2003年7月の地平線報告会レポート



●地平線通信285より
先月の報告会から(報告会レポート・287)
サハリンの鳥居
西牟田靖
2003.7.29(火) 榎町地域センター

◆スーパーカブ(50ccバイク。法律用語では「原動機付き自転車」)の荷台に、一般家庭によくある半透明プラスチック製の衣装ケースがくくりつけてある。報告の冒頭に示された西牟田さん出発時の装備を写した写真だが、撮り方のせいもあってか、何だか頼りない。雪道対策でタイヤにはチェーンを巻いたらしい。これを聞いた、ある北海道出身の友人はこう言ったそうである。「北海道なめんなよ」

◆そんなわけで、今回報告された西牟田靖さんの旅は2000年1月、厳冬の北海道カブ旅行として始まった。何のための旅か? かつての恋人に会うためである。よりを戻すためにカブに跨り、一路北を目指したのである。北海道の冬は厳しい。路面は凍結している。いくらチェーンを巻いたとはいえ普通タイヤでは限界がある。西牟田さんはコケるのである。日に幾度もコケるのである。後にはトラック。轢かれれば一巻の終わりなのである。文字通り七転八倒。そしてついに、件の女性の働く牧場にたどり着いた! しかし牧場に滞在する西牟田氏に、女性は言ったものである。「はっきり言うけど出てけ」

◆「ちょっと待て、ホントにそれが始まりなのか?」江本御大のツッコミが入る。が、ホントにそれが始まりなのである。西牟田さんは泣きそうになって北海道一周に飛び出した。そして七転八倒、春まで北海道を回る間に、北方領土・サハリンという土地に興味をもつようになった。しばらく後ビジネスビザでサハリンに渡り、ここで今回のメインテーマ、戦前日本の遺構と出会う。草原にそびえ立つ鳥居。当時を知る人は、その草原にかつて繁華な日本人街があったと語る。

◆サハリンから帰ると、2001年に台湾へ。台湾では日本の足跡が土地の人によって保存されていた。一方次に向かった韓国では、神社は全て破壊され、わずかに残った鳥居の残骸は壁に塗り込められていた。それでも駅には東京駅を模した日本統治時代の建築様式が残っている。北朝鮮ではガイドという名の監視役が「旧日本の作ったものなどありませんっ!」と断言。建物は全て党が建てた、ということか。それでも往時の写真と見比べると、ちゃんと旧日本政府が架けた橋が。

◆2002年。中国満州へ。当時世界最速を誇った「特急あじあ」が風雨に曝され錆びの固まりと化しつつあった。故郷を一目見たいと泣く残留孤児の女性には、帰国後に必要な手続きを調べ書き送った。一連の旅で最も衝撃を受けたという大石橋の「万人坑」にも、このとき寄った。日本企業に酷使された中国人苦力の遺骨が累々と重なっていた。

◆2003年1月からは南洋諸島を回った。日本とまったく違う風土の中に、戦跡は溶け去ろうとしていた。うち捨てられた戦車も建物跡も、落書がひどい。旅の途中で出会った人々の「戦前日本」に対する反応は様々だったが、最も印象に残っているのはトラック諸島の夏島(デュブロン島)で出会ったルーカスさんだという。終戦時19 歳。彼にとって日本時代は若き日々のまぶしい思い出らしい。柔和な表情で戦艦大和に乗った体験など丸1日当時のことを話してくれた。

◆彼女と会うための旅が、走り続けるうちに傷心旅行から戦前日本の足跡を辿る旅へと変わっていった。旅先で何処へ行き何を見るかも、動きながら決めていった。すべて予定で決められた日常の延長で、旅に出てもつい自分を計画で縛ってしまったりしていると、西牟田さんの今回の旅が持つ自由なダイナミズムには憧れを感じる。10月に国後島を回って一連の旅に終止符を打つ予定だというが、北の島々で、こんどは何処へ行き、何を見るのだろうか。[松尾直樹]
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