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●地平線通信245より
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神長幹雄 |
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◆売れる本とはどんな本か。それは「面白くで為になる本」「感動させて得(した気分に)させる本」だと「山と溪谷社」編集者の神長さんは言う。そうした本を作る為の編集者の心得は次の6か条だそうだ。
◆[1]外に出る:机に座って資料を広げたりやパソコンをいじるだけでなく、外に出ていろんな人と会って話をしたり、いろんなものを見たり、いろんなもの感じたりすること。
[2](集めて)捨てる:いろんな情報をできるだけかき集め、吟味・分析してエッセンスだけを残し余分なものを捨て去る。しかしながらこの捨て去るということが実に難しい。ついあれもこれもと盛り込んでしまう。いかに捨てるかが大事なところ。
[3]己の感覚を信じる:いろんな人のさまざまな意見、感想などに耳を傾けることはもちろん必要だし大切なことだが、最終的には自分の感覚を信じるしかない。自分の感覚を磨く方法はいろいろあるが、その分野での一流の人に付き合うのが最もよい。
[4]二重の目をもつ:編集者の目と読者の目と二つの視点を持つことが大事。編集者の目は当然として読者の目を持つということは、ある一定の読者層をイメージして、今どんな本を読みたがっているかを彼らの側に立って想像力をめぐらすことだ。
[5]体力仕事である:編集とは肉体労働なり。知的な仕事だとは少しも思っていない。従って、出来るだけ体を鍛えておくことは必要なことだ。先日、練習の時間も無いまま佐倉マラソンに参加したが、約3時間半で完走出来て自信を持った。
[6]売る努力をする:普通、校了を終えるとその本に対して急に冷たくなり次の本の編集へと興味が移ってしまう。最後まで面倒を見ないといけない。実際に本屋の店頭に立ってどんな人が買っていくのかなどの売れ行きを確認したりすることが大事。
◆最近本が売れないとはよく聞くが、バブル崩壊後はほんとに売れないそうだ。そめため本の点数が大変多くなった。つまり本の寿命が短くなったということだ。また、携帯電話・インターネットなどの影響で新聞・本の活字を読まなくても平気な若者が多くなったことも原因か。ともかく、質の高い本を出版して生き抜いていくしかないとのことで、本好きとしてはこういう編集者がいてくれること自体が有難い。
◆一方で旅人としての神長氏はといえば、小田実「何でも見てやろう」の世代に属し、学生時代にアルバイトで得たお金で73年から74年にかけてアメリカへ旅立ったのが始まり。殆ど事前準備・調査なしで英語はロスで勉強すればいいやとか、シスコとロスは(飛行機で1時間くらいかかるが)歩いても1日くらいの距離だろうとかいったアバウトさ。
実際に現地に行ってみて、コリャイカンというのでミシガン州立大学で半年英語の勉強をすることに。日本人は一人もいず、寮ではアメリカ人といろんな議論を交わす。第二次大戦の話ではパールハーバーと広島を同列に論じることに違和感とアジア人への蔑視を感じたそうだ。前者は奇襲とはいえ車事施設への攻撃であるのに対し、後者は戦争とはいえ一般市民を含めた無差別攻撃・大量殺戮ではないか。時はベトナム戦争の最中であった。
◆お金がなくなり、ニューヨークヘ出て稼ぐことに。サンドイッチ工場のユダヤ人経営者にかわいがられ楽な仕事につくことができた。当時アジア人の賃金(2ドル)ば白人(4ドル)の半分であった。半年働いてお金も貯まり日本へ帰ることになった。アメリカで様々な形でのアジアへの差別と蔑視を感じて、これは是が非でもアジアを見なければならないという一種脅迫観念にも似た思いに駆られての帰国であった。
◆マスコミ関係に就職しようと各社をまわり、「山と溪谷」社に入社。その後は1年に10日〜2週間位の日程で2カ国位をまわる旅を大体毎年続けている。振り返って、以前から一緒に仕事をしたいと思っていた人たち――本多勝一、沢木耕太郎、本田靖春、佐瀬稔(故人)、近藤紘一(故人)――とは、一人(近藤紘一)を除いてそれが出来だとは何ともうらやましい。氏の好奇心と情熱と足(実際に自分の足を使うこと)の賜だろう。
◆インターネット、コンビニ、携帯電話など便利でヴァーチャルな世界が広がり、若者は余り汗を流さなくなった。単純作業をしなくなった。コミュニケーションが下手になった。われわれはこのような状況下で何をなすべきか。発信するべきことは言語を問わず恥かしがらずどんどん発表すべきだとの意見には勇気づけられる。(難波賢一)
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