●地平線通信284より
先月の報告会から(報告会レポート・286)
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荒野の自転車野郎冬季シベリア横断録
安東浩正
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2003.6.27(金) 箪笥町区民センター
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◆およそ200年前にも、やはりシベリアを横断した男がいた。その男、大黒屋光太夫を描いた小説『おろしや国酔夢譚』は、哀しい物語として私の内に記憶されている。なぜなら、帰りたい一心で生き延び、10年の星霜の後にようやく日本の地を踏んだ光太夫を待っていたのは、故郷のぬくもりでも、かつては共に生きた妻子でもなかった。その稀有な体験ゆえに匿われるようにしてひっそりと後生を送らなくてはならない運命と、経験を誰とも分かち合えない孤独感であったからだ。だから安東さんの口から彼の名が出る度に、その体温の高い生き様こそ重なれど、全く趣を異にする物語のはずだ、と思った。
◆安東さんの物語は95年、チベットにはじまる。やはり冬に寺の宿舎から何気なく見上げたカイラス北壁が、月光をうけて輝く光景に圧倒された。「人生の頂点だった」と語るこの体験は、彼の目をシベリアへと向けさせる。残された挑戦はシベリアしかない、と。自然の厳しさを求めてゆく旅だった。だからこそ冬でなくてはいけない。大地がドロドロになる夏期より、川や湖が凍る冬期の方が旅をしやすいという以上に、「絶対行けるところを行っても仕方ない」のであり、同様に汽車やバイクではダメなのだった。
◆2002年9月1日、サンクトペテルブルクより北、ムールマンスクから「フリーダムマシン・自転車」を漕ぎ出した。途中、雪に埋もれ、冷気にさらされ、1hに500mほどしか進めないこともあった。しかし、結果として、その速度が人と出会わせ、その無防備さが人を近づけることになる。“プレゼント好き”で“冒険物語好き”らしいロシア男の有効なひっかけ方を教えよう。それは、厳冬期のシベリアに「フリーダムマシン」をキコキコ走らせることだ。そんな酔狂な日本人を発見しようものなら、通りかかったトラックの運転手たちはきっと喜んで車内に招き入れること請け合い。
◆ある者は“お金がないに違いない”と憐れんで、またある者は“ただものじゃねぇ!”と知って。実際そのテでロシア男を次々とオトして食べ物を恵まれ、ロシア少年達までメロメロにさせてしまった人を一人、私は知っている。ちなみに、女性でも昼間からビールをラッパ飲みするというスバラシイお国柄のロシアでは、このおっきくてあったかい車を正しくは“移動式Bar”と呼ぶ。8ヶ月に渡る旅で唯一体調を崩したのも、ウォッカという名の洗礼を受けた翌日だったとか…。
◆白銀の世界へ戻ろう。すっかり親しくなって、土地の人が町の境まで送ってあげようという時、安東さんはこっそり後で戻って走り直したのだという。「自力・単独・完全横断」を達成するためには1mmたりとも他者の手を借りてはいけない。そういうストイックな旅が、単なる肉体的挑戦に思えなかったのは、「歴史好き」という側面が垣間見えたり、スライドに切り取られた荘厳な景色にセンスが光っていたからかもしれない。シベリアをただ白一色の単純な世界と思うなかれ。氷の結晶が張り付いたような針葉樹林やなかなか沈まない夕陽、旅のハイライト・バイカル湖の氷は千変万化の表情で見るものを惹きつける。殺伐としているからこそ染み入る美しさというものがある。「キツイからこそ美しいものが見えてくる」と安東さんは言っていたが、その光景にちゃっかりポーズ付きで映りこむ、その余裕がまた憎い。
◆そんな彼も凍りついた−42℃の寒さを、いや痛さを想像できるだろうか。それは「目を閉じると瞼がひっつく」温度であり、「自分の(体が発する)湿気でジャケットの内側が凍る」温度だそうだ。ストーブの燃料が切れて、氷の塊と化したシュラフに包まらなければならない夜もあった。そんな夜をどうやり過ごしたのだろう。最後まで決して崩れなかったポーカフェイスからは苦労や弱さの片鱗をも窺わせてくれない。
◆2003年5月6日、14924kmを走り終え、ゴールのマガダンに着いた。シベリアの春がすぐそこに迫っていた。このextreme cyclistにとっては、春の訪れはしばしば旅の終わりを意味する。6月5日、日本に帰国した。
◆厳しい旅の経験は、どんな局面にも耐え得る強さを与えてくれる。その一方で、個人的には刺激に麻痺しているような怖れを抱くことがある。こんな大遠征を遂げた安東さんを惹きつけ、満足させる旅が果たして残っているのだろうか? それは一体どんなextremeな旅なのだろう?そう、思わずおせっかいに訊ねると、「次は(娘のねだっている)東京ディズニーランドへ!」という軽快な答えが返ってきた。[菊池由美子]
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