかけはね……」と、囲炉裏端で始まった物語に登場する、“伝説の若者”。「古くて貧しいものはみな壊せ」が時代の合言葉だった高度経済成長期後半、「伝統的な暮らしの姿こそ後世に残すべき財産」と、茅葺き屋根の家が並ぶ集落のトータルな保存の必要を住民に呼びかけると同時に、外部へと発信していった相沢韶男さん。その人に会えるんだと、胸を躍らせ榎町地域センターに駆けつけた。

◆しかし、なぜ、そんな“建築史上の人”(知人の元建築学徒の言)が地平線報告会に? 謎は会場に入ってすぐに解けた。同窓会めいた、不思議に和んだ雰囲気の源泉は、地平線会議の母体の一つとなった日本観光文化研究所(観文研)OBの面々。その中には久々の宮本千晴さんの顔もある。そう、相沢さんもその昔、観文研に出入りしていた若き旅人の一人だったのだ。

◆武蔵野美術大学建築学科の学生だった相沢青年は、各地の有名建築を見聞する旅を続けるうち、最先端の現代建築より日本の伝統的な家屋に魅かれるようになっていた。そんなあるとき、調査で訪れた山梨県上野原町で、茅葺き屋根を葺く職人が福島県南会津郡下郷町の大内集落から毎年来ていることを知る。「屋根葺きの技術について、もっと詳しく聞きたい」。そこで彼は職人たちに会うため、1967年9月、大内へ向かうことになる。そして「まるで江戸時代のまま」の茅葺き屋根の集落に遭遇……。と、そこまでの「序章」は、観文研の元同僚、賀曽利隆さんと三輪主彦さんが、表紙が少し退色した『あるく みる きく』31号(1969年9月発行)をそれぞれ手にして紹介してくれた。

◆60歳となり、今は母校で民俗学と文化人類学の教授をしている“若者”は、作務衣姿で静かに現われた。「村(大内集落)とかかわって35年になりますが、これはその中で最高の、村からの褒美だと思います」。そう言ってかざしたのは、報告会の前々週の5月11日、難病と長期間におよぶ闘病の末に亡くなられた節子夫人のご霊前に届いたという香典袋。その上書きには「大内区 大内宿保存会」の名と、24人の住民の氏名が並ぶ。つまりは大内の公的組織からの香典と言える。「この35年間の村との付き合いは、すべて一軒一軒の家を訪ねて、一人一人と囲炉裏端で話し合う、という形のものでした。でも、初めて村人として扱ってくれた。これでやっと“村八分”になれたという気がします」。“他所者”でありながら、ある共同体と深くかかわり続ける道を選んだ人の、万感の思いが込められた言葉だった。

◆日本中の誰もが「豊かになりたい」と必死な時代、貧しさの象徴でもある茅葺き屋根を残そうと呼びかけるために通ってくる若者は、地元にとっては「やっかいな種」を持ち込んだ存在でもある。しかし、「ここをおしめの下がる村にしたいんだ!」(=何代にもわたって暮らしが営まれ続ける共同体になってほしい)との願いは、時間の奮いを経て徐々に村人に届いていく。思ったようにはいかない。ストレートに決まることもほとんどない。けれど、宮本常一氏直伝のフィールドワークの手法や各地を歩いて自ら体得した「村との対話法」が、少しずつ未来を開いていく。そんな様子が伝わる報告だった。

◆大内にも、じつはコンクリートの家が一軒ある。相沢さんが最初に来たときにはすでにあったというその家は、出稼ぎなどをして蓄えたお金でようやく建て替えられたもので、「そんな努力の結晶を、壊せとは言えるわけがなかった」。しかし江戸時代の面影を求めて年間80万人の観光客が訪れる今となっては、当の家の人にとっても悩みの種。「相談されて、私は何か植物でも植えて隠せと言ったんです。でも、それでは余計に目だったりする。そこで村人から出たアイデアが傑作だった。動物医の看板を出して、『只今往診中』としとけばいいっていうんですよ。参りましたね。茅葺きの村にコンクリートの家ならば西洋医じゃないか、ときた」。さらに年月が過ぎ、この家はついに今年中に取り壊されることになったそうだ。35年という気の遠くなるような時間をかけて、内側から熟していった一つの成果。それは、外からやってきた元・若者に村から香典袋が届くまでの道に重なる。

◆一度はトタンが被せられた家も草葺きに戻され、決まっていた道路の舗装もなんとかくいとめられた大内で、相沢さんが気になっているのは、本来は通路の中央に1本だけ流れていた水路が2本になっていること。これは明治時代の改修によるものだそうだが、宿場時代の姿として1本に戻したいという。「でも、この先それをどうするかは、子どもたちがやるんです。結果は子どもたちが出すんです」。10年後、20年後の大内の姿に期待できると確信した。[熊沢正子]

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