2001年3月の地平線報告会レポート


●地平線通信257より

先月の報告会から(報告会レポート・257)
乱れた織り目
松本栄一
2001.3.30(金) アジア会館

■報告会の開始直前の会場で、松本栄一さんと平尾和雄さんが、「やあ、どうも」とにこやかに言葉を交わした。いかにも「先日は〜」みたいなノリだったが、「30年ぶりかな」の一言に、思わず周囲がどよめいた。

■この日の報告会は2部構成。ビデオを使った前半は、さる1月26日にグジャラート州で起きた大地震の現地報告。被災地一帯は織り物を始め、焼き物などの伝統工芸が盛んな土地で、ここ5年ばかりインドの布地にのめり込んでいる松本さんも、その縁で現地を訪れたのだった。

■後半は、写真家松本栄一のインド亜大陸遍歴30年史。「70年安保の頃、仲間がどんどんマルキストになり、心がプッツリ切れてゆく。それで、ブッダの世界が持つ多様性の中ならマルキシズムと違うものがあるんじゃないか、と思ってインドへ行った」 今は大家の風格の松本さんも、当時は痩身長髪の青年だったに違いない。インドでは、日本の仏教界がブッダガヤに建てた寺の寺男として住み込んだ。落成式に鶏をシメて食べ、村が大騒ぎになるという門出だったけれど、日々の食事は質素なベジタリアン食。禅寺特有の厳格な食事作法も手伝って、22、3歳の松本青年には、「生涯で只一度の給与生活者」の暮らしも結構キツかった。

■しかし、滞在すればするほど、ますますインドは見えなくなってきた。「ここはぼくの歯が立つ国ではない」という思いもあったという。そして、その頃出会ったダライ・ラマの周辺の人々の国を背負った凄みや、チベット難民の支えとなっている強烈な信仰心に、松本さんの関心はチベットへ向かう。30歳の時、6万円近いインドの超豪華写真集が完成。それを区切りに、写真家として80年代は計6回チベットに通い、本人いわく『チベット三昧』の時期を過ごす。

■けれども90年代に入り、雲上の国から、松本さんは再びインドに降りてくる。「チベット仏教は確かに優れているが、その炎の元はインドだ。文明を生み出すエネルギーの本体を見ないことには‥」との思いがそうさせたという。そして、どうせインドは判らないんだから、と1000枚の写真を100ページに収めた『インドおもしろ不思議図鑑』を作り、一方では、「インドの柔肌に触れた」というベナレスで、『死を待つ家』を撮った。「ここは来世への別れの言葉のある町です。見送る言葉のないのが日本の文化。死にゆく人たちに今生の労をねぎらい、来世への心構えを教えることは大切です」と語る松本さんにとって、ベナレスは『インド文明とは?』をカメラで問う、またとない覗き窓となっているようだ。

■「22歳で得たインドの断片と、53歳で得た断片がハモってくれれば‥」という素敵な言葉で、30年を1時間で駆け抜けた第2部は締め括られた。しんどいインド的不条理混沌に疲労困憊し、チベットの清浄明快な条理に憧れる。なのに人は、やっぱりカオスが恋しくなる。それは何故か。報告会の後も、つらつらそんな事を考えた。[久島弘]


to Home to Hokokukai
Jump to Home
Top of this Section