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金井シゲ |
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※地平線通信292では、タイトルが「ハワイの引力」となっているが、長野画伯による地平線通信291の案内では「アロハの引力」になっていたので、ここではそのように改めた。
ワイキキの沖に夕陽が沈むと、ビーチにフラの時間が訪れる。バイアンの木を背景に砂でこしらえた舞台にかがり火が焚かれ、フラ・ダンスショーのはじまり、はじまり。
◆こうした見せものとしてのフラ・ダンスのイメージが先行し、典型的な“リゾート地”のレッテルが貼られてきたハワイではあるが、本来のフラは人前では行わない、神に捧げる聖なる踊りだ。踊りに換言されたその詩には自然への讃歌が謳われているという。
◆そう、しげさんの旅のきっかけは、フラ(=ハワイ語で「踊り」)だった。グリーンランドで見たイヌイットの踊りも、ボルネオで見たサラワクの踊りも自然に対する感謝を現すものだった。「いいスピリットというものは身体感覚でとらえ、体で表現するもの」。(なるほど踊りに魅せられたしげさんが、報告会の前に野村万之丞のワークショップに参加してきたのだというのもうなずける)続いて行ったジャマイカのレゲエは「ビートが弾(はじ)けて、わんさわんさの重労働」で、ドキドキ緊張の連続。先住民族の死に絶えた島だからか、どこか落ち着かない。それらの旅を経てのハワイであり、フラであった。
◆オアフ島でのしげさんの毎日は、泳ぎに明け、フラにウクレレの練習と「もちろんシエスタ」、そしてフラ・ダンスショーに暮れた。ハワイは「観光客も自然に優しくなってしまう」島々だった。
◆しかし、そのハワイに群れをなしてやってくる人々を見て、しげさんは思う。「今は世界中の人がくたびれてるのね」。マウイ島で会ったある日本人女性は、空港から高級なホテルに送迎され、ホテルのプールで泳ぎ、ホテルのレストランで食事をとり、「(外に出ないことが)もったいないけれど、リラックスできればいいの」と言って帰っていった。それが悪いというのではない。リフレッシュすることはとても大事なことだ。むしろしげさんが可哀相に思うのは、旅に「癒し」を求めなくてはならないほど日常に緊張を強いられていること。「本当に癒すってどういうこと? そういう方法でなきゃダメなの? 癒されなきゃ明日からやっていけないの? 日常生活の中にそれは見つけられないの?…」投げかけはそう、続く。
◆ユーモアたっぷりの“しげ節”だが、時折するりと疑問符を挟みこむ。「こんなに疲れる社会はどうしてでき上がっちゃったの?」くたびれる社会を作ったのは、大量生産、大量消費という「欲しがらせるグローバリズム」というのが持論。人間は環境に支配される動物だからその人間を癒されなきゃならないほどに病ませた社会環境をリアルに見つめなくてはいけない。そのメッセージを「場のエネルギー」という言葉に置きかえる。“場”はエネルギーを持つ。だから、自然の中で人間が癒されるように、いいエネルギーは場から人へ、また人から人へと伝染する。邪(よこしま)な考えもまた然り。「場のエネルギー」を感じに彼女は旅に出る。
◆それにしても、と思う。120カ国も行くと、海外旅行そのものに倦んでくるのでは? 「いんや。そら、日本にだってスピリチュアルな場所はあるんだから、わざわざ行くこともないんだけどねーえ。私の旅は無駄なことなのよ。無駄。あっはっは〜」。しげさんの旅には、こうしなければならない、という切り詰めた考えはない。無駄を許容するゆとりが精神のしなやかさを生むのかな、などと、ついつい生き急ぐ私は考えるのだった。「フラフラ専門家」のしげさんの旅はまだまだ続きそうである。
◆頬がすっかり緩んだところで一転、気球の旅に挑戦していた石川直樹さんが登場。海に不時着後の恐怖の9時間を静かに語り出すと、会場の空気はたちまち引き締まった。死ぬかもしれないという場面に現実に直面したときに人は何を思うのだろう。それはこれからの彼の文章や報告で語られることだろうと期待している。続いて植村冒険賞受賞を紹介された安東浩正さん。表情はまたうってかわって本当に嬉しそうで、まさにこちらにまでいいエネルギーが伝染してくるよう。耳に障害を持ちながら次のパリダカに挑戦しようとしている田村聡さんや、「フラダンス発祥の地・モロカイ島に行っていないなんて」と憤慨するモロカイ島100キロ遠足主催者、海宝道義さんも飛び入り参加した盛りだくさんの会だった。(菊地由美子)
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